MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。

超未熟児で生まれた後遺症で、全盲難聴(盲ろう)となったのんたん、双子の妹あみちゃんと共に楽しく生きる家族のお話です。
子どもたちは24歳になり、毎日元気に楽しく暮らしています。
卵巣ガンになって思ったことも、少しずつ書き始めました。
ベトナム日記は、
http://limings.muragon.com/tag/?q=2019%E5%B9%B49%E6%9C%88-10%E6%9C%88%E3%80%80%E3%83%99%E3%83%88%E3%83%8A%E3%83%A0&p=4 
をご覧ください。
ベトナム家族旅行:
https://limings.muragon.com/tag/?q=2017%E5%B9%B412%E6%9C%88%E3%80%80%E3%83%99%E3%83%88%E3%83%8A%E3%83%A0
小学生だったころの子どもたちの育児日記は、こちらです。
http://limings.sweet.coocan.jp/

4年ぶりのベトナム。北部から中部へと歩いた18日間 73 - 王宮⑭ 勤政殿(塀風門)、文明殿、武顕殿、光明殿、そして日成樓(ニャットタンラウ)(2023年6月19日/6日め)

2023年6月19日 フエ王宮・日生樓(ニャットタンラウ)です。


6月19日(月)


紫禁城で
中央部に延びる、折り戸付きの廊下を、
歩きました。


折り戸付き廊下は、紫禁城のど真ん中にあります。


この廊下に沿って、
勤政殿、乾成殿、坤泰殿が並ぶ、
広いエリアなのですが、
現在は基礎が残るのみとなっています。


写真の左奥に見えている塀のようなものは、わずかに残った、勤政殿の一部です。石造りの屏風のように見えるのですが、これもまた、塀風門(ヒンプン)だったのかもしれません。

廊下の端に立って、「おーい」と呼びかけました。

廊下のはるか先を歩く夫、ふりかえりました。ふたりで、写真の撮りっこ(アホ)。😄 ほかに誰も歩いていないので、やりたい放題。笑 下の写真で、右に少しだけ見えているのが、再建中の建中樓です。


夫はそのまま、
廊下をどんどん歩いていきましたが、
MIYOは、
ぽっかりと空いた広場を突っ切って、
反対側に見える廊下の方へ歩いてみました。


広場の反対側にも屋根付きの廊下が続いていて、全体が、朱塗りの美しい回廊になっています。

ここには乾成殿があったはずなのですが、現在は、青銅の大きな鼎が残るのみです。

かつての、同じ場所の写真です。この鼎、遠くにあるので小さく見えますが、実はこんなにも大きいのです。^^

右奥に見えるのが、勤政殿の障壁(塀風門?)です。

鼎の向こう側に道があったので、そこを直進しました。右側の勤政殿(塀風門)の手前には、かつては花壇らしきものがあったようです。

ちなみにこれは、後で見つけた写真で、勤政殿(塀風門)の裏側です。多動夫、いなくなったと思ったら、いつのまにか、勤政殿の裏側にまで行って、写真を撮っていました。🤣🤣

勤政殿の真後ろに控えていたこの障壁(塀風門)は、ベトナム戦争で、テト攻勢の際に被弾していて、よく見ると弾痕が残っています。

障壁の右側は、こんなふうに、屋根付き回廊と連結されています。ここも、近年になって再建されたそうです。この奥に文明殿があり、障壁の左側の武顕殿と対になっていました。(どちらも現存していません。)


文明殿の南隣りには、
左廡(文官の詰め所)があり、
武顕殿の南隣りには、
右廡(武官の詰め所)があります。
そこから想像すると、このあたりには、
東の文官用(右側)と西の武官用(左側)
のふたつのエリアがあり、
明確に分けられていたようです。


一方MIYOは、反対側の回廊の前まで来ました。この、美しい屋根がついた部分の向こう側に、かつては光明殿(皇太子の住まい)がありました。

石段を上がって回廊の中に入り、左手(北)に向かって歩きます。鮮やかな朱の柱殿に黄金の装飾が施され、気品あふれる佇まいです。


朱塗りの廊下は、2本が平行に並んでおり、
多動夫が進んでいったのとは
別の廊下を、MIYOは歩いています。
ここで別れ別れになりましたが、😅
まあ、そのうち再会することでしょう。😄


