MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。

超未熟児で生まれた後遺症で、全盲難聴(盲ろう)となったのんたん、双子の妹あみちゃんと共に楽しく生きる家族のお話です。
子どもたちは24歳になり、毎日元気に楽しく暮らしています。
卵巣ガンになって思ったことも、少しずつ書き始めました。
ベトナム日記は、
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ベトナム家族旅行:
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小学生だったころの子どもたちの育児日記は、こちらです。
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埃まみれのビルマ。バックパッカーの10日間 9 - メイッティーラを通過してパガンに到着。そしてアーナンダ寺院へ。(1987年5月4日/4日め)

1987年5月4日 アーナンダ寺院で。(ビルマ・パガン)


1987年5月4日(日)- 4日め


マンダレーから夜行バスに乗り、
パガンへと向かっています。



朝ごはんも終わり、再びバスで走っていると、
窓の外に、湖と町が見えました。


海のように見えますが、これは湖で、メイッティーラ湖と言います。


夫が、近くに座っていた人に尋ね、
「ここはメイッティーラだよ。」
と教えてもらいました。
それで写真を撮ったようです。


【メイッティーラ(Meiktila)】
ビルマ(現在のミャンマー)の中部にある都市で、メイッティーラ湖のほとりにあります。人口は、2014年時点で約30.9万人。古くから交通の要衝で、ヤンゴンとマンダレーを結ぶバスは、必ずこの町を通ります。


夫がこの街にこだわったのには、
理由があります。
ここで、1945年3月に、
日本軍とイギリス軍がイラワジ会戦を行い、
大激戦の末、イギリスが勝利しました。
一ヶ月におよぶ、メイッティーラ奪還戦で、
英連邦軍の戦死者は、約18000名
(内7500名は戦病者)。
日本軍の戦死者は、12913名でした。
さらにこの後の後退戦において、日本軍は、
敗戦までに15万人以上の戦死者を出しています。


かつての日本にとって、
ビルマとはそういう国であり、
その中でも、メイッティーラは、
多くの日本人が戦死した激戦地でした。


私たちがビルマに行ったのは、
37年も前のことです。
当時は、ビルマで日本軍が戦ったのを
見ていた人たちが、少なからずご存命で、
たまに日本人を見かけると、
「日本人ですか?
 メイッティーラを知っていますか?」
と、話しかけてくることもありました。


忘れられないのは、パガンからタウンジーに移動する乗り合い自動車で出会った、ウー・タン・アイ(U Tun Aye)さん。メイッティーラに住んでいる方でした。(1987年5月6日)


ウーさんは、私たちを見ると、
「ニッポンジンデスカ?」
と、日本語で話しかけてきました。


第二次大戦のときに、
日本はビルマで小学校を作り、
ビルマの子どもたちに、
日本語で同化教育を実施しました。
その頃、小学校に通った人たちの中には、
それから40年以上たっても、
日本語を覚えている人がいました。
そして私たちを見ると、
日本語で話しかけてくれました。
ウーさんも、そのひとりでした。


ウーさんは、忘れかけていた日本語を
一生懸命思い出しては話し続け、
「ミヨ、トウカイノ ソラ アケテー♪」
と、愛国行進曲まで歌ってくれました。
おそらく、小学校で習ったのだと思います。


「ニッポンジン、ヘイタイサン、
 タクサン イタ!」
…と、彼の話は続きました。


「タナカ!」


「タナカ」という日本兵がいたようです。
そして、次に彼が言ったのは、


「シンダ!」


このあとも、
「ヤマモト! シンダ!」
「スズキ! シンダ!」
「ヤスダ! シンダ!」
と…。
自分が知っていた日本兵の名前を、
懸命に思い出しながら、
ウーさんは話し続けました。


日本がビルマで、子どもたちに対して、
愛国教育を日本語でやってきたこと。
イラワジ会戦以後だけでも、
15万人もの日本兵が亡くなっていること。
そんな事実が目の前に迫って来て、
私たちは、返すことばもありませんでした。
ビルマという国を戦場にしてしまったことで、
ビルマの人々に申し訳ない気持ちもありました。


けれどウーさんが、日本を憎むことなく、
自分が習った日本語をなつかしく思い出しながら
私たちと話そうとしてくれていることは、
せめてもの救いでした。


あのころ、ビルマを旅するということは、
第二次大戦時の日本がやってきたことと、
自分なりに対峙し、考えてみる…。
そんなことでもあったような気がします。


いろんな思いを抱えながらも、バスは走り続けました。

マンダレーから走り続けること10時間。ようやくパガンに到着しました。


ここで、MIYOも夫も、足を見て大笑い。
ズボンも靴も、靴下も、
真っ黄色に染まっていました。


昨夜、バスに乗ったときには、
真っ暗でわからなかったのですが、
運転席の隣りに、麻袋があり、
「その袋の中に、
 ターメリックのようなものがあった。」
と夫は言いました。


袋の口が開いていたようで、
バスの振動と共に、
中からその粉が舞い続けていたようです。
一番前の補助席に座っていた私たちの足は、
一晩中、その粉にさらされていました。😅


