MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。

超未熟児で生まれた後遺症で、全盲難聴(盲ろう)となったのんたん、双子の妹あみちゃんと共に楽しく生きる家族のお話です。
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4年ぶりのベトナム。北部から中部へと歩いた18日間 53 - タンロン王城遺跡⑧ 北門(正北門)と、タンロン王城遺跡の歴史(2023年6月18日/5日め)

2023年6月18日 タンロン城で。端門からフラッグタワーを臨みました。


6月18日(日)


後楼の見学を終え、
最後のスポットである北門へと歩きました。


【北門(正北門)】
タンロン王城遺跡の外周散策において、絶対にはずせないのが「北門(正北門)」です。1805年に、阮朝が整備したハノイ城塞の北門として築かれました。その躯体は、フランス人技術者の支援のもと、煉瓦造によって築かれており、横幅17m、高さ8.7m、奥行き20.48mと非常に巨大かつ堅固な造作です。入口部分は白い石で装飾されており、赤茶けた煉瓦とのコントラストによって、門全体の外観を引き締めています。建造当時は、この門の前に豊富な水を湛えた濠と橋が存在していました。また門の両側から左右の方向に向かって城壁が伸びていました。

当時のハノイ城塞には五つの城門が存在していましたが、現在にまで残っているのはこの北門のみです。「端門」や「龍の階段」などと並んで、タンロン王城遺跡を象徴する存在です。


北門は、後楼のさらに奥にあるのですが、ここからは立ち入り禁止になっていて、直進できません。いったん、ドラゴンハウスのあたりまでもどって、王城の外に出て、北門のある通りまで歩いていかなければなりません。😂😂


王城から外に出る出口は他にもあるのですが、
どれも閉鎖されており、
このときは、上の図の出口しか
通ることができませんでした。


しかたなく、出口まで延々と歩きます。

後楼から出口まで歩き、いったん王城の外に出ました。そしてここで、元来た方向にUターンして、歩道を歩き続けました。この歩道は、王城のエリアに沿って続いており、ここをずっと歩いた先に北門があります。歩道上には、ハノイ城塞時代の遺構が今も残っています。

右側にこんな建物を見ながら歩きました。後楼から北門までは、もともとは王城のエリア内ではありましたが、現在はこういう建物がたくさんあるので、入ることができないんですね…。

この歩道を左に曲がると、「ホアンジェウ通り18番地の発掘調査現場」というスポットがあります。ここでは、現在も進行している発掘現場を見ることができるようです。

「ホアンジェウ通り18番地の発掘調査現場」です。この場所で、8世紀以降の柱や土台の跡、レンガや井戸、水路などが、折り重なって発見されました。中国の陶磁器だけでなく、有田焼や伊万里焼も見つかったそうです。(画像をお借りしました)


なのですが。
もうね…。
暑くて、疲れてて、
それどころじゃないです。😂😂


「発掘現場まで見に行かなくていいよね…。」
ってことで、ここは省略しました。


そこからさらに、歩いて、歩いて。ようやく、北門が見えてきました。

上の写真の右端にいる夫が、このときに撮っていた写真です。

かつての北門の外観が、案内パネルに描かれていました。建造当時は、門の前に水を湛えた濠と橋が存在していました。また、門の両側から左右の方向に向かって、城壁が伸びていました。

現在は、濠も橋も城壁もなく、城門のみが残っています。

偶然見つけた、古い写真です。これは北門ではなく、1888年ごろの東南門です。現在は残っていません。驚いたのは、この東南門に、線路が敷かれていたことです。


【南東門の路面電車】
1885年、軍事政府は、租界地区と古代の城塞を結ぶ路面電車を建設しました。この路面電車は、3頭のラバが牽引しており、軍人と公務員専用でした。敷設当初は、各方向に 1日3便(日曜日は4便)運行していました。運行ルートは、租界地区から始まり、パップコック通り、トーカム通り、チャンティ通り、ニャチュン通り、その他多くの南部通りに沿って進み、終点が東南門でした。


この路面電車は、
当時の軍事政府が敷設したものですが、
フランス租界が始点(終点)だったことから、
やはりフランスの意向だったのかもしれません。
「一般庶民は乗ることができなかった」
ということにも、違和感を感じるところです。


為政者の思惑による近代化の流れの中で、
ハノイの城壁や城門は、
やがて次々と破壊されて行きました。


さて。この北門ですが、正面に立つと、左側の上下2か所に大きな穴があいているのがわかります。

大きくえぐられるように空いた、ふたつの穴です。


【北門のふたつの穴】
北門に穿たれたふたつの大穴は、かつてフランス軍によって撃ち込まれた砲弾の痕です。1847年4月15日のダナン砲撃に始まったフランスのベトナム侵攻は、1858年から1862年のコーチシナ戦争を経てハノイにも迫りました。1882年、フランス海軍士官アンリ・リビエールは、「ハノイでのフランス商人に対するベトナムの反発を調査する」という名目でハノイに入り、独断でハノイ城塞を攻撃して占領しました。その際に刻まれたのが、この痛々しい砲弾痕です。フランス人の協力によって築かれた門を、フランス軍が砲撃したわけです。
その後ハノイは、一時的にグエン朝(阮朝)へ返還されました。しかし、阮朝が宗主国である清朝に支援を要請し、事態を重く見た清国が介入したため、清仏戦争が勃発しました。

