MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。

超未熟児で生まれた後遺症で、全盲難聴(盲ろう)となったのんたん、双子の妹あみちゃんと共に楽しく生きる家族のお話です。
子どもたちは24歳になり、毎日元気に楽しく暮らしています。
卵巣ガンになって思ったことも、少しずつ書き始めました。
ベトナム日記は、
http://limings.muragon.com/tag/?q=2019%E5%B9%B49%E6%9C%88-10%E6%9C%88%E3%80%80%E3%83%99%E3%83%88%E3%83%8A%E3%83%A0&p=4 
をご覧ください。
ベトナム家族旅行:
https://limings.muragon.com/tag/?q=2017%E5%B9%B412%E6%9C%88%E3%80%80%E3%83%99%E3%83%88%E3%83%8A%E3%83%A0
小学生だったころの子どもたちの育児日記は、こちらです。
http://limings.sweet.coocan.jp/

4年ぶりのベトナム。北部から中部へと歩いた18日間 51 - タンロン王城遺跡⑥ 地下軍事作戦室(2023年6月18日/5日め)

2023年6月18日 タンロン城・地下軍事作戦室で。


6月18日(日)


前回は、タンロン城の中にある、
D67作戦司令部を見てきました。
ここはあまりにも有名で、
ほとんどの人が訪れます。
このスポットを見ることが、
「タンロン城に行く最大の目的」
と考えている人すらいます。


けれど。
あまり知られていないのですが、
タンロン城の中には、もうひとつ、
別の地下トンネルがあります。
地下軍事作戦室です。
軍事施設に関心のある方は、
こちらも訪れてみるといいかもしれません。


私たちは、
もうひとつの地下トンネルがあることすら
知らなかったのですが、
たまたま、チケットオフィスでもらった、
詳細な図面を読み解いているうちに、
このスポットの存在を知りました。


見学順路とは逆のところにあったのですが、
「来ちゃったからにはトコトン」
の私たちですから、😂
「これはやっぱり行くしかないよね。」
ってことで、炎天下、再び、
元来た道を引き返すことになりました。😅


地下軍事作戦室があるのは、敬天殿の広場の奥です。

わかりにくいので、マップを拡大してみました。「龍の階段」のすぐ近くで、黒い丸で囲んだ部分の地下が、「地下軍事作戦室」です。

敬天殿の前にある広場です。いちばん奥に太鼓があります。

この太鼓の後ろに垣間見える、黄色い建物。この建物に、地下軍事作戦室へと通じる入り口があります。

これが出入口です。GENERAL COMMAND HEADQUARTER とあるので、この地下室も、D67作戦司令部と同様の軍事施設です。D67は、最高レベルの将校たちのための施設でしたが、こちらには、D67を補佐する人々が日常的に勤務していたようです。

地下に通じる階段を降りていくと、ここでも、鉄の扉が二重に取り付けられていました。

鉄の扉の向こう側には、小部屋がありました。

その隣りの部屋です。D67の会議室よりは少し小さめの部屋です。

通信室です。

無線機や、たくさんの電話機が並んでいました。

換気室です。毒ガスフィルターや空気清浄機が設置されていました。

技術司令部である Factory 49 によって作られたシステムにより、毒ガス攻撃を受けても、この司令部内にガスが入り込まないように設計されていたそうです。


地下軍事作戦室の見学を終え、
出口から地上に出ました。
すると…。


目の前には、ベトナム戦争で爆撃を受けたハノイの街の、大きなパネルがありました。パメルの向こうには、端門の上部も見えます。この両方が、ハノイの歴史なんだな、と思います。

瓦礫の中で立ちつくす人々。

負傷者を運んでいます。

角を曲がると、ベトナム戦争当時の街のパネルがありました。その前に並ぶ、丸い穴。当時の歩道を再現しています。

実際に、穴が並ぶ歩道の写真もありました。はじめは、「マンホールが並んでいる」と思ったのですが、そうではなく、小さな防空壕でした。

空襲が始まると、人々はこの中に避難したのだそうです。

1967年の、ハノイの写真です。(画像をお借りしました)

こんな防空壕が、それぞれの前に作られていたんですね…。


800年続いた都の皇城には、
かつての城を偲ばせる遺跡と、
ベトナム戦争の名残が同居しています。


ハノイは、そんな街でした。


(つづく)

×

非ログインユーザーとして返信する