このときは、「単なる粉」と思っていました。
叩いて払えば落ちるし、
日本に帰ってから洗濯すればいいだけ。
…と思っていました。


それがね。
帰国してから、洗っても洗っても、
落ちないんですよ。🤣🤣


このパンツ、動きやすくて、
わりと気に入っていたのですが、
黄色い埃まみれになったのを
日本に持ち帰り、洗いまくったあげく、
結局、オシャカになりました…。😔


到着するなり、パゴダがいくつも見えました。と言っても、ここで夫が撮りたかったのは、MIYOでもパゴダでもなく、ピンクの花が満開だった樹。🤣


さて。
ここから、新たな人物の登場となります。
彼もまた、ビルマで会った、
忘れられない人でした。


それは、モンモンさん。


パガンでは、2泊する予定でした。
(ここで初めて、ホテルに泊まります。笑)
バスを降り、
「これからどうしようか。」
…と、ふたりで相談していたとき、
「オレの馬車で、パガン観光しないか?」
と話しかけてきたのが、モンモンさんでした。


馬車で観光するとか、思ってもみませんでした。
でも、広大なパガンの遺跡群を周るのに、
この頃は自動車なんてほとんどなかったので、
よく考えると、馬車というのは、
当時、唯一の移動手段でした。


モンモンさんといっしょに。この馬車に乗って、2日間、パガンを観光しました。


この写真をよく見ると、MIYOの後ろに、
のんびりと移動している牛車が写っています。
ほんと、あの頃のパガンには、
自動車なんてなくて、
すれ違うと言ったら、馬車か牛車でした。笑


モンモンさんの馬車の上から、他の馬車を撮りました。誰かの足が写りこんでいますが。🤣

馬車に乗って、しゅっぱあ~つ!😄

道路の両側に、パゴダがガンガン見えてきました。


【パガン寺院群】
パガン(またはバガン)は、ビルマ(現在のミャンマー)の中央部にあります。世界三大仏教遺跡のひとつであるパガンは、11〜13世紀にパガン朝の都があったところです。パガン王朝は、エーヤワディー川の輸送を支配し、水運の独占によって広大な地域を治めた国家でした。ここには、2200基以上もの仏塔(パゴダ)や寺院が残っていて、カンボジアのアンコールワットやインドネシアのボロブドゥールをはるかに凌ぐ、アジア最大級の仏教遺跡と言われています。軍事政権が続いて、訪れることが難しい国だったこともあり、あまり知られていませんでしたが、ようやく2019年に、世界遺産に登録されました。
上座仏教を国教に指定したのは、パガン朝の初代の王・アノーヤター(1044〜1077年)でした。パガン朝は。13世紀に最盛期を迎え、仏塔も多く作られるにようになります。これだけ仏塔が造られたのは、バガン朝が仏教によって国をコントロールからと推測されています。
50㎢を越える広大な遺跡群の中でも、多くの仏塔があるのは、エーヤワディー川の東側。遺跡はおもに8つの遺産で構成されていて、仏塔、寺院、僧院、巡礼者用の施設、フレスコ画、彫刻、遺跡など、幅広いのが特徴です。13世紀にパガン朝は衰退し、滅んでしまいますが、この地は上座仏教の聖地として、今でも人々の祈りの場となっています。パガン寺院群は、現在も人々から篤い信仰を集めている、「生きた遺跡」と言えます。


2200以上もの仏塔(パゴダ)や寺院が今も残る、パガン寺院群です。(画像をお借りしました)

遠くの方に見えているのは、ティーローミィンロー寺院(Htilominlo Pahto)のようです。

馬車はどんどん進み、タラバ門(Tharabha Gate)から、中へ入りました。


【タラバ門(Tharabha Gate)】
9世紀に、ピンビャー(Pyinbya)王が、城を守るために築いた城壁の門です。タラバ門はパガン朝時代のものではなく、それよりも200年ほど前に造られたものです。左右の門には精霊(ナッツ神)が祀られており、この門をくぐると、いよいよ、オールドパガンに入ることになります。


アーナンダ寺院の正門前に着きました。いきなり、パガンの大御所に入ります。^^


【アーナンダ寺院(Ananda Temple)】
バガン遺跡の中で最も有名な寺院のひとつです。パガン王朝に最盛期をもたらした王といわれている第3代チャンシッター(Kyanzittha)王が、1105年に建立しました。都城外の東側に位置するアーナンダ寺院は、一辺が53メートルの大きな正方形の寺院で、高さは51メートル。「アーナンダ」という名前は、仏陀の弟子のひとりに由来しています。
アーナンダ寺院は、ビルマとインドの建築様式を融合させたスタイルです。ギリシャの十字のレイアウトを取り入れ、エレガントな雰囲気も兼ね備えながら、完璧に計算された対称構造になっています。最も特徴的なのは、黄金に輝く尖塔部分を持つ「シカラ(sikhara)」で、北インドをルーツとしています。このシカラの側面には、仏像が安置されている5つの壁龕があります。さらにそのトップには傘型の尖塔装飾品である「ティ(hti)」が飾られています。


アーナンダ寺院で。(1987年5月4日)

そして現在のアーナンダ寺院。同じアングルの写真を探してみました。^^ やはりここでも、金色の部分が増えています。(画像をお借りしました)


アーナンダ寺院は、
「バガンで最も美しく、中心となる建造物」
とされています。
その美しい外観から、
「ビルマのウェストミンスター寺院」
とも称されているそうです。


アーナンダ寺院の写真は、
次回でもう少し掲載します。


(つづく)

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