MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。

超未熟児で生まれた後遺症で、全盲難聴(盲ろう)となったのんたん、双子の妹あみちゃんと共に楽しく生きる家族のお話です。
子どもたちは24歳になり、毎日元気に楽しく暮らしています。
卵巣ガンになって思ったことも、少しずつ書き始めました。
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コロナでも滋賀県。湖の国(うみのくに)を歩く、3泊4日のおトク旅 19 - 安土城跡③(2020年9月24日/3日め)

2020年9月24日 安土城・天主跡。


9月24日


大手道→黒金門跡→仏足石→本丸跡
…と歩いてきて、
天主台跡にやってきました。


疲れて、ふてくされながらようやく石段を上がり切ったら、先に到着した夫が、のほほんと説明文を読んでいました。😟


【天主台跡】
現在あるのは、背丈ほどの高さの石垣に囲まれた、東西、南北それぞれ約28mの台地です。ここには、礎石が1〜2mおきに整然と並べられています。これが、かつての穴蔵(天主の地階)にあたります。
安土城の天主は、完成してからわずか三年後の1852年(天正10年)に焼失してしまいます。その後は訪れる者もなく、永い年月の間に瓦礫と草木の下に埋もれてしまいました。ここにはじめて調査の手が入ったのは、1940年(昭和15年)のことです。厚い堆積土を除くと、往時そのままの礎石が見事に現れたそうです。


その礎石がこれです。ここは、安土城天主の地下1階部分です。天主台の広さは、これよりはるかに大きく、二倍半近くありました。


安土城天主は、地上6階、地下1階の、
当時としては傑出した高層の大建築でした。
これ以降、全国に建てられる、
高層の天守の出発点が、
この安土城天主だったのです。


安土城の天主は、
いわゆる近世城郭の転換点となりました。
が、その具体的な姿については、諸説あります。


伊勢・安土桃山文化村(三重県)にある、安土城模擬天主です。宮上茂隆氏による復元案を採用しています。

安土城郭資料館にある、天主模型です。内藤昌氏による吹き抜け案を採用しています。


安土城は現存しておらず、
遺構しか見られないというのに、
想像力をかきたてられる、
魅力のあるお城でした。
歴史に名を残した、幾人もの武将が、
かつてはここに出入りしていたのですね…。
山の斜面に生い茂る樹木だけは、
当時と変わらないのかもしれません。


天主まで登り切った人へのご褒美。近江八幡の町が、はるか向こうまで見渡せる場所があります。^^

同じ場所から左側に目を向けると、二の丸跡が見えます。仕方がないので、がんばって、二の丸跡へと歩きます。

二の丸跡です。ここには、豊臣秀吉が1583年(天正11年)に建立した、織田信長の本廟があります。

中に入ることはできないので、門から内部を覗き込みました。

門の向こう側です。

信長は本能寺の変で明智光秀に討たれましたが、その遺体は見つかりませんでした。ここには、信長の太刀や烏帽子などが埋葬されています。

「もうこれで終わりだよね!」と言ってます。笑

「まだあるよ。」とは、コワくて言えない夫。笑


「あ、あっちになんかあるみたいだよ。
 ちょっと行ってみよう。」
…と、だまされて歩くのは、
いつものことです。😂


さて。
この日、安土城跡を歩いていたのは、
ここまでずっと、私たちふたりだけでした。
もう、安土城貸し切り状態ですよ。笑


で、黒金門跡までもどってきたとき、
ようやく、下から登ってきた、
ご夫婦らしきおふたりに出会いました。


そのおふたりは、完全に登山の格好です。
奥様らしき方ときたら、
なんと、杖まで持っておられました。
そして、
「この先、どれくらい歩きますか?」
と、MIYOに尋ねられたのです。
かなり疲れているご様子でした。


