MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。

超未熟児で生まれた後遺症で、全盲難聴(盲ろう)となったのんたん、双子の妹あみちゃんと共に楽しく生きる家族のお話です。
子どもたちは24歳になり、毎日元気に楽しく暮らしています。
卵巣ガンになって思ったことも、少しずつ書き始めました。
ベトナム日記は、
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ベトナム家族旅行:
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小学生だったころの子どもたちの育児日記は、こちらです。
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コロナでもウポポイ2。札幌を拠点に3人で歩いた、3泊4日の北海道 11 - 博物館網走監獄③(釧路地方裁判所網走支部法廷復原棟と監獄歴史館)(2021年6月27日/3日め)

2021年6月27日 網走刑務所職員官舎です。(北海道上川郡美瑛町)


6月27日


博物館網走監獄に来ています。
つづいて、9番目のスポットに行きました。


釧路地方裁判所網走支部法廷復原棟です。


【釧路地方裁判所網走支部法廷復原棟】
釧路地方裁判所網走支部及び網走簡易裁判所が新庁舎を建設する際に、旧庁舎の単独法廷、合議法廷、合議室、仮監置室及び勾留質問室を譲り受けたものです。
外観は、明治33年から昭和27年まで使われた旧網走区裁判所を再現していますが、内部の移築物は昭和27年から平成3年まで使用されていたものを配置しました。広さ高さを元通りに復原し、法廷内部の机や椅子、照明器具、カーテン等は実際に使用されていたものを展示しています。


合議法廷

被告人室

左:明治23年当時の裁判官法服
右:現在の裁判官法服


そして再び、元来た道を歩き、
監獄歴史館に行きました。


監獄歴史館です。


【監獄歴史館】
網走監獄に関する歴史的資料や網走に監獄が設置された理由を、「赫い囚徒の森」体感シアターの映像を中心に紹介しています。映像では、120年前の道路建設現場で、囚徒たちが過酷な労働を強いられ、多くの犠牲者をだしたことが描かれています。


作業をする囚人の像。

「網走に監獄がやってきた。」

網走監獄までは、こんなふうに護送されたそうです。

「網走監獄の過酷なくらし」ー朝から晩まで重労働が続きました。

囚人服と手かせ、足かせです。

麦ご飯に三切れのたくあん、菜っ葉がわずかに浮かぶ味噌汁だけの粗末な食事でした。(写真の味噌汁は、実物よりも豪華すぎるようです。)

「赫い囚徒の森」体感シアターです。ステージの真ん中に立つと、左右前方の3面に映像が映し出されます。

北海道の幹線道路の建設では、過酷な労働により、多くの犠牲者を出しました。

「中央道路開削工事220kmの苦難-北海道開拓を進めるための幹線道路は、囚人たちの犠牲の上に造られました。」網走から旭川までの中央道路全距離は228km。そのうち北見峠までの163kmを、網走外役所が担当しましたが、工期はわずか8か月でした。現在のような重機がいっさいない時代のことです。

1922年(大正11年)、網走刑務所は、農園特設監獄に指定されました。様々な取り組み経て、やがて、日本一の収穫高を誇る農園刑務所になっていきました。

戦時下、網走刑務所の受刑者たちは、飛行場建設において大活躍します。海軍航空隊美幌飛行場、女満別飛行場に続き、東洋一と言われたテニヤン飛行場の建設にも携わりました。


監獄歴史館を訪ねて、
現在の北海道の礎を作ったのが、
網走監獄の囚徒たちであったことを
知りました。
とても重い内容の展示でした。


監獄歴史館を出てさらに歩き続けると、
目の前には、
広々とした農場が広がっていました。


当時の農場の作業風景が再現されています。

この農場の先に、次の目的地である、二見ケ岡刑務支所があります。

次回は、地図の左端にある、二見ケ岡刑務支所に行きます。


(つづく)

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