MIYO'S WEBSITE-全盲難聴のんたんの育児記録と卵巣ガンで思ったこと

超未熟児で生まれた後遺症で、全盲難聴(盲ろう)となったのんたん、双子の妹あみちゃんと共に楽しく生きる家族のお話です。
子どもたちは21歳になり、毎日元気に楽しく暮らしています。
卵巣ガンになって思ったことも、少しずつ書き始めました。

もうひとつの、スピリチュアル体験 – ひまわり施療院 ④

2017年11月3日 ウクレレ教室で。(全盲難聴・のんたん 22歳)



あみかの施療 - 1996年2月


  2月も末になって、とうとうあみかがT産院を退院し、我が家へと帰ってきた。
  なにも、そんな一番寒い時期に引き取らなくても、春まで待てばよかったのに、と思われるかもしれないが、私には、どうしてもあみかを引き取りたい事情があった。
  慢性肺疾患となったあみかは、呼吸がなかなか安定せず、医師からは、「退院後も在宅酸素を使う生活になるかも」と言われていた。それでも、なんとか自力呼吸ができるようになり、「在宅酸素を使わないですむぎりぎりの線」と言われながらも、経鼻カテーテルをつけることなく、身軽な体で帰宅することができた。
  やっと退院できたあみかだったが、からだの状態で言えば、のぞみよりもはるかに悪かった。
  医師からは、「育っていくなかで、自然に治っていくのを待つしかない。」と言われていたが、そういうあみかの状態は、「自然治癒力を高める」という田中先生の施療に、より向いている、と私は思っていた。のぞみの施療に20万円もかけたのだから、同じことをあみかにもしてやらないと不公平にも思えた。
  おそるおそる、田中先生に頼んでみると、希望者が殺到していたにも関わらず、「退院したら、すぐに連れてきなさい。」との返事をいただいた。
「本当は、もっともっと早く看てあげたかったんだけど、入院中じゃあ、しょうがなかったものね。」
と、先生は笑顔を見せてくれた。
  先生の配慮はそれだけではなかった。のぞみと同じように20回コースを、とお願いした私に、先生は、「費用は半額でいいから。」と言ってくださった。
「20万円は、大勢の人が押しかけてこないように、って考えた費用。私のことを信じて通ってくる人なら、その半額でいいのよ。」
という、先生ならではのことばに、私は頭を下げるしかなかった。
  こうして、あみかとのぞみの両方をひまわり施療院へと連れて行く日々が始まった。あみかの退院に合わせて、松山から私の母が応援に来てくれたのだが、その母がいっしょに施療院までついていくと、母までもが、無料で行われる家族施療の対象となった。
  私の母はたいへんな頭痛持ちで、もう二十年来、一日たりとも薬が手放せない状態だった。その母が、「田中先生の気を受けたとたん、頭痛がすうっとひいた。」と言ったときには、さすがに私も驚いた。結局、その日からずっと、私たちといっしょに暮らしている間、母が頭痛薬を飲むことはなかった。これもまた、不思議な体験だった。
  不思議なことはまだまだあった。そのころ、夫は例年どおり、花粉症で苦しんでいた。夫の花粉症はかなりひどく、鼻水がとまらなくなる。薬を飲むと、今度はぼお~っとして、仕事ができなくなるらしい。アレルギーがいっさいない私には理解できない世界だ。
  その年は、夫婦で相談し、せっかくこういうところに通ってるんだから試してみようか、と言うことになった。先生には失礼なことだが、私たちは冗談半分で、夫が花粉症で困っていることを相談してみた。
  その日、田中先生は、いつもよりほんの少しだけ長い時間、夫に気を送っていたように思う。ただそれだけだった。いつもと特別に違うなにかをしたわけではない。だが、その日、夫の鼻水はぴたりと止まってしまった。しだいに、私も夫も、田中先生の力を信じないわけにはいかなくなってきた。
  ただし、肝心のあみかはと言えば、毎回たいへんないやがりようだった。いつも穏やかな顔で施療を受けるのぞみとは大違いだった。慢性肺疾患のあみかは、先生が軽く背中や胸を撫でただけで嫌がって泣いた。
  先生に抱かれて大泣きしながらマッサージを続けるのだから、先生もたいへんだった。
「からだがずいぶんいたんでるから、本人もつらいのよ。からだもゆがんでるしね。」
と説明されたが、それもそうだろうと思った。生まれてすぐにNICUに運ばれ、8ヶ月以上もの間、つらい治療に堪えてきたのだ。これから、できるだけのことをしてやろう、やっとその時がきたのだ、と私は考えていた。


(つづく)

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