MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。

超未熟児で生まれた後遺症で、全盲難聴(盲ろう)となったのんたん、双子の妹あみちゃんと共に楽しく生きる家族のお話です。
子どもたちは24歳になり、毎日元気に楽しく暮らしています。
卵巣ガンになって思ったことも、少しずつ書き始めました。
ベトナム日記は、
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をご覧ください。
ベトナム家族旅行:
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小学生だったころの子どもたちの育児日記は、こちらです。
http://limings.sweet.coocan.jp/

コロナでもウポポイ3。札幌2週間ホテル暮らし 36 - 北海道開拓の村⑧(旧近藤医院、旧武岡商店)(2021年11月6日/4日め)

2021年11月6日 開拓の村で、ソーケシュオマベツ駅逓所で下車してから、お馬さんと。(北海道札幌市)


【お知らせ】
3月25日から、長野に行ってきます。ブログは、少しお休みをいただきます。


11月6日(土)


旧武井商店酒造部の隣りにある、
旧近藤医院に行きました。


旧近藤医院です。玄関先のポーチやバルコニーなど、しゃれた造りになっています。


【旧近藤医院】
1902年(明治35年)に、古平郡古平町に建てられた病院です。1900年(明治33年)、函館病院から古平病院長として招かれた近藤清吉が、後に古平町で開業したときに建てたもので、1958年(昭和33年)まで使われました。併設の石造2階建の倉は明治後期に建てられた文庫倉で、清吉の書庫及び研究室として使われました。

玄関先のポーチ、バルコニー、下見板張の外壁、上げ下げ窓などに、当時の洋風木材建築の特色が見られ、地方の医院建築としては斬新なものでした。1階の受付・薬局、診察室、手術室、茶の間などは、1921年(大正10年)頃のようすを再現しています。


中に入ります。

ここで靴を脱いで上がります。玄関の左手には、受付の小窓があります。

受付の小窓の内側は、薬局になっています。

奥の部屋が薬局で、手前の囲炉裏がある部屋は待合室だったようです。

薬局です。たくさんの薬瓶がならんでいました。

待合室です。

診察室です。うんと小さいころ、親に連れて行かれた近所の病院は、こんな感じでしたね。^^

手術室もありました。

なぜか夫が必ず撮ってしまう、トイレです。笑 

ここにも、吊り手水があります。

旧近藤医院の左側面です。奥に見えるのは文庫倉で、石造2階建です。清吉の書庫及び研究室として使われました。


交差点で通りを横切ってさらに進むと、
旧武岡商店があります。


旧武岡商店です。


【旧武岡商店】
武岡家は、旧徳島藩家老稲田邦植に従い、1871年(明治4年)に淡路島から静内郡に移住しました。1882年(明治15年)からは商家となり、米穀、雑貨、荒物などを扱いました。その後、町の発展に伴い、1898年(明治31年)に本格的な店舗兼住宅を新築します。1901年(明治34年)には郵便局を開設するなど、静内地方の商業の中心的役割を果たしました。


玄関を入ると、広い座敷があります。帳場があり、棚にはたくさんの商品が置かれていました。人形は、番頭と客、そして雇われ人でしょうか。

米穀、雑貨、荒物、衣類などが、整然と並んでいます。

乾物や味噌・醤油、食器やランプもあります。

ブランデーは薬だそうです。笑


【明治後期の商店】
明治30年代後半になると、交通輸送網の整備によって、北海道の商業は大きく発展しました。静内地方は、海路による物資の輸送が発達していたため、この頃には商品が豊富に出まわり、店頭をかざるようになりました。
どこの町でも、市街地の中心には、米穀、雑貨、荒物、衣類など日常生活に必要なものを一か所で揃えることができる万屋(よろずや)的な店が存在し、秋になると、冬支度の買物客でにぎわいました。東静内の武岡商店も、このような店のひとつでした。


住居部分です。台所があり、さらに、いくつもの部屋が続きます。

お風呂もありました!


