MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。

超未熟児で生まれた後遺症で、全盲難聴(盲ろう)となったのんたん、双子の妹あみちゃんと共に楽しく生きる家族のお話です。
子どもたちは24歳になり、毎日元気に楽しく暮らしています。
卵巣ガンになって思ったことも、少しずつ書き始めました。
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4年ぶりのベトナム。北部から中部へと歩いた18日間 81 - 王宮㉒ 午門、ナム・ザオ・ダン、そして顕仁門へ。(2023年6月19日/6日め)


2023年6月19日 フエ王宮・顕仁門で。


6月19日(月)


毎日毎日、王宮の話を書き続けて
今日で22話になりました。
まさかこんなに長い連載になるとは
思っていなかったのですが、
王宮を全部歩き、
そのすべてを書こうとすると、
やはり、こんなことに
なってしまいました。😅


フエ王宮日記、最終話です。


夕陽を浴びて輝いていた午門。


「とうとう、戻ってきたね。
 結局、全部歩いちゃったね…。」


ふたりして、午門を見つめながら、
中道橋を歩きました。


在りし日の午門(1919年)。長年の改修工事が終了し、現在の午門は、このときの姿が蘇っています

夕方の午門は、夕陽を浴びて、来た時よりもずっときれいに見えました。うれしくて、何枚も写真を撮りました。

在りし日の、同じ場所の写真です。このときの坊門(牌坊)は、たくさんの鐘で装飾されています。

1935年の、同じ場所の写真です。ナム・ザオ・ダン(Đàn Nam Giao)という、皇帝の儀式を終えて、バオダイ帝の輿が戻ってきたところです。

私たちもバオダイ帝のマネをして、同じ場所で撮りました。(アホ)🤣🤣


ここで、ナム・ザオ・ダンについて、
少し書いておきたいと思います。


MIYOがナム・ザオ・ダンを知ったのは、この一枚の写真を見つけたことがきっかけでした。


この、皇帝が乗る輿が通った門は、
王宮のどこにあるのか?
…と気になったのですが、
王宮の資料をいくら調べても、
10日以上探してもわからず…。


あきらめたころに、ようやく、
「1935年に、
 Đàn Nam Giaoに向かうバオダイの行列」
と書いた文献にたどりつきました。^^
もうね、凝りすぎですね…。😅


ここで初めて、
門が王宮のものではないとわかりました。
けれど次は、「Đàn Nam Giaoとはなに?」
…という、新たな疑問が出てしまったのです。
(↑困った性格。😅)


【グエン朝のナム・ザオ・ダン(Đàn Nam Giao)
グエン王朝が、毎年春に天と地を崇拝する儀式を行った斎場です。斎場は、かつては数多く造られたのですが、現在では、王宮から5キロのところにあるナム・ザオ・ダンが、ベトナムで現存する唯一のナムザオ斎場です。
この斎場は、1806年に完成したと考えられています。以来グエン王朝では、毎年春の月(陰暦第二月)または春季月(陰暦第三月)に、王の指導のもとにザオ祭が行われるようになりました。君主制下での最後のザオ祭典は、1945年3月23日に行われました。同年8月30日、8月革命が起こり、バオダイ帝は午門で退位を宣言。これが、グエン王朝の終焉でした。
その後間もなく、1946年に起こったインドシナ戦争で、ベトナムはフランス連合と対峙しなければなりませんでした。このときから、度重なる戦争により、フエの遺跡群の深刻な劣化が始まります。ナムザオ斎場などの遺跡群も、多くが破壊されました。

1992年に、ナムザオ斎場の修復および改修工事が行われました。そして1993年12月11日、ユネスコがフエ遺跡群を世界文化遺産として認め、ナム・ザオ・ダンの遺跡群も、その中に追加されました。1997年には、国家歴史文化遺物に指定され、それを機に、さらに修復が進められました。


