MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。

超未熟児で生まれた後遺症で、全盲難聴(盲ろう)となったのんたん、双子の妹あみちゃんと共に楽しく生きる家族のお話です。
子どもたちは24歳になり、毎日元気に楽しく暮らしています。
卵巣ガンになって思ったことも、少しずつ書き始めました。
ベトナム日記は、
http://limings.muragon.com/tag/?q=2019%E5%B9%B49%E6%9C%88-10%E6%9C%88%E3%80%80%E3%83%99%E3%83%88%E3%83%8A%E3%83%A0&p=4 
をご覧ください。
ベトナム家族旅行:
https://limings.muragon.com/tag/?q=2017%E5%B9%B412%E6%9C%88%E3%80%80%E3%83%99%E3%83%88%E3%83%8A%E3%83%A0
小学生だったころの子どもたちの育児日記は、こちらです。
http://limings.sweet.coocan.jp/

コロナでもウポポイ3。札幌2週間ホテル暮らし 11 - フェアフィールド・バイ・マリオット札幌とサッポロビール園(2021年11月3日/1日め)

2021年11月3日 フェアフィールド・バイ・マリオット札幌に到着。(北海道札幌市)


11月3日(水)


札幌博物館の企画展で、
数々の展示に見入ってしまいました。


「北海道はゴールデンカムイを応援しています。」と。北海道の博物館や施設には、たいてい、このボードが置いてあります。アシリパがかわいくて、大好きです。^^


さて、ようやく、
予約していたホテルに到着しました。


フェアフィールド・バイ・マリオット札幌です。6月に家族旅行で泊まったばかりですが、4か月後にまたここに宿泊するとは思いませんでした。笑

前回の北海道旅行の日記です。

ロビーはそれほど広くありませんが、おしゃれな雰囲気です。

左奥に見えているのがレストラン。2週間も滞在しながら、ここから先のエリアに入ることはありませんでした。朝食ビュッフェはひとり2000円。「朝ごはんがふたりで4000円」と思うと、やはり躊躇してしまい、とうとう一回も利用できませんでしたね。😅

カードキーをもらって、お部屋に入ります。

こんな感じ。お安いだけあって、前回の半分くらい?の広さです。でも、このホテルの、清潔でスタイリッシュな雰囲気が気に入っています。^^

これからここで、2週間を過ごすわけです。


お部屋の手前には、
バスルームとクローゼットがあるのですが、
どちらも広くとってあるので、
生活しやすいような気がしました。


あまり広くはない部屋で、
それもダブルベッドですよ。😅
3年前に離婚を申し渡したMIYOが、
とりあえず、その離婚を保留して、
現在に至ってるわけですが。
そんな夫婦が、一日中顔をつきあわせて、
この部屋で2週間も暮らす、と…。🤣🤣


さて、どうなるのでしょう。
ますます険悪な仲になり、
収拾がつかない状態になってしまうのか。
それとも、少しはマシな状態に、
変わっていくのか…。
吉とでるのか、凶とでるのか、
まるでわからない2週間がスタートします。爆


ところで、この連載の第一回でお話した、
マリオットの「プラチナチャレンジ」
コロナでもウポポイ3。札幌2週間ホテル暮らし 1 - できるかな、プラチナチャレンジ。(2021年11月3日/1日め) - MIYO'S WEBSITE-全盲難聴のんたんの育児記録と卵巣ガンで思ったこと


「4か月間に16泊です。
 とりあえず、札幌に12泊して、
 泊数を稼ぎます。^^
 残りの4泊は、そのあとの3か月で、
 どうにかします。」


などと豪語したのですが、
実は、4か月目の2月になったというのに、
まだ16泊を達成できておりません。😅
今月が期限なんですけどね…。😞
残すところ、あと1泊なんですけどね…。😞


