MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。

超未熟児で生まれた後遺症で、全盲難聴(盲ろう)となったのんたん、双子の妹あみちゃんと共に楽しく生きる家族のお話です。
子どもたちは24歳になり、毎日元気に楽しく暮らしています。
卵巣ガンになって思ったことも、少しずつ書き始めました。
ベトナム日記は、
http://limings.muragon.com/tag/?q=2019%E5%B9%B49%E6%9C%88-10%E6%9C%88%E3%80%80%E3%83%99%E3%83%88%E3%83%8A%E3%83%A0&p=4 
をご覧ください。
ベトナム家族旅行:
https://limings.muragon.com/tag/?q=2017%E5%B9%B412%E6%9C%88%E3%80%80%E3%83%99%E3%83%88%E3%83%8A%E3%83%A0
小学生だったころの子どもたちの育児日記は、こちらです。
http://limings.sweet.coocan.jp/

4年ぶりのベトナム。北部から中部へと歩いた18日間 82 - 晩ごはんは、ブンチャーと揚げ春巻きをGrabで注文 / 山口かほるさんの個展(2023年6月19日/6日め)

2023年6月19日 ブンチャーと揚げ春巻きをGrabで注文し、ホテルに届けてもらいました。


6月19日(月)


フエ王宮の中を、
閉館時間ギリギリまで歩きまわり、
顕仁門をくぐって、外に出ました。



ここからタクシーに乗って、
ホテルまで戻りました。
でも、現金がほとんどなかったので、
ドライバーさんに頼んで、
途中でATMに寄ってもらいました。笑


タンリッ ロイヤル ブティックホテル (Thanh Lich Royal Boutique Hotel)に到着。

agodaのタイムセールで、一泊朝食付きが5800円くらい(ふたり分)でした。お安かった割には、1階のロビーは広くて立派なホテルでした。

預かってもらっていた荷物を受け取り、ようやくチェックイン。

904号室です。

ドアを開けると、こんなお部屋でした。^^

フエだけに、テイストがなんだか王宮っぽい…?🤣

ベッドの反対側は、デスク、冷蔵庫、テレビ…、

さらにバスルームへと続きます。

35㎡のお部屋を予約したので、バスルームもゆったりめでした。

agodaでは、一泊の料金17617円(朝食付きの定価・ふたり分)が5812円で掲載されていました。

もちろん、モッピーを経由して予約したので、支払い額の5.75%のポイントが付与されます。^^


お部屋が広めだったのと、
67%引き
というのにつられて予約しましたが、
ゆったりしていていいお部屋でした。^^


ホテルの窓から見た、フエの街並み。遠くに見える山々がきれいでした。


時刻は6時半。
一日中歩いて疲れていたので、
もう一度食事にでかける気になれず、
晩ごはんは、
デリバリーを注文することにしました。
はい…。
Grabの出前です。😄


せっかく、Grabが使えるようになったし、
一度やってみたかったんですよ~。^^


夫がお風呂に入っている間に、
Grabのメニューをあれこれ検討しました。
注文するものを決めたら、
配達先をホテルの住所にし、
部屋番号を明記して、「注文」を押すだけ。
支払いはクレジットカードなので、
現金も不要です。
日本の出前館と変わりませんね。^^


こんな、割引クーポンのページも発見したので、試しに使ってみました。ベトナム語なので全然わからないのですが、まあ、なんとかなるだろうと。笑

そしたら、ホントに配達されちゃいました。生まれて初めての、Grab出前体験。なんか感動しました。😄

本日の晩ごはんです。ベトナムつけ麺「ブンチャー」とアイスティーのセット。そして揚げ春巻きです。ブンチャーはひとり分なのですが、おかずが大盛りで、ふたりで食べきれないくらいの量でした。

領収書はメールで届きます。無事にクーポンを使えたみたいで、30000ドンの値引きがあり、合計108000ドン(約540円)でした。

Grabから、「配達者を評価してください。」「よかったらチップもあげてください。」と言うメッセージが来たので、いちばんお安い、5000ドンのチップを選択しました。日本円で25円です。(ケチだな…😅)

こんな感じで、フエでの最初の夜は、
ホテルでおとなしく、
出前をいただきました。
大好きなブンチャーを
久しぶりに食べることができて、
うれしかったです。^^


日本では、フォーは有名だけど、
ブンチャーはなかなか食べられないし、
あっても高いです。(800円くらい)
ベトナムなら、ブンチャーは、
レストランに出前注文しても200円以下。
こうでなくてはいけません。😄


(つづく)


(お知らせ)


