MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。

超未熟児で生まれた後遺症で、全盲難聴(盲ろう)となったのんたん、双子の妹あみちゃんと共に楽しく生きる家族のお話です。
子どもたちは24歳になり、毎日元気に楽しく暮らしています。
卵巣ガンになって思ったことも、少しずつ書き始めました。
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34年ぶりのラオス、そしてタイへ。歩き続けた12日間 73 - 34年前のノンカイ。メコン川を渡り、タイ・ピーマイへ(1991年9月5日/5日め)

1991年9月6日 パノムルン寺院で。(タイ・ブリーラム)


1991年9月5日(木)- 5日め


ヴィエンチャンから

ラオス-タイ国際列車に乗り、

国境を越えてバンコクに到着したことで、

今回の私たちのラオス旅行は終わりました。


ここでもうひとつ、番外編として、

書きたいことを思い出しました。

それは、34年前の、

ラオスからタイへの国境越えです。


34年前、私たちは、同じ5日間の日程で、

ラオスを旅行しています。


このときの行程ですが、

9月1日 タイから飛行機でヴィエンチャンへ。

    ヴィエンチャン観光。

9月2日 飛行機でルアンパバーンへ。

    ルアンパバーン観光。

9月3日 ルアンパバーンから地方へ。

    少数民族の村を訪ねる。

9月4日 少数民族の村を訪ねる。

9月5日 ヴィエンチャンから自動車でノンカイへ。


…ということで、

実は、当時の旅では、2日間にわたって、

少数民族の村をいくつも歩いていました。笑

ヴィエンチャンやルアンパバーンは、

あくまで「ついで」であり、

旅の主たる目的は、

「少数民族の村めぐり」だったのです。


なにしろ、夫が少数民族フェチだし、

MIYOも少数民族に興味があったので、

この頃は、

「お寺よりなにより少数民族の村」

と、夫も私も思っていました。(アホ)


このときの、少数民族村めぐりの写真も、

たくさんあります。

いつか掲載したいと思いますが、

とりあえず今日は、ノンカイです。


2025年3月は、

開業して間もない国際列車に乗って

国境越えをしたわけですが、

では、34年前はどうしたかと言うと、

ラオスからタイへと、

船に乗ってメコン川を渡り、

国境を越えました。🤣


あの当時、

「飛行機以外で、

 タイとラオスを行き来する方法」

として、唯一外国人に開放されていたのは、

渡船による国境越えでした。

で、ラオス旅行にあたって、夫は、

「入国は空路、出国は陸路(水路)」

という計画を立てたわけです。


あれから34年。

タイ-ラオス間を流れるメコン川で、

続々と友好橋が建設され、

この「渡船国境」は次々と廃止されました。


「ノンカイの渡船国境は、今もあるの?」

と、夫に訊いてみたところ、

「よくわからないけど、

 もうないんじゃないかな…。」

とのことでした。


なにはともあれ、

34年前に船で国境を越えた場所は、

ノンカイでした。

つまり、2025年3月の鉄道旅と、

同じ場所だったことになります。

そこで、34年前のメコン川越えの写真も、

ここに掲載しておきたいと思います。


ネットで見つけた、メコン川のノンカイ船着き場(ラオス側)と、渡し船。2018年ごろの写真です。私たちが乗ったのは1991年なので、これよりさらに27年前になります。笑

ラオス側の岸から乗船しました。後ろに見えているのは、タイ。

船に乗っているのは、地元の方々ばかり。「渡船国境」というより、ほとんど「渡し船でお買い物」の感覚。

出発です。唯一の外国人だった私たち。ほんと、物好きですね。^^

船はラオス側の岸を離れ、すべるように進んでいきました。

国境なので、川では監視船が巡回していました。これはタイの監視船。

国境を行き交う船なので、出入国監視員も乗船していました。

ラオスが次第に遠ざかっていき…、

タイ側の船着き場へ。さすが、りっぱな造りです。「WELCOME TO THE KINGDOM OF THAILAND(タイへようこそ)」と書いてありました。

タイに入国後は、ノンカイのバスターミナルへ。ここからピーマイに行こうとしたのですが…。


この写真を見て、夫が、

当時のことを思い出しました。

バスターミナルでは、時刻表はもちろん、

あらゆる表示が、すべてタイ語だったと…。

アルファベットのあの字もなく、笑

どこを見てもタイ文字ばかり。

誰ひとり、英語を話すことができず、

チケットの買いようがなくて、

困りはてたそうです。

(MIYOはまったく覚えていません。笑

 たぶん、ひとりで荷物の番をしていたかと。)