さて、晩ごはんです。
記念すべき一日めの夕食は、
「オーソドックスにサッポロビール園で!」
というMIYOの希望で、ジンギスカンに決定。^^


大学時代、同級生の女子4人で北海道を旅行し、
そのときに、サッポロビール園で
食事した記憶があります。
でも、どんなところだったか、
全く覚えていません。


あれから32年ですよ。🤣🤣
まるで初めて行くような気分です。


あちこち観光して、お腹がすいてるし、
車で行きたかったのですが、
「それじゃあ、酒が飲めない。」
と夫が言い張り、歩いていくことに。😔


ホテルから歩くこと30分以上。日本ハムファイターズの球場の横を通りました。中で練習しているのが見えましたよ。^^

さらに歩き続けると、こんなのが見えてきました。どうやら、サッポロビール園に到着したようです。

ようやく、あの、有名な煙突が見えてきました。

開拓使館です。

赤いツタに覆われた、美しい建物でした。


【サッポロビール園~赤レンガと星に、想いを込めて~】
赤レンガの建物「開拓使館」は、1890年に、製糖工場として建設されたものです。その後、1965年までは製麦工場として使用され、そして1966年、サッポロビール園が誕生しました。日本ビールの生誕地にして原風景ともいえる風格あふれたロケーションと、開拓使以来の伝統である深いビールの味わいを楽しむことができるサッポロビール園は、札幌の有名な観光スポットです。


正面玄関に向かって歩きます。

すばらしいですね。こんなところで晩ごはんですよ。😍😍


【赤レンガの開拓使館】
1876年、開拓使麦酒醸造所(現サッポロファクトリー)が開業しました。レンガ造りの煙突には、赤い星が描かれています。この赤い星は、サッポロビールのシンボルであるとともに、かつて開拓使や屯田兵の制服の胸や旗で輝いた星でもありました。サッポロビールの赤い星は、北海道開拓のシンボルそのものなのです。


煙突の赤い星を見上げながら、中に入りました。

入り口を入ると、こんなレンガの世界が広がっていました。レトロで、いい雰囲気です。^^


「サッポロビール園」には、
 ・ケッセルホール
 ・トロンメルホール
 ・ライラック
 ・ガーデングリル
など、いくつものレストランがあり、
用途に合わせて選ぶことができます。


こちらはトロンメルホール。入り口を入ってすぐのところにあります。ジンギスカンにくわえて、カニやお寿司の食べ放題が楽しめるのだそうです。


でも、MIYOが行きたかったのは、
ケッセルホール


「こっちこっち。この階段を上がったとこにあるんだって。


どうして「ケッセルホール」なのか、
というと、ここには、
巨大なビールの仕込み釜(ケッセル)
が展示されているから、なのです。


こんなのですよ。^^ ドイツのビアホールを思わせる空間です。このケッセルを眺めながらビールを飲みたい、というのが、MIYOの希望でした。笑(画像をお借りしました)


札幌2週間ホテル暮らし。
その一日めの晩ごはんが始まります。


(つづく)

コロナでもウポポイ3。札幌2週間ホテル暮らし 10 - 北海道博物館⑤ 「群馬のケズリバナとアイヌのイナウ」(2021年11月3日/1日め)

2021年11月11日 札幌市資料館で。(北海道札幌市)


11月3日(水)


北海道博物館で、
「アイヌのくらし」企画展を
見学しました。


あまりにもたくさんの衣服が展示してあり、驚きました。


最終章である第六章は、
少し趣が変わり
「群馬のケズリバナとアイヌのイナウ」
がテーマでした。


(解説から)
アイヌ民族のイナウは、削りかけの技法を用いて作られていますが、それとよく似た群馬県のケズリバナを紹介します。「削りかけ」は、ユーラシア大陸から東南アジアまでの一帯に分布し、儀礼品や実用品として使用されてきました。

群馬県のケズリバナは、「百姓の正月」「農の正月」とも言われる「小正月」を飾るもので、群馬県下で広く製作されています。その造形は、新年に訪れる神の依り代として、幣束や花をはじめ、稲穂・蚕・朝日などを特徴的に表現しており、豊かな稔りへの願いが込められています。


群馬県のケズリバナ

まずは、アイヌのイナウについてみて行きましょう。下の展示写真の、右下をご覧ください。これがイナウで、アイヌ文化に関する展示には欠かせない存在です。

ここでも、右下にイナウが展示されています。


【イナウ】
イナウは、アイヌの祭具のひとつで、カムイや先祖と人間の間を取り持つもの(贈り物・メッセンジャー・神霊の依り代)とされています。日本語では、しばしば木幣(もくへい)と訳されるように、神道で用いられる御幣と同様な役割をすると考えられています。
アイヌの人びとにとって、イナウは、宗教儀礼の執行に欠くことのできない祭具で、儀礼を執行する前に、一本ずつ心をこめて作ります。その形は、祈りの対象とする神がみによって異なります。