山口かほるさんから、個展の案内状をいただきました。国立市のギャラリーで、10月19日から24日まで開催されます(無料)。

【山口 かほる】
 1950年5月生まれ。
生後3ヶ月で脳性マヒと診断される。
10歳の時に兄嫁から絵を習い、口で描くことを始めた。
14歳で入所した施設では、4時に起き、両手が使えないから、時間をかけて朝食を自分で食べ、学校へ行った。やがて宗教に出会い、心の救いと友人を得、忍耐を学んだ。
絵画は、16年間研究所に通い、学習を重ねた。初めは口で描いたが、長年酷使した体のためにとの助言に沿い、現在は足で描いている。個展の開催多数。

4年ぶりのベトナム。北部から中部へと歩いた18日間 81 - 王宮㉒ 午門、ナム・ザオ・ダン、そして顕仁門へ。(2023年6月19日/6日め)


2023年6月19日 フエ王宮・顕仁門で。


6月19日(月)


毎日毎日、王宮の話を書き続けて
今日で22話になりました。
まさかこんなに長い連載になるとは
思っていなかったのですが、
王宮を全部歩き、
そのすべてを書こうとすると、
やはり、こんなことに
なってしまいました。😅


フエ王宮日記、最終話です。


夕陽を浴びて輝いていた午門。


「とうとう、戻ってきたね。
 結局、全部歩いちゃったね…。」


ふたりして、午門を見つめながら、
中道橋を歩きました。


在りし日の午門(1919年)。長年の改修工事が終了し、現在の午門は、このときの姿が蘇っています

夕方の午門は、夕陽を浴びて、来た時よりもずっときれいに見えました。うれしくて、何枚も写真を撮りました。

在りし日の、同じ場所の写真です。このときの坊門(牌坊)は、たくさんの鐘で装飾されています。

1935年の、同じ場所の写真です。ナム・ザオ・ダン(Đàn Nam Giao)という、皇帝の儀式を終えて、バオダイ帝の輿が戻ってきたところです。

私たちもバオダイ帝のマネをして、同じ場所で撮りました。(アホ)🤣🤣


ここで、ナム・ザオ・ダンについて、
少し書いておきたいと思います。


MIYOがナム・ザオ・ダンを知ったのは、この一枚の写真を見つけたことがきっかけでした。


この、皇帝が乗る輿が通った門は、
王宮のどこにあるのか?
…と気になったのですが、
王宮の資料をいくら調べても、
10日以上探してもわからず…。


あきらめたころに、ようやく、
「1935年に、
 Đàn Nam Giaoに向かうバオダイの行列」
と書いた文献にたどりつきました。^^
もうね、凝りすぎですね…。😅


ここで初めて、
門が王宮のものではないとわかりました。
けれど次は、「Đàn Nam Giaoとはなに?」
…という、新たな疑問が出てしまったのです。
(↑困った性格。😅)


【グエン朝のナム・ザオ・ダン(Đàn Nam Giao)
グエン王朝が、毎年春に天と地を崇拝する儀式を行った斎場です。斎場は、かつては数多く造られたのですが、現在では、王宮から5キロのところにあるナム・ザオ・ダンが、ベトナムで現存する唯一のナムザオ斎場です。
この斎場は、1806年に完成したと考えられています。以来グエン王朝では、毎年春の月(陰暦第二月)または春季月(陰暦第三月)に、王の指導のもとにザオ祭が行われるようになりました。君主制下での最後のザオ祭典は、1945年3月23日に行われました。同年8月30日、8月革命が起こり、バオダイ帝は午門で退位を宣言。これが、グエン王朝の終焉でした。
その後間もなく、1946年に起こったインドシナ戦争で、ベトナムはフランス連合と対峙しなければなりませんでした。このときから、度重なる戦争により、フエの遺跡群の深刻な劣化が始まります。ナムザオ斎場などの遺跡群も、多くが破壊されました。

1992年に、ナムザオ斎場の修復および改修工事が行われました。そして1993年12月11日、ユネスコがフエ遺跡群を世界文化遺産として認め、ナム・ザオ・ダンの遺跡群も、その中に追加されました。1997年には、国家歴史文化遺物に指定され、それを機に、さらに修復が進められました。


ナム・ザオ・ダンって、
世界遺産だったんですね。
初めて知りました。😅


2003年に修復された、トライ宮殿の門。世界遺産となったナムザオ斎場の敷地内にあります。上の、バオダイ帝の行列の写真に写っている門です。MIYOが気になってしかたがなかった門を、ここでようやく発見。😄