少し歩くと、廊下の右手に、日成樓(ニャット・タン・ラウ / Nhat Thanh Lau)が見えてきました。


【日成樓】
1841年、3代紹治帝(ティエウチ帝) の治世下に建てられた2階建ての建物で、王仏殿、または宝物殿であったとされています。当初はミンタン宮殿と呼ばれましたが、カイディン帝がそれを廃止し、日生樓(ニャットタンラウ)としました。グエン朝の末期、バオダイ帝の母や後宮の女性たちは、頻繁にここに来て経を読み、平和を祈って、仏陀の名前を唱えました。
日成樓は、王宮の中でも極めて優美で美的価値の高い、2階建ての建物と言われていますが、1947年と1968年に激しく破壊され、建物の基礎だけが残りました。現在あるのは、2018年に、フエ記念碑保護センターが修復したものです。


回廊を歩いているときも、ひときわ目を引く建物です。

これは南東から見たところ。日成樓はとても優美で、上品な佇まいなのですが…、

1947年、フランス軍がフエを占領したときに、激しく破壊されました。その後、ベトナム戦争でも壊滅的な被害を受けています。当時の写真を見ると、基礎しか残っていません。息をのむような惨状です。(画像をお借りしました)

それがこんなふうになったのですから、よくぞここまで再現したものです。

日成樓は、2018年に修復を終え、現在は再び美しい姿を見せています。

西側から見たところです。

回廊に沿って歩き、角を曲がりながら、何枚も、写真を撮りました。^^

これは、1900年代初めに撮られた、日成樓(ニャットタンラウ)です。基礎部分は現在よりも高く、そして階段にも美しい彫刻が施されていたのがわかります。(画像をお借りしました)

オリジナルと全く同じではありませんが、それでも、ここまで蘇らせることができたのは、関係者の尽力の賜物だと思います。


こんな美しい建物を、
戦争で何度も壊して、
そしてまた、建て直しているのですね…。
そもそも、壊さなければいいのに。
人間は、ほんとうに愚かだなあ…
と、思わずにはいられません。


いまここ。😄


(おまけのお話)


日成樓では、女の子たちが、みんなでつながって汽車ポッポの写真を撮っていました。ベトナムの女性は、こんなふうに、全員で同じポーズをとって写真を撮るのが好きみたいで、よく見かける光景です。^^

4年前のタンロン城でもやっていました。みんなで並んで、記念写真。😄
定年でもベトナム。ハノイで始める、お仕事日記 101 - ハノイ市内観光① タンロン城址(2019年10月11日/41日め) - MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。

4年ぶりのベトナム。北部から中部へと歩いた18日間 72 - 王宮⑬ 折り戸付き廊下、内宮、勤政殿、乾成殿、坤泰殿、そして建中樓(2023年6月19日/6日め)

2023年6月19日 フエ王宮・「タ・チュオン・ドゥ」で休憩しました。^^


6月19日(月)


紫禁城のエリアに入り、
屋根のついた長い廊下を歩きました。


これは、長い廊下の終わるところを、反対側から撮った写真です。夫はここまで、まっすぐに歩き続けたようです。^^ ここからは、朱塗りの柱と金の装飾の世界になります。紫禁城の中枢部に入ったわけです。

一方MIYOは、廊下の最後まで歩かず、草むらの中を歩き始めました。前方、斜め右の方向に、赤いものが見えてきたので、近くまで行ってみます。

たくさんの扉がついているように見えます。

屋根では、龍が踊っています。

こちらも、屋根が付いた廊下でした。折り戸が取り付けられた、美しい朱塗りの廊下です。地図によると、この廊下の向こう側に、勤政殿、乾成殿、坤泰殿が並んでいたようです。

朱塗りの廊下を背に、歩いてきた方向をふりかえってみました。右に見えるのが、ここまで歩いてきた屋根付きの廊下です。眼前にある、レンガ敷きの通路の一番奥にあるのが、嘉祥門。その向こうに延寿宮のエリアが広がります。左側に塀のようなものが見えますが、ここから先が内宮でした。現在、内宮はすべてなくなっています。

内宮の位置です。現在の私たちは、折り戸付き廊下を背にして、右に屋根付き廊下、左に内宮を見ながら立っています。

折り戸のついた廊下を横切って、反対側に行きました。


それまでと同じく、
反対側にもなにもありませんでした。
ところどころに基礎が残るのみです。


この一帯は、かつては、
美しい建築物が続いた荘厳なエリアでした。
が、現在は、草に埋もれた基壇のタイルが
往事の姿を偲ばせるのみとなっています。


ここには、右から左(南から北)に向かって、勤政殿、乾成殿、坤泰殿が並んでいました。第二次大戦の終戦までは、宮殿の全ての建物が残っていました。が、フランス軍との交戦によって、フエはベトナム戦争で激戦地となり、1947年に、多くの建物が破壊されてしまいました。現在は、それらを結んでいた回廊が残るだけです。
・勤政殿
/ Điện Cần Chánh(南の大宮門を先頭に、皇帝が政務を執りました。)
・乾成殿 / Điện Càn Thành(皇帝の寝所でした。)
・坤泰殿 / Cung Khôn Thái(後宮の中心となっていました。)