イナウです。
左:戦争の時に捧げる木幣
右:男性の病気を見守る神

「削りかけ」の技法で、木に装飾を施します。

お守り用の舟に、イナウを乗せているように見えます。これも、舟を削って作った物です。

狐神の背飾り。熊送り儀礼の際に、狐の背中に付ける飾りです。

1943年(昭和18年)に、戦勝祈願祭で、イナウを捧げ持つアイヌの人びと。(画像をお借りしました)

次は、群馬県のケズリバナです。木を削って装飾するという技法が、イナウと共通しています。

左:ツルシバナ
右:カキバナ(カメ)

繊細な削りかけにより、花びらを再現しています。
左:ジュウロクバナ
右:クルマバナ


アイヌ民族の木工技術は、
「削りかけ」だけでなく、
彫刻作品でも発揮されています。


角盆(2017年 平取町二風谷 貝澤徹 作)


企画展の最後に、
司馬哲也氏(長万部アイヌ協会会長)
のことばが寄せられていました。
そのメッセージには、祖父母である、
司馬力彌・ハル夫妻の思い出が
綴られていました。


今も、アイヌであることを誇りにして、
活動している方がおられることに、
なにか、ほっとするような気持ちでした。


司馬力彌・ハル夫妻(1936年)(以下6枚、画像をお借りしました)

寺内陸軍大臣、林司法大臣などの要人が長万部を訪問する際は、司馬氏が駅で出迎えたそうです。(1936年 長万部駅)

ヘレンケラーも、この地を訪れています。(1937年 長万部駅)


想像していたよりもずっと、
内容が充実した展示でした。
このような企画展を見学できたことに、
感謝しながら、博物館を後にしました。



結局、閉館時間ぎりぎりに、
北海道博物館を出発しました。
これからようやく、ホテルへと向かいます。
羽田空港を出て、ここまでで、
10回も書いてしまいました。
(まだ、チェックインすら
 していませんが…。笑)
いつもながら、コマ送り日記でスミマセン。


(つづく)

コロナでもウポポイ3。札幌2週間ホテル暮らし 9 - 北海道博物館④ 「太平洋沿岸の人びと」 / 自宅で作る「バインミー」(2021年11月3日/1日め)

2021年11月7日 民族共生象徴空間「ウポポイ」で、アイヌの家屋を見学しました。(北海道白老郡白老町)


11月3日(水)


北海道博物館で、
「アイヌのくらし」という企画展を
見学しています。


第五章は、
「北海道 太平洋沿岸の人々」
がテーマです。


(解説から)
この地域では、近世まで、和人の進出が低調でした。そのため、他地域で見られたような、アイヌ民族の大規模な人口減少が起こらず、アイヌ民族は、文化的にも高い自律性を維持した状態で近代を迎えました。しかしながら、近代以降は、資源の枯渇による飢餓、移住者による土地の搾取、官命による強制移住など、数多くの苦難に直面しました。ここでは、西の肝振噴火湾から日高を経て、東の十勝・釧路へと、海岸線をたどりながら、人びとの歩みをたどります。


1940年(昭和15年)頃、魔を払う威武行進に集まった、静内の人びと。

飾り矢筒

五弦琴

木幣

首飾り

山刀

1920年代の旭川に端を発した、アイヌ民族による木彫り熊の流れは、大きな評判を呼び、多くの職人が腕を競って作品を残しました。この作品は、藤戸竹夫の作と思われ、1930年代に、美幌国防婦人会によって寄贈されたことが、台に記録されています。

たくさんの衣服です。本当は、一枚ずつ大きなサイズで掲載したいのですが、写真の数があまりにも多いので、やむなく、左右に並べました。

一着ずつ、ガラスケースにおさまっているのを、表側裏側とウロウロしながら撮りました。笑 文様がすばらしいですね。

オヒョウ繊維製衣服。どうやったら、こんな柄を描けるのでしょうか。

木綿製衣服(八雲町)弁開凧次郎(エカシパ)の旧蔵品でした。

この衣服の主だった、弁開凧次郎(エカシパ)氏です。1847年(弘化4年)、八雲町落部に生まれました。地租創定直後の1881年には、村内で耕地1606坪の払い下げを受けるなど、類い稀な指導力や経済力量を発揮しました。また、数多くの熊穴の占有権を有する優れた狩猟者・獣医としても知られました。写真は、礼拝の姿勢をとる弁開の姿です。儀礼用冠を着用しています。