在りし日のトライ宮殿門。絵葉書になっていました。


…また脱線してしまいましたが。😅
話は午門に戻ります。


私たちが通ってきた午門の入場口です。門の向こうに、フラッグタワーが見えました。

馬に乗り、フラッグタワーの前を行くカイディン帝。(1925年頃)


さて。
それでは、出口に向かいます。
午門は入場専用なので、
ここからは出られません。
出場専用とされている顕仁門まで、
再び歩きます。


午門の近くに、電気自動車が停まっていました。


この自動車に乗れば、約1時間で、
王宮内を周ってくれます。
これに乗ればラクだし、
乗りたかったのですが、
そうしていたら、これほどまでに細かく、
王宮内を見ることはできませんでした。


自分の足ですべてを歩くことができて、
すごくたいへんだったけど、
今は充実感でいっぱいでした。😄


顕仁門に着きました。


【顕仁門(Hiển Nhơn-Đại Nội)
王宮の東側にある門で、北側にある和平門と共に、王宮の出口となっています。午門は入場専用です。顕仁門は、派手な彫刻と磁器モザイクなどによる細かい装飾、そしてカラフルな色合いが特徴です。
午門は皇帝専用の門として使われましたが、その一方で通用門として使われたのが、この顕仁門でした。対外的な行事を行う午門に比べ、通用門である顕仁門は、南国らしい華やかなデザインとなっています。赤青黄の三原色で塗り分けられ、上部では皇帝のシンボルである龍が踊っています。ガラス製の花の装飾で埋め尽くされた門は、広東省など中国南部の過剰な装飾を思い起こさせます。政治的な顔であった午門とは違い、いかんなく南国人気質が表現された門と言えます。


いまここ。😄

1919年に撮影された顕仁門です。元来は木造で、落ち着いた雰囲気の門でしたが、1923年に、現在の様式に建て替えられました。

すぐにわかりました。堅実な木造の門を、こんな風に作り替えた人は、カイディン帝に決まっています。🤣🤣 テイストが、建中樓や太平樓とよく似ています。カイディン帝の趣味は、一貫していてオモシロイです。

カイディン帝がバロック様式で造った建中樓。
4年ぶりのベトナム。北部から中部へと歩いた18日間 72 - 王宮⑬ 折り戸付き廊下、内宮、勤政殿、乾成殿、坤泰殿、そして建中樓(2023年6月19日/6日め)

カイディン帝の書斎として造られた太平樓。
4年ぶりのベトナム。北部から中部へと歩いた18日間 75 - 王宮⑯ 太平樓(塀風門、コリント式の柱、屋根飾り、右側面)(2023年6月19日/6日め)


堂々たる顕仁門の前で、
「すごいね…。」
とつぶやいたまま、
ふたりでしばし、立ちつくしました。


「もう、主なものは全部見た。」
と思って、ここまで気楽に歩いてきたら、
最後にがつんとやってくれました。😄


ほんとにベトナムらしくて、気持ちが華やぎます。^^

最後の最後まで楽しかった、フエ王宮。


22回もの連載におつきあいくださり、
ありがとうございました。
「いっしょに楽しんでくださる方が
 いらっしゃるといいな。」
と思うことがはげみになり、
最後まで書き続けることができました。


タイヘンだったけど、とても楽しかった王宮。上から、建中樓、坤泰殿、太平樓、乾成殿、日成樓、勤政殿、右廡・左廡、太和殿、坊門、中道橋、そして午門…。中央の紫禁城部分だけでも、かつてはこんなにたくさんの建造物がひしめいていました。


今回で王宮日記は終わりますが、
翌日から、また新たな試練が始まります。
MIYO家の旅行は、難行苦行。😂😂


ありがとうございました。


(つづく)

4年ぶりのベトナム。北部から中部へと歩いた18日間 80 - 王宮㉑ 肇廟、太廟、門樓、そして午門へ(2023年6月19日/6日め)

2023年6月19日 フエ王宮・閉館間際の午門で。


6月19日(月)


王宮の午門から入城し、
「の」の字を描くようにぐるりと回って、
歩いて歩いて、最後のスポットである、
内務府を訪れました。



上の地図を見ると、
右下の隅のエリアが、まだ残っています。
このエリアには、
太廟と肇廟
があるのですが、現在は大改修中で、
入ることができませんでした。
建物を見ることはできませんでしたが、
ベトナムの文献を調べていたところ、
損傷の調査レポートが見つかったので、
その内容を参考にしながら、
このエリアの現状を掲載しておこうと思います。


地図で最後に残っていた右下のエリアを、空から撮ったものです。中央部に、肇廟、太廟、門樓が縦に並んでいます。(以下15枚、画像をお借りしました)