次回は、旧大石三省堂支店に行きます。(といっても、本屋さんではありません。)


(つづく)

コロナでもウポポイ3。札幌2週間ホテル暮らし 35 - 北海道開拓の村⑦(旧武井商店酒造部)(2021年11月6日/4日め)

2021年11月6日 開拓の村で、馬車鉄道に乗りました。(北海道札幌市)


11月6日(土)


北海道開拓の村・市街地エリアです。
旧三〼川本そば屋のさらに左隣りにある、
旧武井商店酒造部を訪ねました。


旧武井商店酒造部


【旧武井商店酒造部】
茅沼で石炭荷役、回船業を営んでいた武井家が、1886年(明治19年)頃、古宇郡泊村に建てたものです。建物は、主屋、帳場、酒蔵(工場)、土蔵で構成されています。内部の展示は、大正初期のようすを再現しています。

築9年後の明治28年(1895)頃から、酒造業が始まりました。北海道で永く親しまれた清酒「松の露」や「玉の川」の製造は、1944年(昭和19年)、戦時下の統制で酒造中止命令が出されるまで続けられました。


入口を入ってすぐのところにある、帳場です。右奥に見えている部屋が茶の間で、その奥に台所があります。主屋部分には、武井家の人々の生活の場であった茶の間・座敷・台所があります。

酒枡です。武井商店酒造部では、米の買い付けを越後方面で行い、越後杜氏を雇い入れて、内地米と本州の技術による酒造りを行っていました。酒造用に精白した米を仕入れ、沢から引いた水を使った洗米から始まり、蒸米、麹仕込み、酛仕込み、醪仕込み、酒しぼり、滓(おり)引き、火入れ、貯蔵の工程を経て樽詰めし、出荷、小売しました。杜氏、麹師、釜屋が各1人、助手5~6人で、年に100石ほどの清酒を製造していました。

桶、かめ、通い徳利です。

茶の間です。

その奥にある台所です。杜氏たちと家族の夕食を囲む情景を再現しています。

写真の奥は土間になっていて、横に長い流しが見えます。

台所の隣りに置いてある大八車。そして扉の向こう側には、酒蔵(工場)が広がっています。

工場です。酒を製造するにあたって使用していた道具を展示しています。MIYOは、この1枚を撮っただけで気がすむのですが、夫は、このあとさらに詳しく撮らないではいられません。🤣🤣🤣 この写真の右から左まで、なめるように撮り続ける夫の写真をご覧ください。😅

洗米。白米の表面についている糠を取り除く作業で、半切桶に米と水を入れ、両手で洗う「手洗い」と素足で洗う「足洗い」がありました。

上段左から、すかし、ふかしかすり、米かすり。下段左から、つまご、ごま、おり取下駄。

蒸米。ザルで、洗った米の水を切り、蒸します。

まだまだ続きます。😂😂

麹仕込み。米に麹菌を生やして酵素を造らせる工程です。麹用の蒸米を35℃前後に冷まして、麹製造室の床に運び、温湿度を均一にします。約15時間後に蒸米のかたまりをほぐし、その4時間後に一升入りの容器に入れて、室の棚に積みます。上下を交換しながら温度を調節すると、2昼夜で麹ができます。

生酛(きもと)仕込みに使った半切桶と酛(もと)仕込みに使った樽です。

仕込みの方法によって、3種類の樽を使い分けました。

ようやく、大樽に入ります。^^


はあ…。
旧武井商店酒造部の写真だけで、
全部で20枚ですね…。
(これでも、全部を掲載したわけではありません。)
MIYOが、全体写真1枚ですませるところを、
多動夫は、ここまで詳細に撮りまくるんです。
それも、順番がめちゃくちゃで。🤣🤣


あっさりと、展示の右から左へと
順に撮ってくれればいいのですが、
右へ左へウロウロしながら気分で撮ってるので、
わけがわからなくなります。😵😵


一体どこを撮ったのか、
すぐには判別できないことも、よくあります。
ブログに掲載するにあたっては、
全体写真と照らし合わせながら、一枚一枚、
写真に写っているものの位置を確認しています。
そして、展示している順番に並べ直すのですが、
その作業がもう、ほんとにたいへんです~~~。😂


ということで、今回は、
酒好きの夫の写真が多すぎたので、
旧武井商店酒造部のご紹介のみと
なってしまいました。😅


次回は、旧近藤醫院を訪ねます。


(つづく)

コロナでもウポポイ3。札幌2週間ホテル暮らし 34 - 北海道開拓の村⑥(旧来正旅館、旧三〼河本そば屋)(2021年11月6日/4日め)

2021年11月6日 鉄道馬車と。後ろは、旧札幌停車場です。(北海道札幌市)


11月6日(土)