弁開が着用していた儀礼用冠。


数多くの衣服の美しいデザインに、
驚くばかりでした。
こんなにも美しい衣服を着た人びとが
おおらかに暮らしていた、
そんな時代があったのだということを、
真摯に受け止めたいと思いました。


次回は最終章です。


(つづく)


(おまけのお話)


夫が、バインミーを買ってきました。焼き豚肉バインミー、焼き鶏肉バインミー、スペシャルバインミーの3個で、1980円でした。(2022年1月5日)

高田馬場のバインミー人気店「シンチャオ」で買ったそうです。

ベトナムのお正月料理「バインチュン」が1200円だったそうです。

バインチュンって、これですよ。バナナの皮に包んだちまき。笑 お正月でなくても、市場にフツーに売ってるものです。たしかに、とってもおいしいのですが、1200円はひどい。ベトナムなら、大きさによるけど、100円~500円くらいだと思います。(2019年9月12日)

定年でもベトナム。ハノイで始める、お仕事日記 33 - ベトナムの朝ごはん、「紫いものあんまん」(2019年9月12日-13日/12-13日め) - MIYO'S WEBSITE-全盲難聴のんたんの育児記録と卵巣ガンで思ったこと


私が滞在していた家庭では、ときどき、こんなバインミーをテイクアウトして、お昼ごはんにしていました。中身はほとんど入っていない、エコノミータイプです。でも、このパン、おいしいんですよ。^^(2019年9月5日)

そこに、タムさんが自宅で用意してくれた具材を、これでもか、と追加していただきます。めちゃおいしかったです。^^

このときの日記です。


思い出深いバインミーを売るお店が、
この一年くらいで、日本にも増えてきました。
そしてとうとう、
オイシックスのミールキットにも登場です。


[Kit]豚肉リエットのやみつきバインミー。ふたり分で1393円です。オイシックスの写真は、いつもほんとうにおいしそうです。^^(画像をお借りしました)


バインミーって、
単なるサンドイッチのはずなのに、
やたらおいしいんですよね。
あの味、どうやって作ってるのか、
いつもナゾでした。
なので、早速購入して、作ってみました。


自分で作ると、こんな感じです。あえて開いて、中身を見えるように撮りました。私のは、パクチーをほとんど入れていません。笑 カボチャとほうれん草のミルクスープといっしょにいただきました。


うまうまでした。😋😋
あの、ふしぎなペーストはなんなのか?
と、いつも疑問だったのですが、
フランス料理の、ポークリエット
だったのですね。
さすが、旧フランス領です。
(レバーペーストでもありだと思います。)


ポークリエットのペーストに
ヌクマムを混ぜて、
人参と大根の千切りを塩もみして、
トーストしたパンにはさんだら、
できあがりです。
超カンタンでした~~~。笑


こんなにカンタンにできるのに、
お店で売ると一個が660円というのは、
ちょっと高すぎじゃないかと。


日本のベトナム料理店は、
おいしいお店も多いけど、
まだまだ、お高いなあ、と、
いつも思います。
はなまるうどんが300円なのに、
フォーが1000円だなんて、
おかしいですよ。😅


でもいまや、
日本で働くベトナム人の数が、
激増しています。
新大久保に住むベトナム人の数は、
韓国人よりも多くなったそうですよ。


ベトナム人の数が増えて、
ベトナム料理のお店が増えたら、
ベトナム料理の価格は、
きっと、もっと安くなっていくだろうと、
想像しています。


はやく、そんなふうにならないかなあ…。^^

コロナでもウポポイ3。札幌2週間ホテル暮らし 8 - 北海道博物館③ 「北千島と樺太の人びと」 / 謎の中華麺「ビャンビャン麺」(2021年11月3日/1日め)

2021年11月5日 サッポロファクトリーで。(北海道札幌市)


11月3日(水)


北海道博物館で、
「アイヌのくらし」という企画展を
見学しています。


第四章のテーマは、
「北千島と樺太の人びと」
でした。


(解説から)
カムチャツカ半島にほど近い千島列島北部を中心に住んだ千島アイヌの人びとと、樺太南部に住んだ樺太アイヌの人びとは、隣接する諸民族との交流を通じ、地域色豊かな文化を育んできました。それは、北海道アイヌとは大きく異なる点でした。しかし、19世紀以降、日本とロシアという二つの国家の間で、きわめて過酷な歴史の中を歩むことを余儀なくされました。現在、千島アイヌの子孫であると公表する人がひとりもいないという事実は、国家がひとつの民族集団を離散に追い込んだ事例として、記憶されなければなりません。この章では、北千島と樺太それぞれの人びとの歩みをたどります。