「まだまだ、先は長いんですよ。
 でも、いちばん上まで行ったら、
 ご褒美に、きれいな景色が見えますよ。
 がんばって。^^」
と答えたら、
うれしいような、がっかりしたような
複雑な表情をされていました…。


このお二人の服装に比べたら、
私の服の、なんとチャラいこと。
ちょっとスーパーにでも行くような恰好で
なにも知らずに来てしまいましたが、
安土城って、
ほとんど山登りじゃないですか。

事前になにも言わないで、
こんなに大変なことをさせるなんて…。
ふつふつと、夫への怒りがわいてきました。😟
(まあ、事前に聞いていたら、
 ここに来てないかもしれませんが。爆)


でも、怒っても、
ここで中断できないんですよね…。
しょうがないので、歩き続けました。


摠見寺跡・三重の塔です。山の中にひっそりと建っていました。


【摠見寺】
安土城築城の際、信長が他所より移築し、自らの菩提寺としました。信長の死後、火災により本堂などを焼失。現在は、礎石のみが三重の塔の北側に遺っています。昭和7年、徳川家康邸跡に、仮本堂が伝建てられ、現在に到ります。



このあと、安土山西方の内湖、西の湖が見えました。安土城は、琵琶湖の内湖に突き出た安土山にそびえ立つ、「水城」でもあったのだそうです。


美しい、水の風景でした。
滋賀県は、まさしく、
湖の国(うみのくに)でした。


(つづく)

コロナでも滋賀県。湖の国(うみのくに)を歩く、3泊4日のおトク旅 18 - 安土城跡②(2020年9月24日/3日め)

2020年9月24日 安土城・本丸跡。


9月24日


安土城跡の大手道で、
急勾配の石段を上り続けています。


道は、右に左に曲がりながら続きます。ここで道しるべを発見。

「天主、本丸跡」と書いてあります。このまま歩けば、天主に行けるようです。

ここで、「森蘭丸邸跡」を見つけました。やはり、森蘭丸の屋敷は、羽柴秀吉邸よりも信長に近かったんですね。^^ 森蘭丸は12歳で織田信長の小姓となりました。本能寺の変で、明智光秀の軍1万に囲まれて健闘するも、2人の弟と共に討死しました。享年18歳だったそうです。


「森蘭丸ってだれ?」と夫。
やはりこういうのは、
女性の方が詳しいようです。笑 


黒金門が見えてきました。


【黒金門跡】
黒金門は、安土城の中心部に入る最初の入口でした。この周辺は、安土城の中でももっとも大きな石が使われている場所です。城の防御性を高めるために、巨石を集めて頑強な構造にするとともに、訪問者にインパクトを与えようとしたと考えられています。


やれやれ、もうすこしで天主だわ…と思いながら、懸命に上ります。(あまかったんですけど。笑)

いよいよ、ここから本丸へ直行だ~と思いきや…、

道が分かれています。右手にも石段が続いていて、なにか見えます。寄り道しないで、本丸跡に直行したいのですが…、

見えちゃったら最後、そこまで歩かないと気がすまない夫。仕方なくついていきました。

遠くに見えていたのは、仏足石でした。


【仏足石(室町時代中期)】
大手道などに見られる石仏と同様に、築城当時に単なる石材として集められ、石垣に使われていたようです。昭和初期、登山道整備の際に、崩れた石垣の中から発見されました。
仏足跡は、お釈迦さまの足跡を表現したもので、古代インドでは仏像に先立ち崇拝の対象にされていました。日本では、奈良の薬師寺のものが現存する最古(奈良時代、国宝)のものとして有名です。


説明を読みながらも、疲労困憊の妻。😂😂


そしてようやく、
本丸跡に入城です。
「古の人々も、
 ここまで苦労して上ったんだろうなあ。
 毎日お勤めしてた人たちは、
 たいへんだっただろうなあ。」
と、思わずにいられません。


