MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。

超未熟児で生まれた後遺症で、全盲難聴(盲ろう)となったのんたん、双子の妹あみちゃんと共に楽しく生きる家族のお話です。
子どもたちは24歳になり、毎日元気に楽しく暮らしています。
卵巣ガンになって思ったことも、少しずつ書き始めました。
ベトナム日記は、
http://limings.muragon.com/tag/?q=2019%E5%B9%B49%E6%9C%88-10%E6%9C%88%E3%80%80%E3%83%99%E3%83%88%E3%83%8A%E3%83%A0&p=4 
をご覧ください。
ベトナム家族旅行:
https://limings.muragon.com/tag/?q=2017%E5%B9%B412%E6%9C%88%E3%80%80%E3%83%99%E3%83%88%E3%83%8A%E3%83%A0
小学生だったころの子どもたちの育児日記は、こちらです。
http://limings.sweet.coocan.jp/

4年ぶりのベトナム。北部から中部へと歩いた18日間 50 - タンロン王城遺跡⑤ D67作戦司令部(2023年6月18日/5日め)

2023年6月18日 タンロン城・D67作戦司令部で。


6月18日(日)


引き続き、タンロン城址の日記です。
暑さにめげず、さらに歩きました。😄


敬天殿はフランス軍によって壊されましたが、19世紀にベトナム最後の王朝となったグエン朝によって築かれたハノイ城塞の門や城壁は、王城の中心部を囲むように、いくつも残されています。なかでも写真の東門は、五重の屋根が乗った非常にユニークなデザインです。最上層には見張りの丸窓が設けられており、望楼のような独特なたたずまいを見せています。

カフェの隣りにあった門をくぐって、さらに奥へと進みました。

門の向こう側には、淡いグリーンの建物がありました。これが、D67作戦司令部です。


【D67作戦司令部】
ベトナム戦争時に、参謀室として重要な役割を果たした建物です。当時の会議室や地下会議室が、今も保存され、公開されています。


入口を入ると、そこは広い会議室になっていました。これは、地上会議室でした。

ベトナム共産党(北ベトナム)は、重要な会議をここで開催しました。特に、1974年の末から1975年初頭にかけては、南部(南ベトナム)開放の会議を頻繁に行い、1975年の南北統一につながりました。

テーブルには、ネームプレートが並んでいます。上座はレーズアン書記長の席のようです。

当時の戦略地図です。

同じ部屋を、反対側から撮りました。

さらに奥に進むと、小さい部屋がふたつありました。ひとつめは、ヴァン・ティアン・ズン (Văn Tiến Dũng) 将軍の執務室でした。


【ヴァン・ティアン・ズン (Văn Tiến Dũng)】
1917年生まれ。1936年、19歳でベトナム共産党に入党しました。1944年、フランスの刑務所から脱獄し、第二次世界大戦中は日本の占領軍と戦いました。1945年8月、ホアビン、ニンビン、タインホアの各省で軍を指揮。第一次インドシナ戦争中の 1953年10月までに、ヴォー グエン ザップ将軍の下でベトナム人民軍参謀長に就任し、1954 年のドンビエン フエ包囲戦に臨みました。その後 20 年間、北ベトナムにおける彼の軍事的評価は高く評価されました。

1972年のイースター攻勢中に、重要なトリ・ティエン・フエ戦線を指揮。1974年、ベトナム戦争がゲリラ闘争からより通常の戦争に発展したとき、指導者に代わってPAVN(ベトナム人民軍)最高司令官に就任しました。1975年には、春季攻勢を計画・指揮し、南ベトナムの防衛を圧倒し、1975 年、サイゴンを占領しました。
ベトナム戦争後は、ベトナムのクメール・ルージュ・カンボジア侵攻と、その結果として生じた1979年の中華人民共和国との国境紛争でも、指揮をとっています。1980年に国防大臣に任命され、1986 年に、69歳で引退しています。2002年3月17日、ハノイで死去。84歳でした。


その隣りにあるのは、ヴォー・グエン・ザップ (Võ Nguyên Giáp)  将軍の執務室です。

右からふたりめの方です。ホーチミン・トレイルを構築した人としても知られています。


【ヴォー・グエン・ザップ (Võ Nguyên Giáp) 】
1911年生まれ。独学のベトナム人民軍(PAVN)の将軍であり、共産主義革命家。多数の戦争でベトナム共産主義軍を指揮しており、20 世紀で最も偉大な軍事戦略家の一人とみなされています。