1935年(昭和10年)の、樺太落帆の人びと。

オヒョウ繊維製衣服と前掛け(1887年北見)

木綿製衣服と前掛け

別のブースに展示してあった木綿製衣服です。上の衣服と似ていますが、よく見ると、文様に微妙な違いがあります。どちらも、伸びやかな曲線がすばらしいですね。(1971年・石狩)

同じような柄の脚絆もあります。

イラクサ繊維製衣服(1941年・樺太)

オヒョウ繊維製衣服(樺太)

山刀。農業を営む和人の家に残されていたもの。植物の蔓を思わせる、特長的な文様と巧みな彫りの技術からみて、山下三五郎氏の手による可能性が極めて高いそうです。
山下三五郎:1882年(明治15年)に現在の石狩市浜益に生まれ、戦前まで札幌で活躍した工芸家です。

太刀


展示会場の中に、ひとつだけ、
異なる衣服がありました。
アイヌ民族の衣装らしからぬ、
ワンピースです。


ロシア風衣服、プラーテ。アレクサンドラという、千島アイヌの女性が着ていたそうです。

左:アレクサンドラ・ストロゾフ(1934年 色丹島)
右:アレクサンドラが好んで着ていたプラーテには、紅いモミジの柄が、今も鮮やかに残っていました。



(解説から)
千島列島では、幕府による対ロシア政策の一環として、1803年(享和3年)に択捉(えとろふ)島と得撫(うるっぷ)島の間の往来が禁止されました。以来、択捉島以南の人びとは日本側、得撫島以北の人びとはロシア側の支配下におかれました。得撫島以北では、ロシア人との接触を通してロシア正教を信仰し、名前もロシア風の洗礼名を用いるようになりました。そのため、後に「千島アイヌ」「北千島アイヌ」と呼ばれることになります。
1875年(明治8年)、樺太千島交換条約が締結されました。これをうけ、1884年(明治17年)、日本政府は、千島アイヌを北海道本当に近い島に移住させました。
展示されている衣服(プラーテ)は、1935年頃に千島アイヌを訪ねた和人研究者によって収集されたものです。移住から50年が経過していた当時、このようなロシア風の衣服を着用する千島アイヌは少なくなっていましたが、アレクサンドラだけが、プラーテを日常着としていたそうです。


80年もの間、ロシア人として生きて来た、
千島アイヌの人びと。
その後、日本側に強制移住させられましたが、
移住から50年を経ても、
ロシアの衣服を着続けた女性がいた…。


モミジ模様のプラーテは、
日本とロシアの複雑な歴史に翻弄された、
千島アイヌの人びとの心情を、
物語っているかのようでした。


展示は、
「第五章 北海道 太平洋沿岸の人びと」
へと続きます。


(つづく)


(おまけ)


写真の数が少なめだったので、
最近作ってみた、
「ビャンビャン麺」をご紹介します。


ビャンビャン麺は、中華麺です。
中国・西安で一般的に食べられている、
平たい幅広の麺のことで、
ネギや唐辛子、山椒をのせ、
「タレをからませて食べる汁なしのきしめん」
のような食べ物です。


このビャンビャン麺。
世界一むずかしい漢字である、と言われています。
なんと、一文字で50画を超えるんです。
どんな漢字かと言うと…。


コレです。爆(画像をお借りしました)


もう、笑うしかないですね。
「馬」だの「長」だのがてんこもりです。
ちなみに、この漢字は、
「ビャンビャン麺」以外には使わないとか。
せっかく覚えても、使い道はなさそうです。🤣🤣


名前の由来には諸説ありますが、
麺を打つときに
「ビャンビャンッ!」と音がすることから、
ビャンビャン麺と呼ばれるようになった、
といわれています。


このビャンビャン麺が気になっていました。
すると、なんと、
オイシックスのミールキットに登場したのです。


さすがオイシックス。いかにもおいしそうに、きれいに撮りますね。(画像をお借りしました)

ふたり分で、1717円でした。
ちょっとお高いけど、
「ビャンビャン麵を食べてみたい!」
という気持ちが先にたち、
つい買ってしまいました。
そしてできあがったのが、こちらです。


