コロナでもウポポイ3。札幌2週間ホテル暮らし 124 - サッポロビール博物館③ 歴史とポスターに見る、サッポロビール(2021年11月14日/12日め)
(2023/04/28 19:45記)
2021年11月14日 サッポロビール博物館で。充実した展示内容に驚きました。(北海道札幌市)
11月14日(日)
サッポロビール博物館に来ています。
サッポロギャラリーでの、展示の続きです。
展示パネルの9番めは、1903年。「開拓使のはじまり」でした。札幌麦酒の東京進出に危機感を覚えた日本麦酒(恵比寿ビール)が、札幌麦酒と大阪麦酒(アサヒビールの前身)との合併を模索します。そして1906年(明治39年)、3社によって大日本麦酒株式会社が設立されました。
大日本麦酒株式会社の主力ブランドです。左から、恵比寿ビール、札幌ビール、朝日ビールの3ブランドを展開し、全国シェア1位となりました。
1900年(明治33年)ごろから、国産ビールの新市場として、海外が有望視されはじめました。大日本麦酒社製のビールは、台湾、満州、香港、東南アジア方面へと販路が拡張され、これにより、各社の輸出競争が激化しました。が、1914年(大正3年)、第一次世界大戦が勃発すると、ヨーロッパからアジア市場へのビールが途絶えたため、日本のビール輸出は拡大しました。
【ビールの配給制】
やがて、1937年(昭和12年)を境に、日本経済は戦時色を濃くしていきます。物不足が深刻化し、ビールも配給制となりました。そして、すべてのビール会社の銘柄別ラベルは廃止されます。
このときの配給制が、戦後のビール普及に大きく貢献することになりました。配給制度により、ビールの味をそれまで知らなかった庶民が、ビールを口にするようになったからです。こうした時代を経て、戦後のビール消費を急速に拡大させる素地がつくられました。
左:ビールの購入券。家庭用ビールは、1940年から配給制となりました。
右:お米の代わりに、ビールを受け取る主婦。1947年から、代替食としてビールが配給されるようになりました。
10番めは、1956年。「サッポロビールの復活」です。終戦後、大日本麦酒は日本麦酒と朝日麦酒に分社されました。後に、それぞれがサッポロビールとアサヒビールとなりました。また、札幌ビールと恵比寿ビールの商標権は、サッポロビールが継承しました。
11番めは、1977年。「生ビール時代を切り拓く」です。ろ過技術の進歩によって、醸造後の酵母を完全に除去できるようになりました。これにより、熱処理しない生ビールが普及し始めます。特にサッポロの生ビールは、味が良いと全国的な人気となりました。
歴代の「サッポロ黒ラベル」のビンです。1957年から2015年まで、半世紀にわたって販売されたものですが、左側2本が昭和、3本目以降が平成になってからのデザインです。
1985年、アメリカでの日本製ビールシェアで、サッポロビールが第1位になりました。
そして最後のコーナーは、「受け継がれるものづくり」です。現在のサッポロビールの麦芽やホップへのこだわりが紹介されていました。
ビールの原料となる、大麦とホップです。
開拓使が始めたビール事業では、北海道産原料を自給することが大きな使命のひとつでした。創業時から、お雇い外国人の力を得て、北海道でのホップや大麦の栽培に取り組みました。
「良い原料こそが良い品質のビールをつくる」との信念を受け継ぐサッポロビールは、世界で唯一、大麦とホップの両方を「育種」しているビール会社となりました。
いやあ…。
もう驚きました。😅
古いビールとかがただ並んでいる、
ショールームみたいなものかと
想像していたのです。(スミマセン)
こんなふうに詳しく、そして日本の歴史と共に、
詳しい説明が展開されるとは、
思ってもみませんでした。
説明のひとつひとつを読みながら、ただただ驚き、そして頭がさがりました。
ギャラリーの最後には、歴代のポスターが並んでいました。
上段左から、
草笛光子、司葉子、石原裕次郎、三船敏郎、
古谷一行、上川隆也、山﨑努。
下段左から、
北原美恵、江波杏子、岩下志麻、黒木瞳、
とんねるず、三浦友和、所ジョージ、
その次がわからなかったのですが、
矢沢永吉?でしょうか。
(ご存じの方、おしえてください。)
ラストは、西田敏行ですね。^^
ひとつひとつの写真に見入りました。
でもやっぱり、忘れられないのはコレですね。^^
1970年(昭和45年)のポスターだそうです。
私、小学5年生でした。🤣🤣
次回はいよいよ、お楽しみの試飲タイムです。^^
(つづく)