それぞれの国の思惑が交錯する中、結果的にベトナムは、隣国のカンボジア、ラオスと共にフランスの植民地(フランス領インドシナ)となりました。つまり、この正北門の砲弾痕は、フランスによる植民地支配の始まりを告げる遺構ということになります。


タンロン王城の中でも、
重要なスポットである、北門。
1882年にその北門に穿たれた大きな穴は、
見るも無残で、修理しようと思ったら、
これまでにいくらでもできたはずです。


けれどベトナムは、修理しません。
世界遺産となったタンロン城を、
今では世界中の人が訪れます。
そのすべての人々に、ベトナムの人々は、
「私たちの国の宝に、
 こんなことをした国があります。
 どうかみなさん、よく見てください。」
と、語り続けているのかもしれません。


したたかで、しなやかで、
そしてたくましい国、ベトナム。
北門に140年以上も残されている大きな穴は、
どれだけ侵略されても屈することがなかった、
彼らの芯の強さと苦難の歴史を
物語っているのだと思います。


最後にもういちど、
首都としてのハノイの歴史と
タンロン王城遺跡の概要について
まとめておきます。


【首都としてのハノイの歴史】
首都としてのハノイの歴史は、11世紀初頭にまで遡ります。1010年、中国の支配を退け、ベトナムに長期的な統一政権を打ち立てた李朝が、中国支配時代の砦の跡に宮城を創建し、都としたのがタンロン(昇龍の意)でした。李朝は、
それまでの首都であったホアルー(華閭)から現在のハノイにあたるタンロン(昇龍)へと遷都し、湿地帯を埋め立てて都城を築きました。それ以降、陳朝、胡朝、黎朝と王朝は交代するものの遷都は行われず、1802年に樹立したグエン(阮)朝がフエに都を遷すまで、タンロンは歴代ベトナム王朝の首都として繁栄しました。フエへの遷都後には、ハノイ(河内)という現在の地名に改められ、ベトナム北部を統治する主要都市としての役目を担います。
その後のベトナム戦争時には、王城内に作戦司令部が置かれました。ハノイは、実に1000年もの長きに渡り、政治権力の中心地となっています。


つまり、ベトナムの首都は、
長い歴史の中で、
①ホアルー→②ハノイ→③フエ
と移っていったことになります。


4年前、タムさんといっしょに行った、古都ホアルーの日記です。ホアルーも、現在はベトナムの世界遺産となっています。夏のホアルーは暑かったです。^^
定年でもベトナム。ハノイで始める、お仕事日記 66 - ホアルー&チャンアン日帰りツアー② ホアルー(2019年9月25日/25日め) - MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。

こちらは、6年前に家族でホアルーに行ったときの日記です。こちらの方がより詳しく書いてあります。このときは冬だったので、コートを着て旅行しました。
のんたんの冬休み-31 おいしいものを食べる、ベトナム8日間おトク旅 - ベトナム王朝発祥の地「ホアルー」(2017年12月26日/3日め) - MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。


【タンロン王城遺跡の概要】
「タンロン遺跡」の特徴は、各時代の遺構が層となって現在も地中に残っているという点です。出土品からは、北方の中国文化や南方の古代チャンパ王国の影響も見られます。複数の文化が融合して、ハノイ特有の様式となって残っていることから、2010年に「ハノイ‐タンロン王城遺跡中心地区」という名称で世界遺産になりました。

タンロン遺跡は王城の跡地ではありますが、王城であった当初から残る建造物は、15世紀に築かれた「端門」と「龍の階段」しか残っていません。その理由は、グエン朝がフエに遷都した際、主要な建造物のほとんどを解体し、フエへと移築したからです。
その後グエン朝は、タンロン王城の跡地に、「大幅に規模を縮小したハノイ城塞」を整備しました。旧王城の中心部を取り囲んでいる城壁と門が現在も残っていますが、その多くは、19世紀にグエン朝が築いたものです。他の建造物と同様に黄色く塗られた煉瓦の壁は、現存する建物が少ないハノイ城としてよりも城塞であった頃の雰囲気をより伝えています。

その後タンロンの地は、インドシナ戦争やベトナム戦争の戦禍にさらされ続け、しだいに忘れられて行きました。

2002年、新国会議事堂の建設にあたって行われた発掘調査によって、ベトナム歴代王朝の壮大な遺構が、ようやく日の目を見ることになりました。このときの遺跡の発見によって、長らく軍の統治下にあったタンロンが、初めて一般に開放されました。観光できる世界遺産区域は端門から正北門までです。が、現在も発掘調査は続いているので、今後も、公開エリアが広がっていくかもしれません。


これでようやく、

タンロン王城遺跡の見学が終わりました。

もうそろそろ2時に近くなっていましたが、

遅めのランチにしようということで、

街を歩き始めました。


タンロン城の周囲には、こんなレストランがたくさんあります。


次回は、お昼ごはんの日記です。


(つづく)


(おまけのお話)


上野・アメ横を歩いていて見つけた「ベトナム」です。(2023年7月3日)


このお店、何年も前からあるのですが、

店頭には、

アジア系の食品ばかりを並べています。

これまでは、

そのすべてが中国製だったのですが、

最近はそれ以外の国の物も

みかけるようになりました。


で、「ベトナム産 ドリアンケーキ」

だそうです。

けっして買いたくはないですが。😅

臭いだろうなあ…。

ドリアン、大好きな人もいるから、

きっと売れるのでしょうが、

にしても、ひとつ900円は高い。

ベトナムで買ったら、いくらなのでしょう。

今度ベトナムで見かけたら、

調べてみようと思いました。^^

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