まずは、このエリアの主軸となる、
太廟から見ていきます。


これは、太廟の西側にあった門の写真です。門の向こうに、太廟の美しい屋根と植木鉢が見えます。槍を持った衛兵もいますね。^^(1919年)

在りし日の太廟です。


【太廟(Thái Miếu)
 1802年に建てられた廟です。フエ王宮における最大の木造建築物で、グエン王朝のルーツ(先祖)である広南国(1558年−1777年)の歴代皇帝を祀っています。
グエン王朝が成立する以前、フエの地は広南朝阮氏が治めており、9代にわたって続きました。が、やがて西山朝に打倒されます。広南朝の皇族は皆殺しにあいましたが、ひとりだけ生き残りました。それが、後に西山朝を打倒したグエン・フック・アイン(阮福映)であり、のちの、グエン朝初代ザーロン帝です。ザーロン帝は、王宮を建造するにあたって、まず太廟の建設から始めました。ザーロン帝は広南朝の武王(位1738~65)の孫にあたり、広南阮氏の跡を継ぐ正統性を明らかにする必要がありました。そのため、歴代の王を祀る太廟を真っ先に建設したと言われています。
グエン王朝成立後、ザーロン帝は、一族の仇である西山朝の皇族を太廟に捧げて、復讐を成し遂げたことを報告しました。そしてそのまま、彼らを城外に引きずり出し処刑したと伝えられています。


太廟は、
グエン王朝の基盤
とも言える存在でした。
しかし1947年、フランス軍との交戦中、
ベトミンによって完全に破壊されました。


破壊後の太廟です。わずかに残った基礎が、草むらの中に放置され続けました。

1972年、太廟は、古い基礎の上に再建されたそうなのですが…。

これが、現在の太廟です。どうしてここまで放置されてしまったのか…。

目を覆うばかりの惨状。瓦はすべて撤去され、トタン屋根は何か所もはがれています。😲

もはや、言葉もありません…。😯

倒壊寸前なのか、つっかえ棒で支えてあります。これは国の重要文化財級の建物だと思うのですが…。

その内部です。鉄骨で数か所を支えているようですが、現在の太廟は、ほぼ廃墟となっています。

太廟の庭で。すっかり錆びて、置かれたままになっている香炉です。


続いて、太廟の北にある肇廟です。


【肇廟(Triệu Miếu)
太廟の裏手にある肇廟は、太廟の一年後、1803年に建てられました。広南朝の太祖ティエン・グエン・ホアンの父、グエン・キムを祀る場所です。肇廟もまた、太廟と同様に状態が悪く、修復が待たれています。


在りし日の肇廟です。(画像をお借りしました)

こちらも、現在はキビシイ状態です…。

内部も荒れ果てています。


さらに、東西にふたつの門が並んでいる、
門樓を見てみます。


これは、東側のクアンヒ門です。胸が痛みます。


エリア内にある門の多くは、
ひどく損傷したまま、放置されています。
倒壊の危険もあるので、安全性の観点から、
観光客は立ち入りを禁止されているそうです。


すごいモノを見てしまったなあ…
と言う、驚きしかありません。


文化財というものは、
「必ず残さなければ」という強い意思と
相当の費用をかける覚悟がないと、
守り続けることはできないのだと、
痛感しました。


けれどベトナム政府は、
太廟と肇廟をずっと放置したのではなく、
「ここまで手が回らなかった」
ということではないかな、と感じています。


ベトナムの人々は、
戦争で壊滅状態になっていた王宮内部を、
これまでも、たいへんな年月と費用をかけて、
再建してきました。


けっしてあきらめない人たちなのは、
歴史が証明済みですが、
この王宮においても、彼らは、
多くの困難を乗り越えながら、
ひとつ、またひとつ、と再建し、
美しい王宮の姿を、
取り戻してきたのだと思います。


そして今。
ようやく、太廟と肇廟を修復する段階
たどり着いたようです。


太廟と肇廟エリアの修理・復元プロジェクトは、
2026年から始まります。
工期は4年。
総工費は、2650億ドン(約16億円)以上。
建物だけでなく、庭や小道の整備も含めて、
工事が完了するのは、2030年だそうです。


あと7年。


「そのときまで生きてないよ。」
と、即座に笑いとばした、多動夫。
「いや…。73か。生きてるかな…。」
と言ったきり、黙ってしまいました。


あと7年。


7年後のMIYOは71歳。
そのときまで、元気で長生きして、
ぜひ、このエリアを歩いてみたい。


…そんな夢を持ちながら、
今を生きるのが大事なのだと思います。
たとえ本当に行けなくても、ね。😄


太廟と肇廟のあるエリアを通り過ぎて、2番通りを進みました。

修復工事中の太和殿が見えてきました。道路沿いに、ベトナム各地の写真が飾ってあります。はるか向こうの方までずうっと続く写真の数々が、「べトナムは、こんなに魅力的な国なんだよ。」と語りかけているようでした。