北海道開拓の村・市街地エリアの、
旧来正旅館に来ています。


入口を入ると、広い土間があります。ここは汽車を利用する人の待合室で、簡単な売店がありました。売店のガラスケースの奥が子供部屋(6畳)で、その右手が台所です。

待合室のイスです。おしゃれなカフェみたいですね。^^

靴を脱いで、内部を歩いてみます。下の写真の左端のところから上がると…、

そこは茶の間になっています。

茶の間内部です。奥に台所が見えています。

台所です。

茶の間の隣りにある廊下を、さらに奥へと進みます。

家人の寝室(8畳)です。

そしてこちらは女中部屋(4畳)でした。

廊下のつきあたりに、トイレと洗面所がありました。この吊り手水、小さい頃はよく見かけました。なつかしい。昭和30年代の話です。笑


1階が家族の居室で、
2階には、客室が6部屋あるそうです。
見学を終え、外に出ました。
すると…。


あっ。花嫁さんです。^^


最近は、歴史的建造物とか、
お城とか庭園とかで、
結婚写真を撮るカップルが、
本当に多いですね。(うらやましい。笑)
さぞかし素敵な写真になることでしょう。
今の若い人たちはいいなあ…。


MIYOが見守る中、おふたりは、旧来正旅館の中へと入っていきました。すてきな後ろ姿です。^^

旧来正旅館の隣りにある、旧三〼河本そば屋です。


【旧三〼河本そば屋】
明治時代に小樽で開業した蕎麦屋です。手打ちそば屋では、2階にお座敷などを設えてあり、客は座敷に座ってお酒を飲みながら、ゆっくりそばを待つというスタイルだったそうです。内部では、大正期のようすを再現しています。


正面の左右に入り口があります。向かって左が客用、右が勝手口です。看板の裏からレンガの煙突がでています。これは、そば茹釜の煙突です。この時代のそば屋は、愛知県の明治村にもないので、とても貴重な建物であるそうです。

それでは、中に入ってみます。

玄関を入ると、右手が調理場になっています。左に2連かまど、右にそば茹で釜があります。

お蕎麦屋さんらしい設えです。水道蛇口がありますが、井戸水を使っていたらしく、手押しポンプがついています。

1階には、調理場とそば粉をこねて麺を作るそば部屋、そして家族のための居間・座敷・台所がありました。

2階には、およそ50人の客が入れる座敷と女中部屋がありました。

これは…、トイレですね。^^

かつてのそば屋さんの佇まいを今も残す、旧三〼河本そば屋を後にし、次のスポットへ向かいました。


市街地エリアには、商店も多く、
それぞれの生業(なりわい)のようすも
再現されています。
それらを丹念に見て歩くのは、
とても楽しい時間でした。


次は、旧武井商店酒造部を訪ねます。


(つづく)

コロナでもウポポイ3。札幌2週間ホテル暮らし 33 - 北海道開拓の村⑤(旧近藤染舗、旧来正旅館)(2021年11月6日/4日め)

2021年11月6日 開拓の村・旧近藤染舗で。(北海道札幌市)


11月6日(土)


開拓の村食堂でお昼ごはんを食べるために、
出入り口まで戻ってしまったので、ここからは、
目の前に広がる市街地群を見学しながら
移動することにしました。


まずは、食堂の目の前にあった、旧近藤染舗に行きます。


【近藤染舗】
1898年(明治31年)に創業された、旭川で最も古い染物店です。この建物は、店の繁盛に伴い、1913年(大正2年)に地元の建築業者によって新築された、店舗兼住宅です。外観や内部の間取りは、当時の店舗建築の様子をよくあらわしています。


半纏の看板がイキな感じですね。^^

中に入ってみます。

大八車と帳場です。

これから染めるのぼりですね。

この廊下のつきあたりには、台所があります。

帳場の奥には、いくつもの部屋が続いていました。

つきあたりが台所です。

帆立の貝殻で作ったおたまがありました。^^


あはは。写真、ここまでで13枚ですよ。
やはり、夫の写真が加わると、
一家屋で一連載が終わりそうですね…。😅


その隣にある、旧来正旅館です。


【旧来正旅館】
1919年(大正8年)、北海道上川郡永山村(現在の旭川市永山)の宗谷本線・永山駅前に、旅館兼待合所として建築されました。1985年(昭和60年)に、北海道開拓の村へ移築復元されました。