さらにその背後には、建中樓もありましたが、1946年に破壊されました。
建中樓 / Lầu Kiến Trung(1923年、カイディン帝が建設しました。)

 *建中樓は、下の写真の左端に、わずかに写っています。

南から北に向かって一直線に並ぶ、勤政殿、乾成殿、坤泰殿です。すべて、現在は残っていません。

勤政殿とは、皇帝が政務を執った建物です。写真は、往時の勤政殿における儀礼の様子です。

かつて勤政殿があった場所です。今は草が生えているのみです。広場をはさんで、奥に見えているのが太和殿で、右に見えているのは右廡です。遠くには、フラッグタワーの国旗も見えますね。^^(画像をお借りしました)

乾成殿(皇帝の寝所)・坤泰殿 (後宮の中心)も、同様の状態が続きます。そして、皇帝が使用していた金の玉璽を模したオブジェの向こう側に、建中樓があります。(画像をお借りしました)

上に掲載している、9枚目の写真の左端に、建中樓が少しだけ写っていたので、拡大してみました。工事中で見学できなかったので、こんな写真しかないのですが。手前には、玉璽のオブジェも見えます。

1930年ごろの建中樓です。バロック様式の、美しい宮殿でした。(以下5枚、画像をお借りしました)

内部の装飾も、すばらしいものだったようです。

【建中樓】
1824年に建立した明遠樓を、1923年にカイディン帝が改築して建てたもので、皇帝の居住地として利用されていました。午門を正面から入り、一番奥に座している洋風建築です。正面66mにもおよぶ、煉瓦造の美しいバロック建築でした。しかし、第二次大戦後の1946年、ベトミンよって破壊されてしまいます。(当時、在留日本軍は、建物の保存を提案していたそうです。)
中国の紫禁城をモデルとしたフエ王宮は、そのほとんどがベトナム伝統的木軸工法で造られた木造建築です。しかし、皇帝の居城とされた建中樓だけは、フランスの技術による鉄筋コンクリート造の建築でした。木造建築と比べて強固で安全なので、当時の皇帝が暮らす居住地としては最適でした。しかし、細部をよく見ると、ベトナム的な装飾も施されており、越仏折衷様式の建築となっています。鉄筋コンクリート造でヨーロッパとベトナムの折衷様式である点は、カイディン帝廟のテイストと通じるものがあります。


この翌日に訪れた、カイディン帝廟。たしかに、純粋なベトナム様式には見えず、越仏折衷様式になっています。(2023年6月20日)

開口部や屋根の装飾は、建忠樓を彷彿とさせる出来栄えです。バロック様式の帝廟と言うのも、珍しいですね。^^


さて、1946年に破壊された建中樓ですが、
2018年から、再建工事が開始されました。


再建工事中の建中樓です。(画像をお借りしました)


私たちが訪れた2023年6月時点で、
建物自体は完成していて、現在は、
装飾や仕上げの段階に入っていたようです。


近い将来、こんな建中樓が見られるのかもしれません。(完成予想図)*出典:フエ古都遺跡保護センター


この宮殿は、グエン王朝最後の 2 人の皇帝、
カイディン帝とバオダイ帝の
生活や仕事の場所となりました。
1932年、バオ ダイ帝は、
その外観を残したまま、内部を改修し、
近代的な西洋の設備を追加しています。


その改修後、建中樓は、
バオダイ帝と家族の住居となりました。
ナムフォン皇后と出会ったのは、1932年。
そして結婚したのは1934年なので、
バオダイ帝による改修の時期は、
まさしくその頃と重なっています。


建中樓は、
美しいナムフォンに会ったバオダイが、
 彼女と結婚することを夢見て、
 彼女のために造らせた宮殿
と言えるのかもしれません。


バオダイ帝とナムフォン皇后、
そして子どもたちが共に暮らしたという、
建中樓。
その再建工事が終わるのは、もうすぐです。
いつか、宮殿の内部を、
ゆっくりと歩いてみたいと思います。


こうして王宮を見ていると、今現在も、
王宮内のあちこちで、修復や復元の工事が
進められていることがわかります。


6年前には工事中だった午門も、
長い工事を終えて、今回の旅では、
2階の五鳳凰樓を歩くことが
できるようになっていました。


度重なる戦争で被害を受けた、
フエ王宮の復興は、
まだまだ、現在も進行中です。
今から数年後には、必ず、
見学できるスポットが
さらに増えていることでしょう。
その頃に、また訪れるのが楽しみです。