写真や彫像のひとつひとつを見て、楽しみながら歩きました。


そしてついに…。


午門が見えました。

夕方5時。スタート地点だった午門に、戻ってきました…。


王宮日記は、次回が最終話になります。


いまここ。😄


(つづく)

4年ぶりのベトナム。北部から中部へと歩いた18日間 79 - 王宮⑳ 閲是堂(古典舞踊トゥオン、閲是門、内務府とダークリントゥ寺院)(2023年6月19日/6日め)

2023年6月19日 フエ王宮・閉館間際の午門で。


6月19日(月)


ベトナム最古の劇場である、
閲是堂に来ています。


閲是堂内では、
・宮廷音楽の楽器
・戯曲で使う仮面
・阮朝時代の衣装や写真
・その他関連資料
などを展示しており、
公演がない時間帯は、無料で見学できます。


まずは、宮廷音楽で使われていた楽器です。

次は、戯曲(ベトナムの宮廷古典劇「トゥオン」)で使う仮面。たくさんありますね。


【トゥオン(Tuong)
ベトナムの宮廷古典劇
です。中国の京劇の影響を受け、フエの宮廷で発展しました。南部では「ハットボイ(Hat Boi)」とも呼ばれ、19世紀後半から20世紀初頭にかけて隆盛を誇りました。「見得(みえ)を切る」演技「隈取り」に似た化粧など、歌舞伎との類似点も多く見られます。宮廷で育まれたトゥオンには、宮廷内の権力闘争や戦国武将を扱った歴史ストーリーが多いのが特徴です。

その他、ベトナムの古典劇には、「チェオ(Cheo)もありますが、こちらはいわば大衆劇です。とりあげる題材も、庶民の生活に根ざしたものが多くなっています。


隈取(くまどり)が中国の京劇みたいなものもあれば、西洋のカーニバルを思わせるものもあります。

当時のベトナムの状況を考えると、中国からも西洋からも影響を受けていたのでしょう。

グエン朝のころ、閲是堂の舞台に登場していた人々です。

フランス・マルセイユ公演での写真です(1906年)。(画像をお借りしました)

そして展示は、阮朝時代の衣装や写真に移ります。

フエのトゥオン(別名ハットボーイ)で、軍閥の衣装を着た俳優たちです(1874年)。(画像をお借りしました)


フエで発展した宮廷古典劇「トゥオン」は、
現在は、ハノイの劇場でも
見ることができるそうです。
 施設名:ベトナム トゥオン劇場
     Nha Hat Tuong Trung Uong
 住所: 51 Duong Thanh, Hanoi
 営業時間:月曜・木曜 18:00-19:00 
      日曜 19:30-20:30


ベトナム トゥオン劇場です。(画像をお借りしました)


次にハノイに行くことがあったら、
ぜひ観てみたいな、と思います。😄


閲是堂の正面玄関の前にある、閲是門です。

この門をくぐって、さらに歩きます。

閲是門の外は、9番通り。この通りの向こう側にも、なにか見えたので、行ってみました。

何か、古そうな建物が見えます。右隣りにも、小さな祠のようなものがあります。

全体的にひっそりとしている雰囲気です。

職員のバイクや電気自動車が駐車していて、何かの事務棟のようにも見えます。

中に人がいるのか、なにかの物置なのか、よくわかりませんでした。

ぐるりと歩いて、裏側に行ってみました。(画像をお借りしました)

建物の反対側にまわると、そこが正面玄関でした。かつての池や噴水の残骸らしきものもあります。しかしかなり荒れ果てています。


帰宅後、この写真を知べてみて、初めて、
内務府であることがわかりました。(遅い)


【内務府(Phủ Nội Vụ)
フエ王宮内には、グエン王朝の王室様式の古代建築に加えて、西洋風の作品もあるということはあまり知られていません。この内務府もそのひとつでした。
内務府は、日本の宮内庁にあたるところで、皇帝の生活実務を司る役所です。この建物は、金、真珠、絹、貢物などの王室の宝物を製造および保管する場所として使用されました。宮殿の道具を製作するために、清の職人と首都フエの最高の職人が集まる場所でもありました。
もともとは、ミンマン帝の治世の初めである1802年に、王室の貴重な宝物を製作して保管する場所として建てたのが始まりです。当時の内宮殿は伝統的な王室建築でしたが、20 世紀初頭に、荘厳なヨーロッパ建築に基づいて再建されました。現在の建物は、1933年にバオダイ帝によって建造されたものです。このエリアには、他にも多くの建造物群がありましたが、現存しているのは、この内務府棟のみです。