ナム・ザオ・ダンって、
世界遺産だったんですね。
初めて知りました。😅


2003年に修復された、トライ宮殿の門。世界遺産となったナムザオ斎場の敷地内にあります。上の、バオダイ帝の行列の写真に写っている門です。MIYOが気になってしかたがなかった門を、ここでようやく発見。😄

在りし日のトライ宮殿門。絵葉書になっていました。


…また脱線してしまいましたが。😅
話は午門に戻ります。


私たちが通ってきた午門の入場口です。門の向こうに、フラッグタワーが見えました。

馬に乗り、フラッグタワーの前を行くカイディン帝。(1925年頃)


さて。
それでは、出口に向かいます。
午門は入場専用なので、
ここからは出られません。
出場専用とされている顕仁門まで、
再び歩きます。


午門の近くに、電気自動車が停まっていました。


この自動車に乗れば、約1時間で、
王宮内を周ってくれます。
これに乗ればラクだし、
乗りたかったのですが、
そうしていたら、これほどまでに細かく、
王宮内を見ることはできませんでした。


自分の足ですべてを歩くことができて、
すごくたいへんだったけど、
今は充実感でいっぱいでした。😄


顕仁門に着きました。


【顕仁門(Hiển Nhơn-Đại Nội)
王宮の東側にある門で、北側にある和平門と共に、王宮の出口となっています。午門は入場専用です。顕仁門は、派手な彫刻と磁器モザイクなどによる細かい装飾、そしてカラフルな色合いが特徴です。
午門は皇帝専用の門として使われましたが、その一方で通用門として使われたのが、この顕仁門でした。対外的な行事を行う午門に比べ、通用門である顕仁門は、南国らしい華やかなデザインとなっています。赤青黄の三原色で塗り分けられ、上部では皇帝のシンボルである龍が踊っています。ガラス製の花の装飾で埋め尽くされた門は、広東省など中国南部の過剰な装飾を思い起こさせます。政治的な顔であった午門とは違い、いかんなく南国人気質が表現された門と言えます。


いまここ。😄

1919年に撮影された顕仁門です。元来は木造で、落ち着いた雰囲気の門でしたが、1923年に、現在の様式に建て替えられました。

すぐにわかりました。堅実な木造の門を、こんな風に作り替えた人は、カイディン帝に決まっています。🤣🤣 テイストが、建中樓や太平樓とよく似ています。カイディン帝の趣味は、一貫していてオモシロイです。

カイディン帝がバロック様式で造った建中樓。
4年ぶりのベトナム。北部から中部へと歩いた18日間 72 - 王宮⑬ 折り戸付き廊下、内宮、勤政殿、乾成殿、坤泰殿、そして建中樓(2023年6月19日/6日め)

カイディン帝の書斎として造られた太平樓。
4年ぶりのベトナム。北部から中部へと歩いた18日間 75 - 王宮⑯ 太平樓(塀風門、コリント式の柱、屋根飾り、右側面)(2023年6月19日/6日め)


堂々たる顕仁門の前で、
「すごいね…。」
とつぶやいたまま、
ふたりでしばし、立ちつくしました。


「もう、主なものは全部見た。」
と思って、ここまで気楽に歩いてきたら、
最後にがつんとやってくれました。😄


ほんとにベトナムらしくて、気持ちが華やぎます。^^

最後の最後まで楽しかった、フエ王宮。


22回もの連載におつきあいくださり、
ありがとうございました。
「いっしょに楽しんでくださる方が
 いらっしゃるといいな。」
と思うことがはげみになり、
最後まで書き続けることができました。


タイヘンだったけど、とても楽しかった王宮。上から、建中樓、坤泰殿、太平樓、乾成殿、日成樓、勤政殿、右廡・左廡、太和殿、坊門、中道橋、そして午門…。中央の紫禁城部分だけでも、かつてはこんなにたくさんの建造物がひしめいていました。


今回で王宮日記は終わりますが、
翌日から、また新たな試練が始まります。
MIYO家の旅行は、難行苦行。😂😂


ありがとうございました。


(つづく)

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