MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。

超未熟児で生まれた後遺症で、全盲難聴(盲ろう)となったのんたん、双子の妹あみちゃんと共に楽しく生きる家族のお話です。
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コロナでもウポポイ3。札幌2週間ホテル暮らし 123 - サッポロビール博物館② 開拓使麦酒醸造所とサッポロファクトリー(2021年11月14日/12日め)

(2023/04/27 19:45記)

2021年11月5日 サッポロファクトリーで。かつてはこの場所に、開拓使麦酒醸造所がありました。(北海道札幌市)


11月14日(日)


札幌で終日過ごせる最後の日。
サッポロビール博物館に来ています。


サッポロギャラリーでの、展示パネルです。1番めは、1869年。「開拓使のはじまり」でした。
*細かい説明は割愛しますが、興味のある方は写真を拡大してお読みいただければと思います。

サッポロビールのブランドロゴといえば五稜星。赤い星は、建物や煙突などいたるところで見ることができます。これは、北海道開拓使のシンボルマークでもありました。サッポロビールの前身が開拓使麦酒醸造所だったことに由来しています。

煙突の上部にもありますね。^^

展示パネルの2番めは、1875年の「ビール醸造人、誕生!」。本場ドイツで修行した日本人醸造技師を雇い入れ、開拓使のビール事業が動き出しました。

3番めは、「北海道でつくるべき!」。開拓使は、東京に醸造所を建設することを決定しました。が、中川清兵衛と村橋久成の強い意思がそれを覆しました。

4番めは、1876年の「ビール醸造所の完成」。木造2階建ての「開拓使麦酒醸造所」が完成し、北海道でのビール造りが始まりました。

開業式(1876年)の写真です。右側に積み上げられた樽をご覧ください。

このときの樽が、現在のサッポロビール博物館前に復元されています。^^

「麦とホップを製す連者(れば)ビイルとゆふ酒に奈る」(画像をお借りしました)

5番めは1877年。「札幌ビールの初出荷」です。東京で販売するビールは、氷付きで低温輸送されました。

できあがったビールは、既存の水運を利用して、札幌から小樽まで運ばれました。そして小樽から東京までは、官船で運ばれました。


【ビールの温度管理】
当時のビールはろ過技術が未熟だったため、役目を終えた酵母を完全に取り除くことができませんでした。そのため、夏季には酵母が増殖し、瓶内で発酵が進んでしまうこともありました。そのような事態を防ぐには、低温状態を維持する必要がありました。そのため、当時のビールは氷といっしょに運ばれました。さらに東京では、氷室で貯蔵・販売が行われました。


【瓶の調達】
ビール瓶の調達にも苦労しました。1876年の開業当時の日本では、近代ガラス工業が始まったばかりで、まだビール瓶を製造できるレベルではありませんでした。そのため開拓使は、輸入ビールやワインの空きビンを購入して転用しました。ビール製造が本格的に始まると、ビン不足はさらに深刻化しました。しかし、麦酒醸造所が自前のビール瓶製造所を持つまでには、さらに20年もの歳月を要しました。


1900年に竣工した、札幌麦酒製瓶所。


初めての醸造ビールは、
東京の宮内省や政府高官に
献上・寄贈されました。
が、輸送中にビールが噴き出し、
到着時には一滴も残っていませんでした。


「フキダシ、イッテキモ、ノコリナシ。」という電報が今も残っています。これを機に、ビール瓶のコルクを針金で止めて出荷するようになりました。

こんな感じですね。シャンパンのボトルのようです。^^

6番めは1880年。「札幌ビールの評判高まる」です。札幌麦酒は、その爽やかな味わいで、外国人をはじめビールの味を知る人々の間で評判となりました。

販売開始時、大びんのビール1本の価格は16銭でした。上等の日本酒一升(1.8リットル)が4銭5厘程度の時代です。ビールがたいへん高価な飲み物だったことがわかります。

7番めは1886年。「官営から民間企業へ」です。開拓使によって始まった麦酒醸造所は、明治を代表する実業家たちの経営により、さらなる発展を遂げました。

ビール事業の将来性に着目した実業家たち(浅野総一郎、渋沢栄一、大倉喜八郎)が、麦酒醸造所を譲り受け、「札幌麦酒会社」を設立しました。

8番めは1892年。「ビール醸造の近代化」です。民営化した札幌麦酒会社は、札幌第1工場を大幅に改修し、醸造技術の革新と製造能力の増強を図ります。発酵樽や貯蔵樽を増設して、現在のサッポロビール生産体制の基礎が作られました。

このコーナーでは、大幅に改修された後の札幌第1工場の模型が展示されていました。この場所は再開発され、1993年に、「サッポロファクトリー」という商業施設に生まれ変わりました。が、工場の一部は今でも保存・利用されています。模型の中央にある、長い煙突にご注目ください。

この煙突とその周囲の建物は、「サッポロファクトリー」の中に、今も残されています。
この場所を訪れたときの日記です。
コロナでもウポポイ3。札幌2週間ホテル暮らし 26 - 旧三菱鉱業寮からサッポロファクトリーへ(2021年11月5日/3日め) - MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。

そして、現在の「サッポロファクトリー」です。4階分の内部空間を大きく使って、アトリウムが作られています。赤いじゅうたんの先には、レストランエリアが広がります。
ここを訪れたときの日記です。
コロナでもウポポイ3。札幌2週間ホテル暮らし 27 - サッポロファクトリー(アウトドアカフェ ミールラウンジと札幌開拓使麦酒醸造所)/ 長女は福岡ひとり旅(2021年11月5日/3日め) - MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。


東京を出発し札幌に着いたのは、
11月3日のことでした。
そして、旅の3日めに訪れたのが、
サッポロファクトリーでした。


北海道におけるビール発祥の地である、
開拓使麦酒醸造所と、
きらびやかな光に満ちていた、
サッポロファクトリー
114年の年月を隔てて、
このふたつが、実は同じ場所にあったのだと、
このときに初めて実感しました。


今、あらためて、
このサッポロファクトリーでの写真を、
創業当時の模型に重ね合わせてみると、
感慨深いものがあります。
札幌という街の歴史の深さを
おしえられたような気がしました。


(つづく)

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