まあ…。
それは今だから言える話で、
このときは、現時点で見られるところを
全部歩くだけでも、
そうとう難行苦行だったんですけどね…。😅


いまここ。😄

*今回の日記を書くにあたっては、建中樓に関する文献がとても少なく、苦戦しました。が、ベトナム在住の木造建築士・Koike Yusukeさんのブログを参考にさせていただき、大変助かりました。また、サイト中のお写真も、許可をいただき、使わせていただいております。
フエ王宮 建忠宮殿と再建案 | AMPLE.STYLE
Koikeさん、どうもありがとうございました。


(つづく)

4年ぶりのベトナム。北部から中部へと歩いた18日間 71 - 王宮⑫ 閉まっていた長寧宮。そして紫禁城へ。(2023年6月19日/6日め)

2023年6月19日 フエ王宮・延寿宮で。


6月19日(月)


タ・チュオン・ドゥで休憩したあと
再び、見学を開始しました。
時刻は3時。
まだまだ、日差しは強いです。😂


このあたりには、いくつかの門が残っているのですが、戦争時の爆撃で壊滅的な被害を受けており、ほとんど残骸のようになっていました。

左恭の隣りにも、同じように古い門があるのに気がつきました。

「これ、なんだろ?」と覗き込む、MIYO。

とりあえず、いっしょに写真を撮ってみました。笑

同じような門(の残骸)が、4つも続いています。


地図をのぞきこんでいた夫、
「この先には長寧宮があるはずだから、
 これはきっと、
 長寧宮に続く通路だよ。
 オレ、ちょっと見てくる。」
と言うやいなや、
連なる門の中を走って行きました。


元気だなあ…。😅
と思いながら、
MIYOはその場で待っていたのですが、
そこへ、当惑したような顔で、
夫が戻ってきました。


「…閉まってた。😥」
「へ?」


夫によると、この先は行き止まりになっていて、
それ以上行けなくなっていた、と…。


「たぶん、修復中かなにかで
 入れないんだと思う。」
と、残念そうな夫。
私も、もちろん残念だったのですが、
心のどこかで、ほっとする気持ちもありました。
「よかった。
 これで、スポットがひとつ減った。🤣🤣」
と…。


王宮に着いてから、ずっと歩いています。
かれこれ、10キロ以上は歩いています。
暑いし、だんだん疲れてきました。
もうこのへんで切り上げて、
帰ってしまいたい気持ちもありました。


でもこの日は、
「丸一日を使って、王宮を全部歩く。」
と決めていたし、
やっぱり、できるかぎり歩きたい。


そんな気持ちの中で、
自分からあきらめたのではなく、
「閉まっていたから行けなかった。」
というのは、なんだか、
天の助けのようでもありました。笑


そんなわけで今回は、
長寧宮の中には入れませんでした。


長寧宮(長生宮)です。(画像をお借りしました)


【長寧宮(Cung Trường Sanh)
1821年に建てられ、皇太后の宮殿として使われました。現在は、カフェ・展示スペースになっており、宮廷茶がポットで楽しめます(有料)。また、王族が身にまとっていた伝統衣装が展示されています。その他、ベトナムのデザイナーによる現代風のアオザイやアクセサリー、フエならではの工芸品やお土産品も展示・販売されています。


そんなわけで、長寧宮はあきらめて、次のスポットへと歩きました。これで、王宮の西側エリアはすべて歩いたことになります。

延寿宮のエリアから東の方向に開く、嘉祥門をくぐって…、

王宮の西側エリアから、再び中央エリアにもどりました。

ここからいよいよ、王宮の中央部。紫禁城が始まります。


【紫禁城(Tử Cấm Thành)
王宮の中央にあります。紫禁城は、王宮内部の宮殿地域でした。皇帝の政務および生活区画として、王宮内の他の施設とは別に、1804年に建設されました。
周囲約1km(東西342m南北308m)、高さ約3mの周壁に囲まれている敷地は、ほぼ、京都御所の半分ぐらいの面積です。紫禁城内には、主要な3つの建物が南北方向に一直線に並んでいました。
勤政殿 / Điện Cần Chánh(南の大宮門を先頭に、皇帝が政務を執りました。)
乾成殿 / Điện Càn Thành(皇帝の寝所でした。)
坤泰殿 / Cung Khôn Thái(後宮の中心となっていました。)
が、1947年に、フランス軍との交戦によって失われ、今はそれらを結んでいた回廊のみが残っています。
さらにその背後には、建中樓と明遠樓もありました。
建中樓 / Lầu Kiến Trung(正面66mにもおよぶ煉瓦造の美しいバロック建築でした。)
明遠樓(1824年に建立され、1923年にカイディン帝が改築しました。)
紫禁城は、建造当初は単に宮城と言いましたが、1822年に、建物を皇帝の色である黄色で塗り、中国に倣って「紫禁城」と改称しました。以来、紫禁城は概ね黄色で統一されています。黄色は、中国では中央を表わす色であるとともに、君王の衣服の色でした。紫禁城は、美しい建築物が続いた荘厳なエリアでしたが、20世紀半ばに、フランスとの交戦で焼失しました。現在は、草に埋もれた基壇のタイルが、往事の姿を偲ばせるのみとなっています。


