MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。

超未熟児で生まれた後遺症で、全盲難聴(盲ろう)となったのんたん、双子の妹あみちゃんと共に楽しく生きる家族のお話です。
子どもたちは24歳になり、毎日元気に楽しく暮らしています。
卵巣ガンになって思ったことも、少しずつ書き始めました。
ベトナム日記は、
http://limings.muragon.com/tag/?q=2019%E5%B9%B49%E6%9C%88-10%E6%9C%88%E3%80%80%E3%83%99%E3%83%88%E3%83%8A%E3%83%A0&p=4 
をご覧ください。
ベトナム家族旅行:
https://limings.muragon.com/tag/?q=2017%E5%B9%B412%E6%9C%88%E3%80%80%E3%83%99%E3%83%88%E3%83%8A%E3%83%A0
小学生だったころの子どもたちの育児日記は、こちらです。
http://limings.sweet.coocan.jp/

涼風の栃木へ。星野リゾート 界 川治に泊まった2日間 14 - 英国大使館別荘記念公園① 垣間見る、アーネスト・サトウの生涯(2024年8月23日/2日め)

2024年8月23日 「英国大使館別荘記念公園」で。(栃木県日光市)


8月23日(金)


今回の旅は、
「界 川治」に泊まることが目的でした。
なので、ほかのスポットについては、
あまり考えていませんでした。
でも、チェックアウトしたあとは、
東京に帰る道すがら、
少しだけ観光していくつもりでした。


そこで、私たちが選んだのは、
国際避暑地記念施設めぐりです。
中禅寺湖のほとりには、
 英国大使館別荘記念公園
 イタリア大使館別荘記念公園
があり、以前から、
行ってみたいと思っていました。


案内パネルによると、駐車場で車を降り、中禅寺湖に沿って歩くと、まず英国大使館別荘記念公園に着くようです。

とりあえず歩いていたら、道がふたつに分かれました。左がイタリア大使館別荘記念公園で、右が英国大使館別荘記念公園だそうです。まずは、近くの英国大使館別荘記念公園の方に行ってみることにしました。

少し歩くと、すてきな建物が見えてきました。黒を基調とした、凛とした佇まい。ここがかつて、英国大使館別荘だったところです。


【英国大使館別荘記念公園】
明治中ごろから昭和初期にかけて、中禅寺湖のほとりには、各国の大使館をはじめ多くの外国人別荘が建てられ、国際避暑地として発展しました。本公園内に現在残っている建物は、英国外交官アーネスト・サトウの個人別荘として1896年(明治29年)に建てられ、その後、2008年(平成20年)まで英国大使館別荘として使われていたものです。2016年7月に記念公園として開園するにあたって、英国大使館別荘だったころの姿に復元されました。
別荘内からは、中禅寺湖を眺めることができます。また、当時の文化体験ができるコーナーもあり、明治維新に大きな影響を与えたアーネスト・サトウの生涯や特徴などが紹介されています。2階にはカフェ「南4番Classic」があり、スコーンと紅茶のセットをいただくことができます。


エントランスです。ここで靴を脱ぎ、スリッパに履き替えます。

その後、券売機で入館券を購入します。入館料は300円ですが、ふたつの記念公園の共通入館券だと450円になり、オトクです。


建物は二階建てで、
一階にはふたつの部屋があり、
英国外交官だったアーネスト・サトウと
サトウが愛した奥日光を紹介しています。


まずひとつめの部屋を見学します。

いかにも英国らしい雰囲気です。

この部屋では、1896年(明治29年)にこの別荘を建てた、アーネスト・サトウの生涯を紹介しています。彼は、明治維新に大きな影響を与えた人物だそうです。


【アーネスト・サトウ(Sir Ernest Mason Satow/1843-1929)】
イギリスの外交官。イギリス公使館の通訳、駐日公使、駐清公使を務め、イギリスにおける日本学の基礎を築きました。日本滞在は、通算すると計25年間になります。
中産階級であるドイツ人の父とイギリス人の母の間に生まれましたが、日本に憧れ、大学卒業後は、イギリス外務省に入省。1862年に横浜に着任しました。来日後、生麦事件や薩英戦争に関わり、下関戦争における長州藩との講和交渉では、高杉晋作を相手に通訳を務めました。このような経緯から、長州藩の伊藤博文や井上馨と交流するようになり、日本語に堪能な英国人として、サトウの名前が広く知られるようになりました。
サトウは、戸籍の上では生涯独身でしたが、1871年(明治4年)に武田兼(カネ/1853-1932)を内妻とし、3人の子をもうけました。兼とは入籍しなかったものの、子供らは認知して経済的援助を与えていました。第一子の女児は1873年に幼くして病没しましたが、二人の男児には経済援助と共に、英語を学ぶよう推奨しています。次男の武田久吉が27歳でロンドンに留学する際はその手配をしました。彼は後に、植物学者になっています。長男の栄太郎は、アメリカに移住。農業に従事し、現地の女性と結婚。サトウダイコンの生産者として暮らしました。
イギリスに帰国したアーネストは、晩年、「家族」の居る日本に移住しようとしましたが、病に倒れ果たせませんでした。家族に宛てて日本語で送った多くの手紙が残っており、それらは、横浜開港資料館に所蔵されています。


若かりし頃のアーネスト・サトウと、妻・兼(カネ)。


アーネスト・サトウがこの別荘を建てたのは、
カネと結婚して25年後。53歳のときです。
当時の中禅寺湖周辺は
外交官の社交場のようになっていたわけで、
はたしてサトウは、
カネや子どもたちといっしょに、
この別荘へ来たことがあったのだろうか、
と、ふと思いました。


そしてその隣りにある、もうひとつの部屋へ。

国際避暑地の歴史や奥日光の豊かな自然、サトウの次男で植物学者の武田久吉博士、サトウがこの場所を別荘として選んだ理由や建物の特徴などを紹介しています。


どちらの部屋も、きれいに清掃されていて、
とてもいい雰囲気なのですが、
ここでなによりすばらしいのは、
テラスからの眺めです。


ソファに座ると、目の前に中禅寺湖が広がります。

左側

右側

もうこれだけでも、ここに来てよかった、と思いました。^^


しばし景色を堪能してから、
二階へつづく階段を上がりました。


二階にもふた部屋あります。まずは展示室へ。

階段を上がったら、目の前に中禅寺湖が飛び込んできました。つきあたりを右に曲がると、展示室があります。

展示室の入口です。

室内では、サトウが活躍した時代の英国文化を紹介しています。

アーネスト・サトウが活躍した時代(ヴィクトリア朝)の文化や芸術も紹介されていました。これは、手仕事の復興と産業デザインの改良をめざす「アーツ・アンド・クラフツ運動」から生まれた作品だそうです。


次回は、隣りの英国文化交流室に行ってみます。


(つづく)

×

非ログインユーザーとして返信する