1941年から 1972年まではベトミン、その後 PAVNの軍司令官を務め、ベトナム民主共和国の国防大臣を務めました。その後、ベトナム社会主義共和国の首相や副首相を歴任しています。
クアンビン省の裕福な農民の家庭に生まれ、ベトナム民族主義者の息子として成長したため、若い頃から反植民地政治活動に参加し、1931年にホー・チ・ミン率いるベトナム共産党に入党しました。第二次世界大戦中、日本占領に対するベトミン抵抗運動の軍事指導者として名声を博し、戦後は、対フランス第一次インドシナ戦争で反植民地軍の軍司令官となりました。1954年、ディエンビエンフーの戦いで決定的な勝利を収めたことにより、フランス守備隊を降伏させ、戦争は事実上終結しました。
ベトナム戦争でも戦い、1968年のテト攻勢中に軍の指揮官を務めています。ケサンにある、孤立した米・海兵隊前哨基地を包囲し、次の攻勢のための陽動場所に変えました。その後、包囲が解除された際に、海兵隊は戦略基地を放棄しています。1972年のイースター攻勢の戦略立案にも関与し、その後ヴァン・ティエン・ズンに引き継ぎましたが、米軍撤退、南ベトナムに対する最終勝利、そして1975 年の最後の攻勢後の統一を迎えるまで、国防大臣に留まりました。
1978年、カンボジアに侵攻し、中国と同盟を結んでいたクメール・ルージュ政権を打倒した後、1979年の中越戦争で最後の軍事行動を組織しました。その際、中国軍は国境を越えて押し戻されています。
1980年に国防大臣を辞任し、1982年に政治局を去りましたが、1991年まで中央委員会の委員および副首相を務め、2013年に102歳で死去しました。


夫が、私をここに立たせて写真を撮りました。これは記念写真ではなく、我が家でよくやる「人間モノサシ」です。人間をいっしょに撮ることにより、部屋のサイズ感がわかりやすくなります。小さい部屋であるということを伝えたかったようです。


おふたりとも、
こんなに偉大な将軍だったのに、
執務室は狭く、そして簡素でした。


1階部分の見学を終わり、次は地下室へと降りてみます。こちらは入口。


この地下室は、MIYOは4年前に見ているので、
今回は夫だけが降りて行きました。
当時の日記です。
定年でもベトナム。ハノイで始める、お仕事日記 102 - ハノイ市内観光② D67作戦司令部とホーチミン博物館(2019年10月11日/41日め) - MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。


左:階段を降りきったところにある、鉄の扉。原爆による攻撃にも耐えうる構造だったそうです。アメリカは日本に原爆を落としているので、そういう事態も想定していたようです。ちなみに、ソ連の援助で建てられました。
右:その鉄の扉のところに立って、地上の入口を見上げた写真です。

鉄の扉をくぐると、さらにもうひとつの鉄の扉があります。

会議室です。ホー叔父さんの写真が飾られています。

実際の会議風景(1972年2月)。ベトナム戦争真っ盛りの頃です。

情報室です。地下で機密会議が開かれた際、政治局と中央軍事委員会を支援する部隊がここに待機し、本部から指揮部隊や戦闘部隊への情報や支持を送受信するために必要な機材が装備されていました。

毒ガス攻撃を受けた際のフィルターや換気設備も備えていました。

地下壕の見学を終え、夫が出口から出てきました。

D67の見学は、これで終わりです。建物を出ると、正面玄関に、かつて活躍した自動車が展示されていました。

ロシア製GAZ-69です。1968年から1975年まで、D67で機密会議が開かれる際に、上層部のリーダーたちを送迎するために使われました。

UAZ-469。ロシア製の自動車として最も有名なモデルです。GAZ-69の後継として、1973年に製造されました。1973年から1975年まで、会議の際に、上層部のリーダーが使用しました。

それ以降も、ベトナム軍によって長く利用されています。


王宮を壊して砲兵司令部を作った、
フランス軍にはあきれますが、
その同じタンロン城内に、
作戦司令部を置いてしまった、
ベトナム軍にも舌を巻きます。


まあもっとも、
当時はすでにベトナム民主共和国であり、
社会主義の国でしたから、
王室の建造物に対して、
こだわりはなかったのでしょう。


ここまで歩いてきました。


(つづく)

×

非ログインユーザーとして返信する