紫禁城については、王宮日記の5話で、
午門から北方向に歩いたときにも、
少し書きました。
4年ぶりのベトナム。北部から中部へと歩いた18日間 64 - 王宮⑤ 紫禁城、世廟門、顕臨閣(2023年6月19日/6日め) - MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。


このときは、
草が生えているだけの現状を見て、
とりあえず紫禁城には入らず、
王宮の西部エリアに移動しました。


そのまま、西部エリアを北進し、
つきあたりを東に移動することで、
再び、紫禁城に戻ってきたわけです。


長い長い廊下が見えます。

まずは、あの長い廊下をめざして歩きます。

あはは。珍しく、夫が座ってる。🤣 さすがの多動夫もちょっとお疲れのようです。

つきあたりまで歩いて右に曲がったら…、

目の前に延びる、長い廊下。気が遠くなりそうですが、がんばって歩きます。^^

かつては紫禁城と言われ、王宮の中枢となった場所でしたが、

今では中庭が広がるのみです。

長い廊下の途中で、ふりかえってみました。


廊下の向こうに、たったいまくぐってきた、
嘉祥門が見えました。
あの門の向こう側には、延寿宮があります。
すぐ隣りのエリアなのですが、
門をひとつくぐっただけで、
ここにはまったく異なる世界がありました。


いまここ。😄


(つづく)

4年ぶりのベトナム。北部から中部へと歩いた18日間 70 - 王宮⑪ 左恭、皇太后の人力車、タ・チュオン・ドゥ(2023年6月19日/6日め)

2023年6月19日 フエ王宮・「水のパビリオン」と言われる、タ・チュオン・ドゥで。


6月19日(月)


延寿宮のあるエリアに来ています。
大きな門を入り、
塀風門(ヒンプン)の反対側に行くと、
前庭があります。
前回は、前庭西側の静明楼に行きましたが、
今回は、東側にある左恭を歩きます。


これは、延寿宮の横に続く軒です。

延寿宮の軒から左恭へは、渡り廊下でつながっています。

左恭です。


【左恭(Nhà Ta Trả)
皇太后に謁見を許された人々が待機する場として設けられました。元は木造でしたが、1927年ごろにコンクリートで改築されています。1968年にベトナム戦争によって破壊されましたが、その後再建されました。


左恭の内部です。


皇太后が使用していた人力車が
展示されていました。


この人力車は、かつて、10代皇帝であるタインタイ帝(成泰帝)が、母親である慈明恵皇后(1889-1907)に贈ったものだったそうです。フランスのオークションに出品されていた物を、2014年に、トゥアティエン=フエ省が5580000ユーロで落札しました。

左:10代タインタイ帝
右:タインタイ帝の母・慈明恵皇后


母親にプレゼントした人力車が、
100年後に8億円になるとは…。
贈ったご本人も、
想像していなかったことでしょう。😅


同じところに、輿も展示してありました。


当時、王族が移動するときは
輿に乗っていたので、
移動するスピードも
緩やかなものだったと思われます。
人力車ですいすい走るというのは、
慈明恵皇后にとって初めての体験。
さぞかし喜んだことでしょう。^^


左恭を出ると、すぐ目の前に湖があります。

私から見ると、これは「池」ではないかと思うのですが、文献では、一応、「湖」と言うことになっています。笑

周囲をぐるりと手すりで囲まれた、池、もとい、湖。笑 その中に、タ・チュオン・ドゥがあります。


【タ・チュオン・ドゥ(Tạ Trường Du)
1849年に建てられたものです。延寿宮の皇太后に祝福を与えるという意味合いがありました。長さ 28m、幅20mの長方形の湖の上に建てられており、
「水のパビリオン」と言われています。正方形の形をした伝統的なフエの家屋で、16 本の柱のある部屋や、緑色の釉薬がかけられたラピスラズリのタイルで覆われた屋根があります。床には花柄のタイルが敷かれ、壁は明るいガラスで覆われています(1850年以前は壁は木製でした)。四方に窓があるため、風通しがとても良い家屋となっています。内部は、複雑な彫刻や彫刻が施されたパネルで精巧に装飾されています。


