MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。

超未熟児で生まれた後遺症で、全盲難聴(盲ろう)となったのんたん、双子の妹あみちゃんと共に楽しく生きる家族のお話です。
子どもたちは24歳になり、毎日元気に楽しく暮らしています。
卵巣ガンになって思ったことも、少しずつ書き始めました。
ベトナム日記は、
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をご覧ください。
ベトナム家族旅行:
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小学生だったころの子どもたちの育児日記は、こちらです。
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もうひとつの、スピリチュアル体験 – ひまわり施療院 ③

2017年11月3日 新しいヘッドフォンを買って、ご満悦。(全盲難聴・のんたん 22歳)



通い続けた冬 - 1996年1月~3月


  初めての施療の夜、夫は興味津々で私の話を聞いた。ばかにするかと思ったが、「世の中には理解できないような力だって存在するだろうし、あんたがやりたいと思うならやってみればいい。」というのが夫のスタンスだった。
  その次に指定されたのは休日だったので、夫もいっしょにでかけた。先生の「手かざし」にも、夫はこれといってなにも感じなかったそうだ。だが、のぞみの気持ち良さそうな顔を見ていると、それだけで、来てよかった、と私も夫も思っていた。
  数回の施療の後、のぞみの、第一回目の目の手術が始まった。施療が奏効するという保証はなかったが、私は、できるだけのことをしたいと思っていた。しないではいられなかった。だから、日本でも指折りと言われている高名な眼科医に直談判した。「目の手術で入院しているあいだも、外出という形で、のぞみをその施療院に連れて行きたい」という希望を伝え、かなえてもらった。
  こんなふうにして、のぞみの一回目の手術が終わってとりあえず退院するころ、田中先生の自宅で、「難病や障害に苦しむ子どもたちを癒すための施療院」として、「ひまわり施療院」が正式にオープンした。
  オープン初日に集まった子どもたちは、多岐にわたっていた。自閉症、ダウン症、喘息、発達遅滞、アトピー…。
  ひとりの子どもとその家族にかける時間は、2時間近くになる。先生ひとりで、ホスピスの仕事がない週末だけに看ることのできる子どもの数には、限界があった。
  私が見た紹介記事は、先生が初めて応じた取材だったそうで、本来、いっさい宣伝をしない主義の先生のところに申し込みに来るのは、紹介者だけであった。が、その紹介者も、すぐに数ヶ月から半年待ちの状態となった。
  それでも、どんなに忙しくても、先生は、のぞみにだけは特別目をかけてくれた。
  施療中、「ほんとうにかわいい子」と言って、のぞみを抱きしめることもたびたびだった。先生に用事があって、施療院がお休みになってしまうときでも、
「他の人には絶対ナイショよ。」
と、私たち家族だけをこっそりと自宅に招んで、施療してくださることがあった。
  あるとき、のぞみの施療中に、あらたな施療希望者から電話がかかってきた。先生は、「希望者がいっぱいなので、半年後でないと。」と言って電話を切った。そのあと、私の方に向かって目くばせし、こう言った。
「体当たりで来る人はトクよね。」
  私は吹き出した。それは、まさしく私のことだった。
  先生が、毎日どれくらいの希望者に応対し、どれほど忙しいかも知らず、私は夢中で手紙を書いた。その手紙が、先生の心に響いた。一生懸命だった私を、先生も体中で受けとめてくれたのだった。
  その後も、目の手術のために、のぞみの入院・手術はくりかえされた。のぞみをおくるみで包み、さらにそれを自分のからだで包むように抱きしめて、入院していたTH大学病院からひまわり施療院へと通い続けているうちに、季節は春になろうとしていた。


(つづく)

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