今でこそ、なんだか古臭いオフィスビル
のように見えてしまうのですが、😅
当時は、西洋風の近代的な建築物として、
おそらくバオダイ帝の肝入りで
作られたものだったのでしょう。


小さな祠のように見えたのは、ダークリントゥ寺院(Đền Tối Linh Từ)でした。(斜め後ろから見たところです。)


【ダークリントゥ寺院(Tối Linh Từ)
レンガとモルタルで建てられ、伝統的なスタイルで装飾された、グエン王朝の典型的な寺院です。ドイツの後援を受けて、2012年に修復されました。装飾は、フエ建築の典型的なスタイルで、磁器モザイク、ライブカラーペインティング、エンボス加工のレリーフなどの技術を使用しています。ベトナムの伝統的な職人技を示す内外装の装飾モチーフと、ヨーロッパの寺院建築様式を組み合わせた非常にユニークな建築となっています。


右:修復される前のダークリントゥ寺院(斜め前から見たところ)
右:修復後(現在)のダークリントゥ寺院(斜め後ろから見たところ)


せっかく修復されたのですが、
高温多湿な気候のせいか、現在は再び、
劣化しつつあるように感じました。
この頃には、
夫も私もかなり疲れていたようで、
正面からの写真を撮り忘れています。😅


せっかくなので、修復して間もないころの写真を掲載しておきます。(2012年)

陶片を使ったモザイク(磁器モザイク)が美しいですね。


これでようやく、見たかったところを、
すべて歩きました。
一日中歩き続けて、
あまりにもたくさんの物を見続けて、
頭の中はぐちゃぐちゃです。😅
気がついたら、
そろそろ閉館時間になろうとしていました。


いまここ。😄


(つづく)

4年ぶりのベトナム。北部から中部へと歩いた18日間 78 - 王宮⑲ 幾暇園、ズイタン帝とタインタイ帝、そして閲是堂へ / グーグル翻訳に助けられて、アラビア風鶏の唐揚げ(2023年6月19日/6日め)

2023年6月19日 フエ王宮・紹芳園で。他に誰もいなくて、貸し切り状態。静かな庭園を満喫しました。


6月19日(月)


紹芳園で少し休憩したあと、
さらに次のスポットに向かいました。


紹芳園の東には、さらに、
幾暇園(Vườn Cơ Hạ)と言う庭があり、
その中に欽文殿があったのですが、
現存していません。
ここでは、
幾暇園の写真だけをご紹介しておきます。


幾暇園です。(画像をお借りしました)


【幾暇園と欽分殿(Vườn Cơ Hạ và Điện Khâm Văn)
庭の原型は、9世紀初頭に建設されました。1837年になって、ミン マン帝がここを王室庭園に変更して拡張し、同時に多くの種類の高価な観賞用植物を植えました。しかし、この庭園が国内外で本当に有名になったのは、ティウチー王の治世 (1841年~1847年) になってからでした。なぜならこの庭園に、共同住宅、修道院、壇、寺院など、他の多くの建物が建てられたからです。それらの主要な建物を囲むように造られた長い廊下は、トゥ フォン ニン マット ホイラン(Tứ Phương Ninh Mật Hồi Lang)と呼ばれ、幾暇園を象徴するものとなっています。


現在のトゥ フォン ニン マット ホイランです。かつて、建物を囲むように廊下が張り巡らされていたのですが、現在はそれが道路に置き換わっています。(画像をお借りしました)


幾暇園は、皇太子が勉学に勤しみ、時には休息をとる場所として使われていました。特に漢詩を好んだティエウチー帝は、景勝地であるこの庭園で詩文を作りました。現在でも、詩の碑文がいくつか残っています。
幾暇園は非常に精巧で荘厳な庭園でしたが、管理に十分な条件が整っていませんでした。そのため、20世紀初頭までに、グエン王朝が庭園内の建築物を徐々に解体してしまいました。以後、華麗で豪華な幾暇園の植物も徐々に枯れ、傷つき、忘却の彼方に消えていきました。
およそ100年もの間、忘れられた庭園となっていましたが、2013年から2014年にかけて、行政による改修が行われました。現在は、洞窟、丘、古い川や湖の痕跡を復元し、庭園は緑の木々、貴重な花や観賞植物で覆われています。庭園には大きな盆栽がいくつもおいてあり、日本の盆栽と比べてみるのも楽しみ方のひとつです。