本丸跡


【本丸跡(本丸御殿跡)】
天主台跡のすぐ下にある広い場所です。「本丸跡には、天皇を招き入れる『御幸の間』があった」と記録されています。天主台を眼前に仰ぐこの場所は、千畳敷と呼ばれ、安土城本丸御殿の跡と伝えられています。


現在は、本丸の遺構が残るのみです。
が、かつてここには、中庭をはさんで、
3棟の建物があったようです。


この形態は、
天皇の住まいである内裏清涼殿
非常によく似ているそうです。
そのことから、
「本丸は、行幸御殿として、
 信長が天皇行幸のために用意した場所」
と考えられています。


本丸遺構平面図と建物復元平面図

かつての御殿跡ですが、今ではテーブルやイスが置かれています。庶民の私たちも、現在はここで、お弁当を広げることができるのです。^^


というわけで。
ずいぶん歩いてきましたが、
ここで位置関係を整理すると、
下の地図のようになります。



大手道の石段を延々と上がり、
黒金門跡から入城。
仏足石で寄り道し、
ようやく本丸跡にやってきました。


あとは、天主に行ったらおしまいだわ~
と、このときは思っていました。
ハズレです。😂😂😂
地図でご覧のとおり、
二の丸跡ってのが、さらにあるわけです。
そしてもちろん、
それだけではありませんでした。
怒涛の行軍、まだまだ続きます。


山道で見つけた草花。


(つづく)

コロナでも滋賀県。湖の国(うみのくに)を歩く、3泊4日のおトク旅 17 - 安土城跡①(2020年9月24日/3日め)

2020年9月24日 安土城跡で。急こう配の大手道を上ります。😂


9月23日


旅の三日めになりました。
朝食はホテルの部屋で。


前日、食べ過ぎてしまい、
あまりお腹が空いていなかったので、
お部屋のアメニティのドリップコーヒーと、
持参してきたパンで、
軽く済ませました。


さて、今日も出陣です。😂😂
この日は、琵琶湖東岸。
現在の滋賀県近江八幡市にある、
安土城跡に行きました。
城址は国の特別史跡で、
琵琶湖国定公園第1種特別地域になっています。


【安土城】
標高199mの安土山一帯にある、織田信長(1534-82)の居城跡です。安土城は、1576年(天正4年)、織田信長が丹羽長秀に命じ、約3年の歳月をかけて、現在の安土山に築城しました。大型の天守(現地では「天主」と表記)を日本で初めて持った城で、威容を誇りました。地下1階地上6階建てで、天主の高さは約32メートル。1階から4階までが吹き抜けの構造で、中は狩野永徳の金碧障壁画で飾られていたそうです。それまでの城にはない独創的な意匠で、絢爛豪華な城であったと推測されています。


安土城図。山を登らねばなりません。😂


1582年(天正10年)、明智光秀による信長への謀反(本能寺の変)の後まもなくして、何らかの原因によって焼失し、その後廃城となりました。現在は、石垣などの一部の遺構を残すのみですが、当時実際に城を観覧した宣教師などが記録を残しており、それによって、焼失前の様子をうかがい知ることができます。


安土城は、総石垣で普請された城郭であり、石垣の上に天守がある、初めての城でした。ここで培われた築城技術は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけて、相次いで日本国中に築城された近世城郭の範となります。その後、普請を手がけた石垣職人集団「穴太衆」が、全国の城の石垣普請に携わりました。こうして、石垣を使った城が、全国に広がっていったのだそうです。


安土城跡がある安土山の空中写真(1982年)。こんなに広いんですね。😂


つまり…。
安土城は、
わが国最初の本格的な天主を持つ城で、
歴史上に名を残す名城跡なのです。


安土城の城郭遺構は、
安土山の全体に分布しています。
当時の建築物としては、
 仁王門
 三重塔

が、摠見寺の境内に残っています。
また二の丸には、信長の霊廟が置かれています。


今、こうして、安土城図や航空写真を見ると、
安土城跡がかなり広いことがわかります。
つまり、か~なりたくさん
歩かねば(登らねば)ならない
ということです。
はじめに知っていれば、行かなかったかも…。