湖の手すりに沿って、周囲をぐるりと歩いてみました。笑

この家は、湖の北岸近くに、南向きに位置しており、湖面の半分の面積を占めています。

手すりに沿って、ひとつめの角を曲がったところです。

ここからすぐ目の前に見える延寿宮。左は左恭です。

タ・チュオン・ドゥでは、主屋の横に、さらにもうひとつ、縁側風の場所が設けられていて、ここにだけ、水面に蓮の葉がありません。鯉を眺めたり、エサをやったりするための場所だったのかな、と想像しました。

ふたつめの角を曲がります。手すりにかぶせられた青竹風の瓦にもご注目ください。

ふたつめの角を曲がると、全く違った景観になります。

これはよっつめの角です。写真右端が入口で、延寿宮とは通路でつながっています。


さて、この「タ・チュオン・ドゥ」ですが、
現在はなんと、カフェになっています。^^


木製のテーブルと椅子が並んでいます。

内部の装飾もすてきです。^^


こんな、王宮の端の端まで来る人は
あまりいないようで、😅
お客さんはひとりもいません。


でも建物の入り口には、
係の男性がひとりで座っていて、
私たちを笑顔で迎えてくれました。


冷蔵庫に入っていたお水を1本購入。冷たく冷やされたお水を飲めたのが、なによりうれしかったです。夫とふたりで、一気飲み。🤣 うまく撮れなかったのですが、床には花柄のタイルが敷かれています。

3方が開放されていて、風通しのいい、タ・チュオン・ドゥ。蓮の葉に覆われた湖ごしに、延寿宮と左恭を眺めながら、しばし休憩しました。


王宮の中には、
いくつかの休憩所が設けられているのですが、
中でも、このタ・チュオン・ドゥは、
おススメの場所なのだそうです。


私たちは、何も知らないで
ここまで来てしまったんですけどね…。😅


いまここ。😄


(つづく)

4年ぶりのベトナム。北部から中部へと歩いた18日間 69 - 王宮⑩ 静明楼とナムフォン皇后(2023年6月19日/6日め)

2023年6月19日 フエ王宮・静明楼で、ナムフォン皇后の存在を知りました。


6月19日(月)


グエン朝初代皇帝であるザーロン帝が、
母親のために建てた住まいである、
延寿宮に来ています。
主宮を見学したあとは、
ヒンプンの左側(西側)にある、
静明楼に入りました。


静明楼です。これまでに見てきたものとは、趣が全く異なります。


【静明楼】
1932年に、9代皇帝であるドンカイン帝(同慶帝)の皇后(タンクン夫人)のための医院として建造されたものです。「夫人が重度のリウマチを患い、湿気の多い場所に住むことができなかったために、療養の場として建てられた」という経緯があったため、夫人の健康を気遣い、湿気の多いヴェトナムの伝統建築様式ではなく、風通しがよいフランス・コロニアル建築様式基づいて建てられたそうです。1935年にタンクン夫人が亡くなった後、静明楼は、バオダイ帝の母であるトゥクン夫人の住居となりました。その後、1950年に、建物はバオダイの一時的な居住空間として拡張されています。


玄関のポーチ。屋根の部分はベランダになっています。皇后のために造っただけあって、女性が喜びそうな外観です。花をあしらった、かわいらしい装飾がたくさん施されていました。

玄関ポーチへとつづく階段。陶片を使ったモザイク模様にもご注目ください。

静明楼の内部です。王族の写真が、たくさん飾られていました。

ダイ王朝の衣装を着たドアン・ホイ皇太后の写真です。12代皇帝であるカイディン帝(啓定帝)の妻であり、グエン朝最後の皇帝であった13代バオダイ帝の母でした。

ここで、この写真に目が留まりました。


左側は、ドアン・ホイ皇太后。
では右にいるのは誰なのでしょうか…?
そのきっぱりとした美しさから、
目をそらすことができず、
じっと彼女を見続けました。


注釈を見ると、
Nam Phương Hoàng hậu
Queen Nam Phuong (1914-1963)

とあります。
あとで調べてみたら、彼女は、
最後の皇帝であったバオダイ帝の妻。
つまり、ナムフォン皇后となった人でした。
彼女のことが気になって、気になって、
忘れることができず、
その後も、ベトナムを旅行しながら、
いくつもの文献を読みました。
(最近は、ベトナム語の文献であっても、
 ネット上で瞬時に日本語に変わってくれるので、助かります。^^)