我が家のビャンビャン麵。チンゲン菜、ねぎ、しいたけ、豚肉がのっていて、丼の底には、ソースがたまっている状態です。付け合わせは、鶏からあげの甘酢あん、サラダ、切り干し大根といんげんの和え物。この日のお昼ごはんにいただきました。(2022年2月2日)

まずは、麺をリフトアップ。こーんなに幅広なんです。麺というより、布きれみたいですね。笑

そして、ぐっちゃぐちゃに混ぜて、丼の底にある酢醤油のようなソースをからめながらいただきます。


味は、まあ、普通の中華きしめんですね。笑
中華風の香辛料がきいていて、
日本料理にはない味です。
おいしくいただきました。^^


そういえば、
数十年前の中国映画を見ていると、
丼のような器を片手に持って、
家の前とかを歩きながら、
麺を食べてる人が、よく登場しました。


ラーメンなら、丼が熱くて重いので
持ち歩けないし、
スープがこぼれる可能性もありますが、
ビャンビャン麵なら、スープがないので、
軽いし、それほど熱くもないので、
手軽に、歩きながら食べられます。
(焼きそばみたいな感覚ですね。^^)


日常の食事を、屋外で、
歩きながら普通に済ませる人々なので、
ビャンビャン麵は、その生活スタイルに、
合っていたのかもしれません。


それにしても、どうしてあんな、
難しい漢字を作ったのか。🤣🤣


このビャンビャン麵、
東京で売っているお店を見つけました。


先日、夫と上野に行き、アメ横を歩いていたら、
立ち並ぶ中華屋台のひとつが、
ビャンビャン麵のお店でした。笑
ついうれしくなって、
写真を撮らせていただきました。


店員さんのユニフォームです。背中に大きく、「ビャンビャン麵」とあります。(2022年1月22日)


すごいなあ…。
中国には、この活字があるんですね。😄😄


中国人のスタッフの方に、
「いかがですか。すぐ食べられますよ。」
と、言われたのですが、
ちょうどランチをすませてきたばかりで、
お腹がいっぱいです。


写真まで撮らせてもらって、
申し訳ないのですが、
そのまま、帰宅しました。
残念。^^

コロナでもウポポイ3。札幌2週間ホテル暮らし 7 - 北海道博物館② 「オホーツク海沿岸の人々」と「和人社会との交易」(2021年11月3日/1日め)

2021年11月7日 有珠外輪山展望台から、洞爺湖を臨みました。(北海道有珠郡壮瞥町字昭和新山)


11月3日(水)


北海道博物館で、
「アイヌのくらし」という企画展を
見学しています。


第二章は、
「北海道 オホーツク海沿岸の人々」
がテーマです。


(解説から)
近世までは、人口のほとんどをアイヌ民族が占めていた地域です。しかし、隣接する大漁場である北の利尻、東の国後では、和人による開発が急速に進み、人々の暮らしは和人社会との切り離しがたいものになりました。近代以降に、多数の和人移住者が流入するようになると、水産資源が枯渇するようになり、離散に追い込まれる集落もありました。ここでは、宗谷岬周辺と知床・斜里を中心に、海岸線を南下しつつ、人々の姿を紹介していきます。


1912年頃、儀礼を実施する斜里の人々。

花矢です。熊送りの際に、儀礼的にクマに射かけるものです。熊が体を動かすと振り落とされ、それを、子どもたちが先を争って拾いました。


【熊送り】
このときは、意味を知らなかったのですが、最近になって、「ゴールデンカムイ」で説明される場面があり、ようやくわかりました。熊送りは、クマを崇拝する民族が執り行う宗教儀礼だそうです。クマを神の化身と見なし、恵みに感謝するもので、2種類の儀礼があるそうです。
・狩り熊型熊送り儀礼
 狩猟で得られた熊の魂に「肉と毛皮の恵み」を感謝し、クマの魂を天界に送り返したうえで再訪を願うこと。
・飼い熊型熊送り儀礼
 子熊を村内で飼育したうえで肉と毛皮の恵みを受け取り(屠殺し)、クマの魂を天界に送り返したうえで再訪を願うこと。


アニメの「ゴールデンカムイ」
我が家では、私だけでなく、
夫も長女も楽しみに見ています。
北海道の情景が丁寧に描かれていて、
アイヌ文化も豊富に紹介されています。
おもしろくて、ためになります。^^
(現在、東京MXで放映中。)