でも、なにしろ、
下調べというものをほとんどやらないMIYO。笑
たいていの旅行では、
なにも知らずに現地に行ってしまい、
夫に連れて行かれたところを歩くだけです。
この日も、安土城跡がどんなところかも知らず、
のこのことついてきてしまいました。


安土城跡の大手口。誰もいません。笑


「ここ、どこ…?」
「安土城だよ。♪♪」

という、のどかな(無知な)会話と共に、
本日の行軍が始まったのですが、
これからひどい目にあうとは、
このときはまだ、
予想だにしていませんでした。😂


まずは、受付処で入山料を払いました(700円)。


受付処を抜けると、
いきなり目に入るのがコレです。


な、なが~い石段。大手道がここから始まります。当時は、この大手道の正面に安土城が見えたようです。


【大手道】
賓客を迎えるための道とも言われ、幅6m直線で約80mです。左右に折れ曲がりながら、黒金門まで続きます(全長130m)。道の両側には、石組みの水路が走り、その外に金箔瓦がのった高い塀と石塁が連なり、さらに、屋敷群がありました。


「なにこれ。石段ばっかじゃん。
 これ、全部上るの?🤢
 こんなの聞いてないし。」
「そうだよ。♪♪😜」


夫は、私に怒られまいと、
逃げるように石段を上り始めました。
あ~、また騙された…。
しかたなく、私も上ります。
こんな石段くらいで
文句言ってる場合じゃなかったのは、
このあとでわかるのですが。爆


道の両側を走る、石組みの水路。

くずれかけた石段を上っていると、左手に、羽柴秀吉邸跡が見えました。


【羽柴秀吉邸跡】
羽柴秀吉の屋敷跡と伝えられています。上下2段にわかれた大規模な屋敷で、下段の入口には櫓門(やぐらもん)が、上段の入口には高麗門が存在したそうです。なお、この秀吉邸の櫓門は、日本最古の例として知られています。玄関を入ると式台や遠侍の間があり、その奥に主人が常住する主殿が建っていました。さらにその奥には、内台所や遠侍があります。3棟の建物を接続したこの建物群の平面積は366m2あり、この屋敷群では最大の規模でした。この遺構が発掘されたことにより、16世紀末の武家住宅の全容が明らかになりました。


羽柴秀吉邸復元図

現在見ることができるのは、遺構だけです。「城跡だけでなくて、家来の屋敷跡まであったとは。どんだけ歩かされるんだ…。」と思いながら、ションボリ歩いています。😞

そして、大手道の右手にあるのが、徳川家康邸跡。現在は、摠見寺が移設されています。家康と秀吉は、こんなにもご近所さんだったんですね。^^

ここも、遺構があります。

石段、まだまだこんなにいっぱいあります~。😂😂😂

石段を上がっていたら、異様なものを見つけました。2か所の、白いプレートをご覧ください。

石仏です。石段の中に、石仏があるのです。

見る方向を90度変えてみると、仏様の形がわかります。


【大手道跡の石仏】
築城の際に、大手道の石材として、石仏が使われています。城普請に使用する多くの石材は、近郊の山々から採取しましたが、石材や墓石等も含まれていました。出土した石仏は、本来は信仰の対象となっていたものです。が、築城当時、山から採取する石だけでは間に合わず、墓石や石仏も材料として使っていたということです。とはいうものの、材料不足だけでなく、信長自身の権威を示すという目的もあったようです。これらの石仏は、築城の経緯を示すために発見当時の状態で保存しているそうです。


石仏は、ひとつだけではありませんでした。

ここにもあります。

現在では、石仏には、必ず、お賽銭入れが添えられています。あまりにもたくさんあったので、途中から、写真を撮るのはやめました。


私は、それほど信心深いわけではありません。
それでもさすがに、
この石仏を踏んで歩く気持ちには、
なれません。
けれど当時は、この石段を多くの人が歩き、
当然のように、石仏を踏みつけていたのでしょう。