このブログでは、
王宮内部のようすを書き続けているので、
今回は少しテーマがずれてしまうのですが、
私がとても心魅かれてしまった、
ナムフォン皇后の生涯について、
ここで書いておきたいと思います。


【ナムフオン皇后】
グエン王朝の最後の皇后です。本名はグエン・ティ・フウ・ラン(1914年12月14日ティエンザン省生まれ)。ベトナムで最も裕福な家庭に生まれました。ベトナム生まれではありますが、マリエット・ジャンヌという名前でフランス国籍も持っています。幼少期から、ベトナム国内にある学校でフランス語による教育を受けたあと、
12歳からはフランスに送られ、パリの名門女子学校に通いました。そして18歳で学士号を取得して卒業。1932年9月に、ベトナムに帰国しました。


幼少期のナムフォン。


帰国後、彼女は、ダラットでバオダイ帝に出会います。そのときに、バオダイ帝は彼女にひとめぼれしたようです。しかし彼女がカトリック教徒であったため、彼女との結婚は王室から猛反対されました。それでもバオダイ帝は、あきらめませんでした。
二人の結婚式がフエで行われたのは、1934年3月20日。新郎は21歳で、新婦は19歳でした。その後、「南の娘」を意味するナム・フォンの称号をバオダイ帝から与えられ、皇后に叙階されました。それまでの12代までは、皇后の称号が与えられるのは皇帝の妻のみで、しかも、皇帝の死後に限られていました。ナムフォンが、皇帝の存命中に皇后となったのは、極めて異例なことです。がこれは、ナムフォンの父親が、結婚に際してバオダイ帝に呈した条件でした。そしてナムフォンに首ったけだったバオダイ帝が、その約束を守ったということのようです。


バオダイ帝とナムフォン皇后です。結婚式の後、ふたりは紫禁城地区にあるキエンチュン宮殿(建中樓)に移り住みました。

皇后となったナムフォン。


富豪の家に生まれてカトリック教徒だったナムフォンは、フランスで育ったことにより、当時のベトナムにおける普通の従順な女性とは少し違っていたのかもしれません。結婚後、王宮内の古いしきたりに、従わないこともありました。ナムフォンは臆することなく、自分の考えを通したのでしょうが、そのことで、姑にあたるドアン・ホイ皇太后には、苦々しい思いもあったようです。


2年後の1936年1月、王子・バオロンを出産。

バオロン王子です。お母様に似て、超絶の美しさ。大きな目には、バオダイ帝の面影もありますね。^^

彼はその後、少年期にフランスに亡命。フランスの外人部隊で10年間活躍し、いくつもの勲章を得ています。

王子がイケメンだったのでつい脱線しましたが、ナムフォンはその後も次々と子宝に恵まれ、5人の子どもたち(王子2人、王女3人)の母となりました。


結婚当初、バオダイはナムフォンをとても愛しており、どこにでも一緒に連れて行きました。バオダイ自身も留学経験者で、13歳から19歳までの多感な時期をフランスで過ごしていただけに、同じように長くフランスで過ごしたナムフォンと、響き合うことも多かったのでしょう。ナムフォンもまた、皇后としてバオダイを支えました。フランスで育った彼女は、海外からの賓客を通訳なしでもてなし、フランスとのコミュニケーションを図るなど、多くの外交活動を行っています。


身長170㎝で美貌の持ち主だった彼女は、実は結婚前に、「ミスベトナム」に2回も選ばれています。フランスのオートクチュールを着こなすなど、美しい装いの彼女は国民の注目の的で、当時のファッションアイコンとなったそうです。

外交活動だけでなく、ナムフオンは、社会事業、学習促進、優秀な学生への報奨、貧しい人々の支援、社会における女性の役割促進においても、責任者に任命され、活躍しました。ベトナムにおいて初の、ファーストレディの役割を務めた女性であったとも言えます。


結婚後の10年あまりが、彼女にとってもっとも幸せな時期だったのかもしれません。1945年、8月革命が起こり、ベトナム民主共和国が誕生しました。同年8月30日、バオダイ帝は午門で退位を宣言し、ベトナム民主共和国臨時政府の代表に剣の印章を引き渡しました。


この頃のナムフォンと子どもたちです。


1945年9月、バオ ダイは政府の最高顧問の職を受け入れ、ハノイに赴きました。一方、ナムフォンは王宮を出て、5人の子供たちと共にアンディン宮殿に移り住み、革命を支援する多くの活動に参加しています。