左上から、有翼酒箸、捧酒箸(パスィ)、熊神用耳飾。

左:木幣
右:天川恵三郎氏(アイヌ名エシヤラ)。展示してある儀礼用具類は、天川氏が研究者に渡したものだそうです。熊撃ちの名手として知られると同時に、秀才で、近代的な法制度に精通していました。アイヌに関する社会運動家であったため、当局による監視対象となりました。


第三章のテーマは、
アイヌ社会と和人社会の「交易」
です。


(解説より)
近年、アイヌ民族はしばしば「交易の民」と称されるようになりました。とりわけ、アイヌ社会に蓄積された豊富な漆器や刀剣類といった和製品やロシア沿海州~サハリン経由でもたらされた絹織物が、注目されています。ここでは、主に、19~20世紀の事例を取り上げ、和人社会からアイヌ社会にもたらされたものと、アイヌ社会から和人社会に移出されたものの実例を通じて、「交易」の実態に迫ります。


前列中央に座っているのが、明石和歌助(イカシワッカ) 虻田(アプタ)首長です。この地域のアイヌ民族のリーダーでした。背後に積み重ねられた物品は、和人との交易で得た品々です。これらを多く所有することが、豊かさの象徴でした。

当時の交易品の数々が展示されていました。

漆器類です。
上段左:行器。和人社会では食べ物を持ち運ぶのに使用するものですが、アイヌ民族は、儀礼の際に酒を入れるのに使用しました。
上段右:桶
下段左:台盃。儀礼の際に酒を入れる漆器です。
下段中:日常の飲食に使用する漆器です。和人の史料には、「南部椀」と記されています。

角盥(つのだらい)

陣羽織。近世には、役職に就いた男性の正装として、陣羽織の着用が制度化されていました。その陣羽織が、和人からアイヌの手に渡りました。近代になり、制度がなくなったあとも、アイヌ社会では男性の正装の一つとして重視され続け、神々に祈りを捧げる際に欠かすことができないものと考えられるようになっていきました。

アイヌ民族の女性が製作した、オヒョウ繊維製の衣服(アットゥシ)は、近世には和人社会でも受容され、厚子(あつし)と呼ばれました。近代に入ってからも、漁場の労働者や都市住民の雨具として用いられました。アットゥシを作ることは、アイヌ民族女性の貴重な収入源となりました。

1872年(明治5年)ごろに、東京湯島で開催された博覧会に、石狩の志村弥十郎(シャンゲ)氏が、熊の飼育係として雇用され、上京しました。この時に着用した衣服であることが、現存する写真で確認されています。

左:木綿製衣服。帆布をオヒョウ繊維製の布に近い色に染め上げています。(明治期・古平町 山口家)
右:オヒョウ繊維製衣服。オヒョウ繊維製の布に濃い藍染めの木綿布を貼りつけ、文様を描き出しています。(明治期・古平町 山口家)

左:オヒョウ繊維製衣服。アイヌ民族の女性が製作した衣服は、和人社会に流通し、北海道だけでなく、東北地方から北陸地方の日本海沿岸に、数多く残されています。この衣服は、新潟県佐渡に伝わったもので、北前船を介して流通したものと考えられます。(幕末~明治期・新潟県佐渡市)
右:木綿製衣服。木綿製で仕立てられた、袷(あわせ)の衣服です。襟や裾周りの文様は、小樽市祝津や高島に残されていたものを類似しています。

アイヌの民族衣装を本土へと運んだ、北前船。

北前船については、石川県加賀橋立を訪れた時の日記に書きました。(2020年7月26日)


写真は、夫と私が、
思い思いに撮ったものです。
帰宅後、お互いの写真をいっしょにすると、
順番がかなりごちゃごちゃになりました。
多動夫が、
「歩いた順路に従って撮る」のではなく、
「好きなように歩いて、撮りたいときに撮る」
人だからです。😂😂
「順路に関わらず、気になったところに
 行ったり引き返したり。
 その都度都度で、好きなように撮る」
なんてことをしょっちゅうやるので、
写真の順番がわからなくなります。
あとから写真を見ると、
「これはどこだっけ?」
と、考え込んでしまうことも、
少なくありません。


今回も、大量のごちゃごちゃ写真を、
悩みながら、展示の順番に並べなおし、
どうにか掲載しています。
なので、写真によっては、違う章の展示が
混在している可能性がありますが、
「素人の旅行アルバム」と思い、
大目に見ていただければありがたいです。😅😅


(つづく)