わざわざ、
こんなひどいことをしなくても…。


石段を上がりながら、
信長に対する、
怒りとも悲しみともつかない思いが、
ふつふつとわいてきました。
残念な気持ちでした。


大手道、まだまだ続きます。😂


(つづく)

コロナでも滋賀県。湖の国(うみのくに)を歩く、3泊4日のおトク旅 16 - OHMI Cuisine で晩ごはん(2020年9月23日/2日め)

2020年9月23日 三井寺・金堂で。


9月23日


ようやくホテルに帰り着きました。
3泊4日の旅のあいだで、一回くらいは、
ホテルのレストランで豪華な晩ごはんを、
と話し合っていたので、
この日は、ホテルの最上階にある、
OHMI Cuisine
を予約しました。


【OHMI Cuisine】
(ホテルのHPより)近江の食材を取り入れたお料理にスターターやスープ、さらに選べるメインは、オープンキッチンで焼き上げるダイナミックなグリル料理をご用意。 コーススタイルでお楽しみいただけます。


一日中歩いて疲れていたので、
客室からそのまま、
エレベーターで行き来できる、
というのは、助かります。


お店の入り口では、コロナに対する取り組みが様々書いてありました。手の除菌と検温をしてから、店内に入ります。

ホテルのHPでは、レストランの写真は、こんな感じです。

そしてコレは、夫が撮った、現在の OHMI Cuisine です。


店内中央に並んでいたテーブルは、
すべて取り払われています。
密にならないように、という配慮ですが、
これでは経営もたいへんだろうなあ、
と思いました。


さて、お料理です。
この日は、お昼ごはんの時間が遅かったので、
夕食は少なめにしようということになり、
いちばんお安いコース(ひとり6500円)
にしました。
マリオットのメンバーなので、
20%引きになります。^^


窓の外は琵琶湖…のはずですが、真っ暗でよくわかりません。笑

スターター:酒粕のチーズタルト

前菜:京鴨のコンフィとフォアグラ近江味噌マリネ、菜園風。

スープ:滋賀県産さつまいもと甘酒のポタージュ アンチョビ風味

グリル:近江鶏もも肉と近江秋野菜のグリル。近江果実のチャツネ、西洋山葵ソース

デザート:レモン風味のパンナコッタ 巨峰のコンフィチュールにバニラアイスをのせて


デザートには、
「マリオット」のロゴ入りの
ホワイトチョコレートが
かぶせてありました。
でも、私も夫も、つい、「森永かな?」と、
庶民的な発想をしてしまいました…。🤣


そしてお支払いですが、
実は、こんなものがあったのです。


マリオット・ギフトカード。


昨年の11月に、プーケットの
Marriott Vacation Club
に宿泊したのですが、
そのときに、マリオットから
プレゼントされたものです。


このカード、
「世界中のマリオットで利用できますよ。」
と言われたのですが、
その後のコロナ騒ぎで旅行にも行けず、
いただいたことをすっかり忘れていました。


今回、ふと思い出して使ってみたら、
なんと、100ドルもはいっていました!😍😍
おかげで、この日の夕食は、
ほとんどタダ、でした。
すばらしい。^^


夕食のあとは、温泉に入って、
さらに、お部屋でデザートタイムです。


コレですよ。^^ 三井寺の境内で買った、「三井寺力餅」。

柔らかいお餅に、緑色のきな粉がたっぷりとまぶしてあります。この緑色は、国産の青大豆で作られたきな粉に、抹茶を混ぜて作っているからだそうです。綺麗な緑色のきな粉に、蜜の上品な甘みが加わって、とてもおいしいお餅でした。


