MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。

超未熟児で生まれた後遺症で、全盲難聴(盲ろう)となったのんたん、双子の妹あみちゃんと共に楽しく生きる家族のお話です。
子どもたちは24歳になり、毎日元気に楽しく暮らしています。
卵巣ガンになって思ったことも、少しずつ書き始めました。
ベトナム日記は、
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ベトナム家族旅行:
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コロナでもウポポイ2。札幌を拠点に3人で歩いた、3泊4日の北海道 10 - 博物館網走監獄② (裏門、刑務所水門、刑務所職員官舎、味噌・醤油蔵、休泊所、耕耘庫と漬物庫)(2021年6月27日/3日め)

2021年6月26日 「展望花畑・四季彩の丘」で。(北海道上川郡美瑛町)


6月27日


博物館網走監獄に来ています。
庁舎を見学したあとは、
いよいよ、広大な敷地内の
散策をスタートしました。
いただいた地図には、
スポットごとに番号がついているので、
その番号順に進んでみます。


スポットは22個あります。かなり広いですね。これまでに訪れたところには、青い丸をつけました。ここで問題です。私たちはいったい、あといくつ、何番まで訪れることができるでしょうか。🤣


4番の庁舎からスタートして、
まずは5番の裏門のあたりを歩きました。


ニポポの大きな像がありました。


【ニポポ】
素朴で優雅な手彫りの人形で、北方民族の守り神です。現在は、網走市の民芸品として、網走刑務所の受刑者が制作しています。ニポポとは、木でできた小さな子、または人形の意味で、どんな願いでもかなえて、幸せになるという意味があります。
狩りに出かけるときは、ニポポに向かって、「今日はたくさんの獲物を与えてください。」とお願いします。そして得たものは、料理して食べる前に、まずニポポの口に与えて感謝をしました。


登録有形文化財に指定されている、網走刑務所裏門です。総延長1090mの赤レンガ塀は、受刑者が赤レンガを積み上げて完成させました。裏門は、受刑者が塀の外の作業場に向かう際に使用されていました。手前に見えているのは、哨舎(見張所)で、外部からの進入や受刑者達の行動を監視していました。

刑務所水門が見えてきました。


【刑務所水門】
網走刑務所の前方には網走川が流れています。 この川を利用して、網走刑務所では、生活物資を運び入れたり、農場へ肥料を運んだりしました。つまり、刑務所にとって、貴重な水路だったのです。 往時を偲び、博物館では、筏に肥溜めを載せて農場に運ぶ様子を再現しています。


人も衣服も、とてもリアルで、見入ってしまいました。


水門を通り過ぎてさらに歩くと、
刑務所職員官舎があります。


刑務所職員官舎です。レトロな建物がそのままに残っています。


【刑務所職員官舎】
通称「看守長屋」と呼ばれていました。明治45年に刑務所敷地内に建てられ、幾度もの補修を経て、昭和58年まで、刑務官の住宅として使用されていました。 木造平屋の三軒長屋で、瓦屋根などの外装や井戸、かまどなど大正・昭和の看守家族の生活の様子を再現しています。


玄関を入ってすぐの右手には、台所があります。こんなところに昭和58年まで、ほんとうに、住んでいたのでしょうか…。

そして玄関を上がると、これが住まいでした。

次は、少し歩いて、味噌・醤油蔵に到着。


【味噌・醤油蔵】
農園刑務所として自給自足を目ざしていた網走刑務所は、明治25年に30坪の味噌醤油工場を建てて味噌や醤油等の調味料を製造しました。製造は、経験の長い受刑者が専属にあたりました。この蔵に展示してある大きな樽は、五十石という樽で、約9,000リットル(1升ビン約5,000本)もの醤油が入る巨大なものです。


休泊所です。二棟並んでいます。(画像をお借りしました)


【休泊所】
受刑者が塀の外に出て、日帰りができない作業をする場合は、「休泊所」という仮小屋で寝泊まりしました。札幌と網走を結ぶ中央道路の開削工事の際は、明治24年4月から11月までの8か月間に、のべ1200年の受刑者が投入されましたが、彼らは、工事の進行に伴い、次々と休泊所を建てては移動していきました。
休泊所は、別名、「動く監獄」と呼ばれています。部屋の中央は土間で、つきあたりが囲いのないトイレでした。寝床は板張りで、寝具は、薄い柏布団一枚でした。枕の代用として、丸太棒が床に釘付けになっています。起こすときは、看守がこの丸太の端を叩いたそうです。
休泊所のこのような様式は、やがて、開拓時代の強制労働における、一般労働者の工事現場に取り入れられました。そして、飯場(タコ部屋)と呼ばれるようになりました。


中では、すし詰め状態の囚徒が寝ていました。枕代わりに丸太棒が取り付けられていますね。

この丸太棒の端を叩いて起こしたそうです。


こちらは、隣りの休泊所です。

真ん中のテーブルで、食事をしています。

おかずはなにかな?とのぞいてみたら…、

ごはんに梅干しとたくわんだけの食事でした。立ったままで食べていたんですね…。


休泊所の隣りには、
「耕耘庫(こううんこ)」「漬物庫」
があります。


耕耘庫。農機具、肥料や、収穫した作物を入れる小屋です。明治24年の建築で、平成14年に再現されました。


【耕耘庫(こううんこ)】
網走刑務所は、農園刑務所として有名です。当時、札幌農業伝習学校(現在の北海道大学農学部)卒業の技官を採用してアメリカの近代農業制度を取り入れ、その技術は非常に進歩したものでした。
刑務所内の敷地だけでなく、網走市郊外の二見ヶ岡、湖畔、住吉といった各農場の拡張が進められ、日本で唯一、水田を持つ刑務所となりました。その実績が認められ、大正11年に、司法省より「農園設備特設刑務所」に指定されました。


内部には、鍛冶作業のようすが再現されています。

こちらは漬物庫です。収穫した大根を漬けこんでおくための小屋でした。


【漬物庫】
寒冷な網走では、冬の間、野菜が不足するため、秋に収穫した野菜を越冬用として貯蔵し、漬物として補いました。一回の食事で収容者に与えられる漬物の量は約25グラムで、「たくあん」なら3切れほどでした。夏場はキャベツ、ハクサイ、キュウリ等の新漬を食べましたが、霜がおりる頃になると、刑務所内の空き地には丸太が組まれ、たくあん用の大根干しが始まりました。約3000本の大根を、二十五石桶という、直径、深さとも1.6mの巨大な桶につけこんだそうです。



これで、12番の漬物庫まで歩きました。


まだまだ先は長いですが、地道に歩きます。笑


(つづく)

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