りっぱな佇まいです。

こちらが正面。

これが側面です。この右隣りに、旧近藤染舗があります。それでは、中に入ります。

まず目に入ったのは、ガラスケースに入れられた、お酒やお菓子でした。そのうしろには、笠やわらじも吊るしてあります。その奥にある部屋は、子供部屋でした。

こうして、旅人に販売していたんですね。^^

子供部屋の中に、子どもの服がかかっているのが見えます。

この建物は、NHKの「マッサン」の撮影に使われそうです。熊虎とマッサンの出会いのシーンなどが撮影されたのですが、その際、馬車鉄道の通りのアスファルトを隠すために、砂がまかれたそうです。この2軒隣りにある「旧武井商店酒造部」も撮影で使われています。このあたりは、当時の市街地の雰囲気を色濃く残しているエリアです。


旧来正旅館の内部については、
次回でさらにご紹介します。


(つづく)

コロナでもウポポイ3。札幌2週間ホテル暮らし 32 - 北海道開拓の村④(体験学習棟、旧札幌拓殖倉庫、旧山本消防組番屋、旧若狭家たたみ蔵、開拓の村食堂)(2021年11月6日/4日め)

2021年11月6日 山村群エリアの吊り橋で。(北海道札幌市)


11月6日(土)


山村群エリアを歩き、吊り橋を渡りました。


そして新たな建物を発見。これは、体験学習棟だそうです。校外学習の子どもたちが利用するのでしょうか。

山野をつっきって、ようやく、大通りにでました。別の世界に来たようです。

旧札幌拓殖倉庫です。


【旧札幌拓殖倉庫】
札幌軟石を使用した倉庫です。1907年(明治40年)に建てられ、五十嵐倉庫合名会社より、5年後、札幌拓殖倉庫株式会社に引きつがれました。この建物は、札幌駅北側に隣接し、線路に直角に位置していた6棟の内の一番西側の棟です。梁間5間、桁行27間、面積135坪の木骨石造でした。開拓期の農産物の集散に大きな役割を果たし、地域の発展に貢献しました。昭和56年、その敷地が鉄道高架用地として買収されることとなり、開拓の村に移築復元されました。



ここで左に行けば、
出入り口の方向になるのですが、
あえて右方向へ。
農村群エリアに向かって歩きました。


旧山本消防組番屋です。


【旧山本消防組番屋】
札幌山本地区にあった、消防用具の格納庫です。1925年ごろ(大正末期)に建てられました。前身は、1919(大正8年)頃からの消防組織自警団で、山本消防組となりました。火の見櫓を持つ番屋は、農漁村の小規模な消防組織にみられ 防災や治安の中心でした。


これは、鉄道馬車の中から撮った火の見櫓です。



このまま、すぐ隣りの、
旧信濃神社に行けばよかったのですが、
ここでも失敗してしまいます。
なぜか私も夫も、
旧若狭家たたみ蔵に行ってしまい、
その後、方向を変え、
出入り口の方に向かって歩き出してしまいました。
今思うと、まあ、疲れていたんでしょうね…。
お腹もすいてたし。笑


旧山本消防組番屋の向かいにある、旧若狭家たたみ蔵です。


【旧若狭家たたみ蔵】
1850年頃(江戸時代末期)の建築です。たたみ倉は、道南の上ノ国町周辺にみられます。倉は、長方形の角材を積み重ねて外壁を作り、屋根をかける校倉造りでした。内部には、漁家や農家が、家具や調度品・漁具・農具などを収納しました。


そして、大通りを歩いて、再び、開拓の村の出入り口である旧札幌停車場に戻ってきました。

めざす「開拓の村食堂」は、その左手にあります。

工事中でシートがかかっていましたが、本当はこんな感じのようです。(画像をお借りしました)

食堂のメニューです。思ったよりもたくさんありました。

写真を撮ってる夫をほったらかして、店内に入ります。笑 「いももち」ってなんでしょう?

6人用のテーブルですが、3人しか座れません。

夫が選んだのは屯田兵定食(1030円)。紅鮭昆布めし、豚汁、いももち、味噌おでん、小鉢で、ボリュームたっぷりでした。鉄皿の上で並んでいる、ハンバーグのようなものが、いももちです。

MIYOはにしんそば(980円)です。

リフトアップ~。

やっとごはんにありつけました。^^

ようやくここまで来ました。旧信濃神社に行けなかったのが気になりますが…。😅

お昼ごはんのあとは、市街地群エリアへ。旧近藤染老舗へ行きます。


(つづく)