現在、幾暇園は、
広大な遊歩道みたいになっているようです。
しかし、欽文殿は復元されておらず、
基礎が残るだけです。
そこで、幾暇園には行かず、南にある、
閲是堂に行くことにしました。


閲是堂と紹芳園の間には、長い通路が延びています。通路の左側が紹芳園で、右側が閲是堂です。奥に見えているのは、興慶門。この門の向こうに、かつては欽文殿と内務府がありました。

ここで多動夫が、「もういちど日成樓が見たい。」と言い出したので、いったん日成樓まで戻りました。笑 すると、草むらの向こうに、大きな建物が見えました。どうやらあれが閲是堂のようです。

多動夫が、わざわざ日成樓の上に上がって撮った、閲是堂。元気だなあ…。😅

これは、同じ場所から撮った、かつての閲是堂です。劇場は、1945年8月の王政崩壊直後に営業を停止しました。その後の戦争で、紫禁城の他の建造物と同様に深刻な被害を受けましたが、2015年に修復工事が完了し、現在の姿になっています。(画像をお借りしました)


閲是堂まで、再び、折り戸付きの回廊を歩いて行きました。回廊では、アオザイを着たガイドさんが説明中でしたが、ベトナム語なのでわからず。笑

回廊の壁に、かわいらしい皇帝の写真がありました。即位式の日の11代ズイタン帝です。当時8歳でした。


「こんな幼い王子が皇帝になるのは、
 おそらく、父帝が急死し、
 彼が唯一の跡取りだったからだろう。」
…と考えるのが普通だと思います。


ですが、この王子の場合は違いました。
だって彼は8番めの子どもで、
彼の上には4人もの王子がいたのですから。
ズイタンはあまりにも幼かったため、
当初、後継者リストにも、
彼の名前はありませんでした。


【ズイタン帝(維新帝)/ Duy Tân)
1900年9月19日生まれ。先帝は、父親である10代タインタイ帝(成泰帝)。タインタイ帝がフランスに反抗的であったため、追放されたあと、王位につきました。先帝には息子が多かったうえ、当時彼はわずか7歳。後継者のリストにすら入っていませんでした。
しかしフランスは、最も扱いやすい王子を皇帝にしたいと考えて捜索し、ベッドの下に隠れてコオロギと遊んでいた、ズイタンを見つけ出しました。埃だらけで遊んでいたズイタンは、内気で愚かそうに見えたので、フランスは即座に後継者に決めたそうです。その際、あまりに若すぎると言うことで、年齢を「8歳」に変更しました。
ズイタンはつまり、フランスの強引な決定によって王位についたわけです。が、その後彼は、成長と共に、徐々にフランスに対して非協力的な姿勢を強めていきます。そして1916年、密かに反仏の指導者と連絡を取り、蜂起を計画しました。しかしその計画は、フランスに知られてしまいます。ズイタンは逮捕され、 そのまま、インド洋のレユニオン島に収容されました。その後彼は、第二次世界大戦中に、ナチスドイツと戦う連合軍に加わったのですが、1945年、中央アフリカ共和国での飛行機事故に遭い、45歳で亡くなりました。1987年になってようやく、彼の遺体は、中央アフリカ共和国からベトナムに運ばれ、フエのドゥクドゥック廟(彼の祖父の墓)に埋葬されました。彼の墓は、父タインタイ帝の墓の隣りに置かれたそうです。


8歳で即位したズイタン(ほんとうは7歳)。

左:第二次世界大戦中に、フランス軍に入隊したズイタン。40歳を過ぎたころです。
右:死後42年もたって、遺体はベトナムに帰り、父タインタイ帝の墓の隣りに埋葬されました。


そして、彼の父親であるタインタイ帝と言えば、
覚えておいででしょうか。
延寿宮の日記で、少しだけご紹介しています。
母親である慈明恵皇后に、
人力車を贈った皇帝です。^^
4年ぶりのベトナム。北部から中部へと歩いた18日間 70 - 王宮⑪ 左恭、皇太后の人力車、タ・チュオン・ドゥ(2023年6月19日/6日め)


10代タインタイ帝と、母・慈明恵皇后

皇帝であったころ、ハノイを訪れたタインタイと王妃(のひとり)。王妃は西洋人だったようです。

実はこのタインタイ帝も、即位したときは、わずか10歳でした。


彼もまた、やがて反フランス思想を持ち、
フランス軍への反乱を画策しました。
そのため、18歳のときに、
フランスから退位を強制されました。
その後、息子のズイタンと共に、
レユニオン島に追放されています。


