2023年6月19日 フエ王宮・紹芳園で。他に誰もいなくて、貸し切り状態。静かな庭園を満喫しました。
6月19日(月)
紹芳園 で少し休憩したあと、 さらに次のスポットに向かいました。
紹芳園の東には、さらに、幾暇園 (Vườn Cơ Hạ)と言う庭があり、 その中に欽文殿 があったのですが、 現存していません。 ここでは、 幾暇園の写真だけをご紹介しておきます。
幾暇園です。 (画像をお借りしました)
【幾暇園と欽分殿 (Vườn Cơ Hạ và Điện Khâm Văn)】 庭の原型は、9世紀初頭に建設されました。1837年になって、ミン マン帝がここを王室庭園に変更して拡張し、同時に多くの種類の高価な観賞用植物を植えました。しかし、この庭園が国内外で本当に有名になったのは、ティウチー王 の治世 (1841年~1847年) になってからでした。なぜならこの庭園に、共同住宅、修道院、壇、寺院など、他の多くの建物が建てられたからです。それらの主要な 建物を囲むように造られた長い廊下 は、トゥ フォン ニン マット ホイラン (Tứ Phương Ninh Mật Hồi Lang)と呼ばれ、幾暇園を象徴するものとなっています。
現在のトゥ フォン ニン マット ホイランです。かつて、建物を囲むように廊下が張り巡らされていたのですが、現在はそれが道路に置き換わっています。 (画像をお借りしました)
幾暇園は、皇太子が勉学に勤しみ、時には休息をとる場所として使われていました。特に漢詩を好んだティエウチー帝は、景勝地であるこの庭園で詩文を作りました。現在でも、詩の碑文がいくつか残っています。 幾暇園は非常に精巧で荘厳な庭園でしたが、管理に十分な条件が整っていませんでした。そのため、20世紀初頭までに、グエン王朝が庭園内の建築物を徐々に解体してしまいました。以後、華麗で豪華な幾暇園の植物も徐々に枯れ、傷つき、忘却の彼方に消えていきました。 およそ100年もの間、忘れられた庭園 となっていましたが、2013年から2014年にかけて、行政による改修が行われました。現在は、洞窟、丘、古い川や湖の痕跡を復元し、庭園は緑の木々、貴重な花や観賞植物で覆われています。庭園には大きな盆栽がいくつもおいてあり、日本の盆栽と比べてみるのも楽しみ方のひとつです。
現在、幾暇園は、 広大な遊歩道みたいになっているようです。 しかし、欽文殿 は復元されておらず、 基礎が残るだけです。 そこで、幾暇園には行かず、南にある、閲是堂 に行くことにしました。
閲是堂と紹芳園の間には、長い通路が延びています。通路の左側が紹芳園で、右側が閲是堂です。奥に見えているのは、興慶門。この門の向こうに、かつては欽文殿と内務府がありました。
ここで多動夫が、「もういちど日成樓が見たい。」と言い出したので、いったん日成樓まで戻りました。笑 すると、草むらの向こうに、大きな建物が見えました。どうやらあれが閲是堂のようです。
多動夫が、わざわざ日成樓の上に上がって撮った、閲是堂。元気だなあ…。😅
これは、同じ場所から撮った、かつての閲是堂です。劇場は、1945年8月の王政崩壊直後に営業を停止しました。その後の戦争で、紫禁城の他の建造物と同様に深刻な被害を受けましたが、2015年に修復工事が完了し、現在の姿になっています。 (画像をお借りしました)
閲是堂まで、再び、折り戸付きの回廊を歩いて行きました。回廊では、アオザイを着たガイドさんが説明中でしたが、ベトナム語なのでわからず。笑
回廊の壁に、かわいらしい皇帝の写真がありました。即位式の日の11代ズイタン帝です。当時8歳でした。
「こんな幼い王子が皇帝になるのは、 おそらく、父帝が急死し、 彼が唯一の跡取りだったからだろう。」 …と考えるのが普通だと思います。
ですが、この王子の場合は違いました。 だって彼は8番めの子どもで、 彼の上には4人もの王子がいたのですから。 ズイタンはあまりにも幼かったため、 当初、後継者リストにも、 彼の名前はありませんでした。
【ズイタン帝 (維新帝)/ Duy Tân)】 1900年9月19日生まれ。先帝は、父親である10代タインタイ帝(成泰帝) 。タインタイ帝がフランスに反抗的であったため、追放された あと、王位につきました。先帝には息子が多かったうえ、当時彼はわずか7歳。後継者のリストにすら入っていませんでした。 しかしフランスは、最も扱いやすい王子を皇帝にしたい と考えて捜索し、ベッドの下に隠れてコオロギと遊んでいた、ズイタンを見つけ出しました。埃だらけで遊んでいたズイタンは、内気で愚かそうに見えたので、フランスは即座に後継者に決めたそうです。その際、あまりに若すぎると言うことで、年齢を「8歳」に変更しました。 ズイタンはつまり、フランスの強引な決定によって王位についたわけです。が、その後彼は、成長と共に、徐々にフランスに対して非協力的な姿勢を強めていきます。そして1916年、密かに反仏の指導者と連絡を取り、蜂起 を計画しました。しかしその計画は、フランスに知られてしまいます。ズイタンは逮捕され、 そのまま、インド洋のレユニオン島に収容 されました。その後彼は、第二次世界大戦中に、ナチスドイツと戦う連合軍に加わったのですが、1945年、中央アフリカ共和国での飛行機事故に遭い、45歳で亡くなりました。1987年になってようやく、彼の遺体は、中央アフリカ共和国からベトナムに運ばれ、フエのドゥクドゥック廟(彼の祖父の墓)に埋葬されました。彼の墓は、父タインタイ帝の墓の隣りに置かれたそうです。
8歳で即位したズイタン(ほんとうは7歳)。
