MIYO'S WEBSITE-全盲難聴のんたんの育児記録と卵巣ガンで思ったこと

超未熟児で生まれた後遺症で、全盲難聴(盲ろう)となったのんたん、双子の妹あみちゃんと共に楽しく生きる家族のお話です。
子どもたちは21歳になり、毎日元気に楽しく暮らしています。
卵巣ガンになって思ったことも、少しずつ書き始めました。

もうひとつの、スピリチュアル体験 – ひまわり施療院 ⑤

2012年11月6日 学校で、長男の指に、先生が「指点字」を打っています。真剣な顔で読んでいる、長男です。
(全盲難聴・のんたん 17歳)



のぞみの難聴 - 1996年4月


  春になった。
  のぞみの手術やらあみかの入院やらで、冬の間はずっと落ち着かなかったが、それでもやっと春が来た。満開の桜が咲き乱れる季節となり、私もほっとしていた。暖かくなると、子ども達の風邪の心配が減ってくるからだ。

  のぞみが耳も聞こえていないと知らされたのは、そのころだった。
  超未熟児として生まれた後遺症なので、難聴の治療法はないと言われていた。そのうえ、診断したTH大学耳鼻科の医師から、
「かなりきびしい状態。内耳のか牛が機能していない。最近は、人工内耳を手術でうめこむ、という方法もあるけれど、それで普通に聞こえるようになるんだったら、苦労はないんでね。」
と言われたことが、胸にこたえた。

  当時、ひまわり施療院には週一回通っていたので、早速田中先生に報告した。すると、意外なことに田中先生は、
「難聴は何人も治しているから大丈夫。耳は治してあげる。」
と、さらりと答えた。
  もちろん、それをすぐに信じたわけではない。正直言って半信半疑だったが、他に治療方法もなく、だめもと、の気持ちだった。
  その日、のぞみの耳のうしろにしこりがあるから、と先生がそれをほぐしたところ、いつもと違ってのぞみがひどく痛がり、抵抗した。そして、さらに不思議なことなのだが、そのときからのぞみは、少しずつ変わっていった。もっとはっきり言えば、次第に聞こえるようになっていったのだった。
  「聞こえるようになった」と言うよりも、「音に対してはっきりと反応するようになった」と言った方が正しいのかもしれない。それまで、のぞみがどれくらい聞こえていたのか、また、聞こえてなかったのか、それは誰にもわからないし、施療をきっかけにどれくらいよくなっていったのかも、今となっては調べようもない。
  けれど、私にとってみれば、のぞみが音に反応し、様々な表情を見せてくれるようになったという事実だけで十分だった。それが施療のせいであってもなくても、どちらでもいいことだったのだ。
  のぞみに変化が見え始めたことを私が話しても、夫ははじめ、信用していなかった。が、のぞみはしだいに、おもちゃの音などが聞こえると動きを止めるようになった。数ヶ月もすると、その場面を見た者は誰でも、のぞみが聞こえていると認めざるをえないほどになってきた。
  ところが、TH大学病院耳鼻科の医師は、検査をやっても「前と同じですね。ではまた半年後。」と言うだけだった。のぞみに何が聞こえているのか、そして聞こえていないのか、はその医師の関心事ではなく、ただ、「聞こえていない」という検査の結果をそのまま伝えるだけだった。
  そこで、T産院のすすめもあり、TK大学病院の耳鼻科に転院した。幼児難聴の権威である、T医師がおられる病院だとのことだった。
  この病院で、のぞみは初めて、聴力が75デシベルくらいであると診断された。
「時間はかかるけれど、補聴器をつけて、言葉をしゃべることはできるようになるでしょう。」
というT医師のことばは、一番始めにTH大学病院で言われたことばからはほど遠いものだった。TH病院の判断がまちがっていたのか、のぞみ自身が変わったのか、それは今でもわからないことなのだが、とにかく良い方向へとのぞみが変化していることを知り、私も夫も、「やはり田中先生のおかげでは…」と思わずにはいられなかった。
  のぞみはその後、TK大学病院で指導された補聴器を装用するようになり、ますます耳を使うようになった。
  聴力というものは、本人がその意味に気づいたときに初めて「聴く力」となり、「もっと聴きたい」とのぞむようになって、さらに向上する、という事例を、その後私たちは、のぞみをとおして目の当たりにすることになる。それが、TK大学病院の希望に満ちた指導があってこそ実現できたものだったということは、言うまでもない。
  そして、さらにその根底には、人知れず、田中先生の支えがあったのだということを、私と夫は今でも、折りにふれては、語り合っている。


(つづく)

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