こうして見ると、
当時のグエン朝皇帝に、
権力はあったのだろうか。
…という気がします。


1883年に、清仏戦争で敗北した清が
ベトナムの宗主権を放棄したときから、
フランスのベトナム統治が始まりました。
その後、グエン朝の皇帝は、
「フランスにとって都合のいい者が即位し、
 フランスにとって好ましくない、
 と判断されると、退位させられる」
…という存在になっていきます。


フランスの植民地という位置づけの中で、
「グエン朝の皇帝」とは、50年以上もの間、
傀儡政権というか、「お飾りのような存在」
…になっていたのだと思います。



さて。
また話が脱線しました。😅


閲是堂に到着です。


【閲是堂(Duyệt Thị Đường)
ベトナム最古の劇場
です。2代ミンマン帝の命により、1826年に建設されました。閲是堂では、グエン朝時代の皇帝や皇族、外国の大使らが、宮廷音楽(雅楽)や宮廷舞踊、古典劇などの伝統芸術を鑑賞していました。
2015年に修復工事が完了し、現在ここでは、ユネスコ無形文化遺産に指定された王宮舞踊音楽を楽しむことができます。公演は1日に2回、午前10時と午後3時に各40分間おこなわれます。楽器の演奏だけでなく、ベトナムの獅子舞、アオザイを着た女性の踊り、戯曲と多彩な内容になっていて、見応えは十分です。
閲是堂内では、宮廷音楽の楽器や戯曲で使う仮面と共に、阮朝時代の衣装や写真、関連資料などを展示しており、公演していない時間帯は、無料で見学できます。
*公演は、観賞料金200,000VND(約1000円)が別途必要です。
*観客の人数が4人以下の場合は、開催されません。


閲是堂の内部です。入り口で、靴を脱いでから入ります。

舞台です。

2階から見下ろすとこうなります。

閲是堂では、毎日2回、王宮舞踊音楽(ニャーニャック)の公演が行われています。

Nhã Nhạc cung đình Huế - Di sản văn hóa nhân loại
公演は1日に2回、午前10時と午後3時に各40分間おこなわれています。


次回は、閲是堂内に展示されているものを
見ていきます。


いまここ。😄


(つづく)


(おまけのお話)


もうずいぶん前の話になるのですが、
夫が、勤務先にやってきた研修生の方から、
プレゼントでいただいた、とあるもの。
(どこの国の方であったかすらも、
 もはや覚えておりません…。)


このパッケージではっきりとわかるのは、「クノール」だけです。🤣🤣


これをいったいどうすればいいのか…。
裏の絵を何度も見たのですが、
全く理解できません。
困り果てましたが、
捨てるのも申し訳なくて…。
以来ずっと、キッチンの引き出しに
入れたままになっていました。😅


でも今朝になって、ふと思いついて、
写真を撮ってみました。


改めて見ましたが、やはりさっぱりわかりません。知りたいのは、右半分の「作り方」なのですが。わずかに付記された英語を見ても、判然としません。


で、この写真を、
グーグルレンズにかけてみました。


ひゃ~。しっかりと、日本語に変わりました。😂😂


何年も放置されていた、このスパイス。
今日初めて、
「アラビア風の唐揚げ粉」
であることが判明しました。🤣🤣
…ということで、早速、
本日のお昼ごはんに使ってみました。


何年も悩んだわりには、
そんな複雑なものではなく、
「鶏肉にまぶして、
 フライパンで揚げ焼きするだけ」

という、カンタンレシピでした。


うん。
イケます。😄
どこらへんがアラビア風なのかは、
よくわかりませんでしたが。笑
鶏肉のついでに、
冷蔵庫にあったオクラも唐揚げにして、
夫と、たまたまやってきた長女と、
3人で完食。


グーグル先生のおかげで、
長年の懸案となっていたことが
解決できました。


グーグル先生に助けられているのは、
料理だけではありません。
このところ、
フエ王宮の日記を連載していますが、
このグーグル翻訳に、毎日お世話になっています。


王宮に関して、
MIYOが知りたくなるような細かいことは、
日本語では、文献がないことが多いのです。
そういうときは、
かろうじてわかったベトナム語(単語)で
検索してでてきた文献(ベトナム語)を、
かたっぱしから日本語に変換して、
読み込んでいます。笑


最近のMIYOのブログをお読みいただき、
「なんでこんなに知ってるのか?」
「こんな古い写真をどこで見つけたのか?」
などと思われることがもしもありましたら、
それはひとえに、
グーグル翻訳のおかげです。😅


ほんと、便利な時代になりました。^^