こうして、旅の二日めが終わりました。
私はかなり疲れていたようで、
力餅を食べた後にちょっと横になったら、
そのまま朝まで寝てしまいました。


(つづく)

コロナでも滋賀県。湖の国(うみのくに)を歩く、3泊4日のおトク旅 15 - 比叡山延暦寺②(2020年9月23日/2日め)

2020年9月23日 比叡山延暦寺・阿弥陀堂。


9月23日


根本中堂を出て、
目の前の石段を上がりました。
石段の向こうに、なにか見えています。


文殊楼です。1688年(寛文8年)のもので、比叡山の総門の役目を果たす重要な楼門です。文殊菩薩がまつられていて、受験生の合格祈願に人気があります。谷崎潤一郎の小説「二人の稚児」の舞台にもなっていて、柔らかい質感を感じさせる佇まいです。(大津市指定文化財)


文殊楼に祀られているのは、
知恵を司ると言われる「文殊菩薩」です。
楼の階上にあがって、
お参りすることができるようになっていて、
夫はさっそく上って、
階上もくまなく見ていました。


鐘があったら撞いてみたいし、
階段があったら、上がってみたい…。
私はもう、疲れきっていて、
ついていけません。😂😂


横から見た文殊楼。たくさんの絵馬がかけられています。

大黒堂。かっては政所、食堂ともいわれていました。日本で初めて大黒様がお祀りされたところだそうです。ご本尊に、大黒天、毘沙門天、辨財天の三つの顔を持つ三面大黒天がお祀りされています。この大黒様は、商売繁盛、五穀豊穣などのご利益があるとされています。豊臣秀吉も深く信仰していたそうです。

阿弥陀堂。延暦寺開創1150年を記念して、昭和12年に建立されたものです。先祖や故人を供養するお堂で、毎日回向法要が行なわれています。京都伏見の国宝・法界寺阿弥陀堂を模した建物で、本尊として阿弥陀如来が祀られています。

側面から見たところ。秋のウロコ雲に映えますね。

阿弥陀堂は、法華総持院東塔(ほっけそうじいんとうとう)と並んで建っています。

右が阿弥陀堂で、左が法華総持院東塔です。

法華総持院東塔の前まで歩きました。阿弥陀堂がこんなふうに見えます。

法華総持院東塔。伝教大師(最澄)は、日本全国6カ所の聖地に宝塔を建立しました。法華総持院東塔はそれらを総括する宝塔で、根本中堂と共に、重要な信仰道場です。1980年、信長の焼討ちから400年ぶりに再建されました。塔の朱と自然の緑が溶け合って、優美なコントラストを見せています。

周囲は樹木が生い茂っていて、たいへん静かな環境です。訪れているのも、私たちだけ。ゆっくりと拝観することができました。


ここで、延暦寺の拝観は、
ひとくぎりとしました。
全部見るためには、まだまだ、
何度も来なければならないようです。


阿弥陀堂から、駐車場まで戻りました。途中、琵琶湖が見渡せる場所があり、眺望を楽しみながら歩きました。

延暦寺の概略図です。東塔、西塔、横川のみっつのエリアで構成された、広大なお寺です。


私たちがこの日歩いたのは、
上の地図の左下の、小さな部分です。
拡大してみると、下の地図のようになります。


バスセンターから入山し、大講堂、根本中堂、(文殊楼、大黒堂を通って)延暦寺会館まで行き、そこから引き返して、阿弥陀堂、法華総持院東塔まで歩きました。地図ではとても小さく見えますが、2時間近く歩いたような気がします。延暦寺は、本当に広かったです。😂


この日の朝は、
ミシガンクルーズから始まったんですよ。
あまりにもいろいろありすぎて、
もう、忘れちゃってましたよね…。😂


ようやく、ホテルに戻りました。


いつものことながら、
夫が企画した旅行は、
旅行というよりも「行軍」に近く、
「怒涛の市内観光」で明け暮れます。
本日も、疲労困憊です。


(つづく)