「えらいこっちゃ。

 タイ語が読めないとチケットが買えない。汗」

と戻ってきた夫。

そのとき、たまたま、3人のオバサマが登場。

タイ人ではなく、

在タイの華僑のように見えたので、

中国語で話しかけてみたら、通じました。😊

そこで、中国語で相談したところ、

みなさんが窓口で手伝ってくださり、

おかげで、バスのチケットを買うことができました。

(夫に言われてみたら、そんなことがあったような気もします。)


当時のタイでは、どんな田舎に行っても、

かなりの確率で、華僑の方を見かけました。

そして、私たちが習いたての中国語を話すと

たいてい、笑顔を見せてくれました。

タイの山奥で、

「中国語を話した。」というだけで、華僑の方に、

ごはんをおごってもらったこともあります。


海外で英語を話しても、欧米人にはあたりまえ。

彼らは眉ひとつ動かしませんが、

私たちが中国語を話すと、

華僑の方々は、なぜか喜んでくれました。

みんな、親切だったなぁ…。


40年近くも前ですからね。^^

中国語を話せる日本人が、

まだまだ珍しかった時代の、楽しい思い出です。


これはバスの中から撮った写真。ピーマイまでは、バスで5時間(318キロ)。


この日はピーマイに宿泊しました。


1991年9月6日(金)- 6日め


ピーマイからブリラムへ。

めざすは、パノムルン寺院です。


街の中にあった映画の看板。二カウさんの時代だったんですね…。笑

パノムルン寺院です。現在は世界遺産に登録申請中ですが、この当時は訪れる人もなく、いつものように「貸切状態」でした。

ノンカイからタイに入国後、バスでピーマイに。そこからさらに南下し、ブリラムにある、パノムルン寺院へ来ました。が、実は、そのすぐ南にあるのが、アンコールワット。このあたりは、クメール遺跡の宝庫です。

この当時は、カンボジア国内に入るのが難しかった時代。アンコールワットには行けませんでした。が、つい最近(2024年1月)、この国境地帯のカンボジア側にあるバンテアイ・チュマールを、カンボジア側から訪れました。

そのときの日記です。

34年ぶりのラオス、そしてタイへ。歩き続けた12日間 43 - バンテアイ・チュマールのナマズと、ルアンパバーンの王室自動車展示室(2025年3月16日/3日め)


パノムルン寺院へはタイ側から行き、

バンテアイ・チュマールは、カンボジア側から。

ふたつの遺跡の距離は、約145キロ。

車で数時間のところにあるのですが、

間に国境があるため、自由な行き来ができず、

ふたつまとめて訪れることはできません。

それどころか、このあたりでは現在も、

タイとカンボジア間の紛争中です…。


パノムルン寺院の全景。(Museum Thailandより)

正面入口の門では、砂岩に彫られた精巧なクメール美術を見ることができます。

祀られているのは、ヒンドゥー教の最高神シヴァ。

あはは。シャツもパンツもおそろいだ。😅


インターネットもスマホもない時代です。

夫は、こういう遺跡や寺院を、

本や地図で調べては、旅を企画していました。

あの時代に、よくもまあこんなところまで、

連れてってくれたな…、と思います。

夫にしてみたら、自分のやりたい旅行を

やってるだけなんですけどね…。🙄


このあとも、タイ遺跡めぐりの旅は続き、

クメール王朝からスコータイ王朝へと、

舞台は変わっていくのですが、

書いているとキリがないので、

とりあえず、

ここでひと区切りにしたいと思います。


ラオスの旅日記に、長々とお付き合いくださり、

ありがとうございました。

(少数民族村めぐりの写真はどうするんだ?🤣)


(つづく)

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