王宮を出たナムフォンが子どもたちと共に住んだ、フエ・アンディン宮殿。

一家は一時、ダラットでも暮らしています。その頃に撮った、ナムフォンと子どもたちの写真です。(1947年)。


退位を宣言した頃から、バオダイは他の多くの女性と乱交の道を歩み始め、ナムフォンと暮らすことはなくなりました。ハノイに行った頃は、愛人と同居しており、その後は愛人と香港で暮らしています。


私にとって、
忘れられない、一枚があります。


バオダイ帝の写真の前で5人の子どもたちと撮った写真です。ナムフォンにとっては、家族写真のつもりだったのかもしれません。


この頃、香港でバオダイと暮らす女性に、
ナムフォンはなんと、手紙を書いています。
「夫のお世話をしているそうですね。」
と。
その手紙は、
「ベトナムで最も嫉妬に満ちた手紙」
として、今も残されているそうです。
嫉妬ではなく、
「寂しさに満ちた手紙」
だと思うのですが。


ナムフォンはずっと、
夫の帰りを待っていたのだと思います。


やがて、ベトナムとフランスの間の政治的および軍事的状況が緊張し、戦争が近づいてきました。ナムフォンは子どもたちとアンディン宮殿に住んでいましたが、義母であるドアン・ホイ皇太后も避難してしまいます。残った彼女は絶望感を抱え、ついに1947年、子どもたちを連れてフランスへ向かいます。渡仏後は、子どもたちをクーヴァン・デ・オワゾー高校に通わせました。上流階級の子弟が通う学校だったようです。そしてカンヌを離れ、パリから約500km離れたシャブリニャックの田園地帯にある、ドメーヌ・ド・ラ・ペルシュ城に移住しました。ナムフォンには、両親から受け継いだ莫大な財産があったため、生涯、生活に困ることはなかったようです。


ナムフォンが晩年に住んでいたドメーヌ・ド・ラ・ペルシュ城。


この城に住むようになってから、彼女は、時折、子供たちに会いにパリに行くことはあったようですが、社交のために外出することはほとんどありませんでした。当時は、バオダイもフランスにいたのですが、彼女に会いに来ようとはしませんでした。ナムフォンはその後、心臓病を患い、1963年9月14日、この城で息を引き取りました。48歳でした。翌日に葬儀が行われましたが、バオダイが参列することはなかったそうです。
ナムフォンの遺体は、シャブリニャックのカトリック墓地に埋葬されています。その石碑には、フランス語で「ここにベトナムの皇后が眠る - ジャンヌ - マリエット・グエン・フー・ハオ、1914年12月4日 - 1963年9月15日)」と記されており、裏には「ダイナム ナムフォン皇后陵」と漢字で書かれています。


静明楼で会った一枚の写真に魅かれ、
美しくあでやかだったナムフォンの生涯を、
知れば知るほどに、もっと知りたくなり、
いくつもの文献を読みました。


美貌の皇后として注目され、
脚光を浴びる生活を続けながらも、
グエン王朝の終焉に翻弄され、
最後は、フランスの古城で、
医師の到着を待つことすらなく、
メイドだけに見守られて、
寂しく亡くなった、ナムフォン。
容体悪化の急報を受けて、
子どもたちもかけつけたのですが、
間に合わなかったそうです。


その数奇な人生には、驚くばかりでした。
バオダイに嫁がなければ、彼女の人生は、
もっと幸せだったのかもしれない、
と、思うこともありました。


けれど彼女は、5人の子どもたちに恵まれ、
その子どもたちを守り通し、
りっぱに育てあげました。
彼らはその後、ヨーロッパで、
旧王族の名に恥じることなく、
ひっそりと、それぞれの人生を送っています。
ナムフォンの生涯は、少なくとも母親としては、
幸せだったのではないか、とも思います。


けれどもしも、もしも最期のときに、
彼女の傍らにバオダイが寄り添っていたなら。
たとえ王室が亡くなり、
皇后の座を追われようとも、
彼女はその生涯を、幸福感に満ちて
終わらせることができたのではないか…。


彼女は死の床でも、最後の瞬間まで、
バオダイを待っていたのではないか。
…そう思えてなりません。


1932年に、9代ドンカイン帝の皇后のために建てられた静明楼。最後の13代バオダイ帝が退位するまで、静明楼は皇后のための建物であり続けました。その愛らしい佇まいは、かつてこの静明楼で時を過ごした幾人もの女性たちの、喜びや悲しみをも包み込んでいるかのようでした


次回は、左恭を歩きます。


延寿宮の美しい窓から垣間見た、左恭です。

いまここ。😄


(つづく)