左:第二次世界大戦中に、フランス軍に入隊したズイタン。40歳を過ぎたころです。 右:死後42年もたって、遺体はベトナムに帰り、父タインタイ帝の墓の隣りに埋葬されました。
そして、彼の父親であるタインタイ帝と言えば、 覚えておいででしょうか。延寿宮 の日記で、少しだけご紹介しています。母親である慈明恵皇后に、 人力車を贈った皇帝 です。^^4年ぶりのベトナム。北部から中部へと歩いた18日間 70 - 王宮⑪ 左恭、皇太后の人力車、タ・チュオン・ドゥ(2023年6月19日/6日め)
10代タインタイ帝と、母・慈明恵皇后
皇帝であったころ、ハノイを訪れたタインタイと王妃(のひとり)。王妃は西洋人だったようです。
実はこのタインタイ帝も、即位したときは、わずか10歳でした。
彼もまた、やがて反フランス思想 を持ち、 フランス軍への反乱を画策しました。 そのため、18歳のときに、 フランスから退位を強制 されました。 その後、息子のズイタンと共に、 レユニオン島に追放されています。
こうして見ると、当時のグエン朝皇帝に、 権力はあったのだろうか。 …という気がします。
1883年に、清仏戦争で敗北した清が ベトナムの宗主権を放棄したときから、フランスのベトナム統治 が始まりました。 その後、グエン朝の皇帝は、 「フランスにとって都合のいい者が即位し、 フランスにとって好ましくない、 と判断されると、退位させられる」 …という存在になっていきます。
フランスの植民地という位置づけの中で、 「グエン朝の皇帝」とは、50年以上もの間、 傀儡政権というか、「お飾りのような存在」 …になっていたのだと思います。
さて。 また話が脱線しました。😅
閲是堂に到着です。
【閲是堂 (Duyệt Thị Đường)】 ベトナム最古の劇場 です。2代ミンマン帝 の命により、1826年に建設されました。閲是堂では、グエン朝時代の皇帝や皇族、外国の大使らが、宮廷音楽(雅楽)や宮廷舞踊、古典劇などの伝統芸術 を鑑賞していました。 2015年に修復工事が完了し、現在ここでは、ユネスコ無形文化遺産に指定された王宮舞踊音楽 を楽しむことができます。公演は1日に2回、午前10時と午後3時に各40分間おこなわれます。楽器の演奏だけでなく、ベトナムの獅子舞、アオザイを着た女性の踊り、戯曲と多彩な内容 になっていて、見応えは十分です。 閲是堂内では、宮廷音楽の楽器や戯曲で使う仮面と共に、阮朝時代の衣装や写真、関連資料などを展示しており、公演していない時間帯は、無料で見学できます。 *公演は、観賞料金200,000VND(約1000円)が別途必要です。 *観客の人数が4人以下の場合は、開催されません。
閲是堂の内部です。入り口で、靴を脱いでから入ります。
舞台です。
2階から見下ろすとこうなります。
閲是堂では、毎日2回、王宮舞踊音楽(ニャーニャック)の公演が行われています。 VIDEO Nhã Nhạc cung đình Huế - Di sản văn hóa nhân loại 公演は1日に2回、午前10時と午後3時に各40分間おこなわれています。
次回は、閲是堂内に展示されているものを 見ていきます。
いまここ。😄
(つづく)
(おまけのお話)
もうずいぶん前の話になるのですが、 夫が、勤務先にやってきた研修生の方から、 プレゼントでいただいた、とあるもの。(どこの国の方であったかすらも、 もはや覚えておりません…。)
このパッケージではっきりとわかるのは、「クノール」だけです。🤣🤣
これをいったいどうすればいいのか…。 裏の絵を何度も見たのですが、 全く理解できません。 困り果てましたが、 捨てるのも申し訳なくて…。 以来ずっと、キッチンの引き出しに 入れたままになっていました。😅
でも今朝になって、ふと思いついて、 写真を撮ってみました。
改めて見ましたが、やはりさっぱりわかりません。知りたいのは、右半分の「作り方」なのですが。わずかに付記された英語を見ても、判然としません。
で、この写真を、グーグルレンズ にかけてみました。
ひゃ~。しっかりと、日本語に変わりました。😂😂
何年も放置されていた、このスパイス。 今日初めて、「アラビア風の唐揚げ粉」 であることが判明しました。🤣🤣 …ということで、早速、 本日のお昼ごはんに使ってみました。
何年も悩んだわりには、 そんな複雑なものではなく、「鶏肉にまぶして、 フライパンで揚げ焼きするだけ」 という、カンタンレシピでした。
うん。 イケます。😄 どこらへんがアラビア風なのかは、 よくわかりませんでしたが。笑 鶏肉のついでに、 冷蔵庫にあったオクラも唐揚げにして、 夫と、たまたまやってきた長女と、 3人で完食。
グーグル先生のおかげで、 長年の懸案となっていたことが 解決できました。
グーグル先生に助けられているのは、 料理だけではありません。 このところ、 フエ王宮の日記を連載していますが、 このグーグル翻訳 に、毎日お世話になっています。
王宮に関して、 MIYOが知りたくなるような細かいことは、 日本語では、文献がないことが多いのです。 そういうときは、 かろうじてわかったベトナム語(単語)で 検索してでてきた文献(ベトナム語)を、 かたっぱしから日本語に変換して、 読み込んでいます。笑
最近のMIYOのブログをお読みいただき、 「なんでこんなに知ってるのか?」 「こんな古い写真をどこで見つけたのか?」 などと思われることがもしもありましたら、 それはひとえに、 グーグル翻訳のおかげです。😅
ほんと、便利な時代になりました。^^