MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。

超未熟児で生まれた後遺症で、全盲難聴(盲ろう)となったのんたん、双子の妹あみちゃんと共に楽しく生きる家族のお話です。
子どもたちは24歳になり、毎日元気に楽しく暮らしています。
卵巣ガンになって思ったことも、少しずつ書き始めました。
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ガンになるまでの日々 3 - 手術決定(2008年12月)

2008年10月4日 ひたち海浜公園で。長男にわかりやすいよう、「ゴトゴトぶね」という名前で呼んでいた乗り物。ほんとうの名前は、忘れてしまいました。笑(のんたんとあみちゃん・13歳/中1)


2008年12月


退院後にいただいた診断書によると、
このときの私の病名は、
「卵巣膿瘍(腹膜炎)」
となっています。


もともと、卵巣嚢腫が持病で、
ずっと苦しんでいました。
この数年前に、婦人科の主治医からは、
卵巣の切除を勧められています。


でも、障害のある長男を残して
入院する決心がつきませんでした。
私がいなくなったとき、
その理由がわからない長男は、
どんなに不安な思いをすることか。
それを考えただけで、涙がでました。


結局、手術をすることなく、
何年も、漢方薬を飲みながら、
やり過ごしていました。


その卵巣嚢腫が化膿し、
ある日突然、暴れだした、
ということになります。
原因としては、
過労やストレスもあるそうです。


当初、医師は、抗生剤を投与することで、
改善させようとしました。
けれど、どんな抗生剤を使っても、
状態は悪くなるばかりでした。


入院後、痛みがさらにひどくなり、
あまりのつらさに、
もう死んだ方がましなのでは、
とまで思うようになりました。


鎮痛剤を投与してもらっても、
どうにかそれが効き始めるまで、
一時間かかります。
地獄の苦しみでした。
ようやく効果が出始めても、
痛みが治まるのは一時間だけ。
すぐにまた痛くなります。


「痛み止めをください。」
と看護師に言っても、
「4時間以内には投与できないのです。」
と断られました。


ようやく4時間たって、
鎮痛剤を点滴してもらっても、
効き始めるまで、さらに一時間かかります。
一日じゅう、そのくりかえしです。


この時に、学んだことがあります。
「4時間以内にはあげられない。」
と看護師に言われ、
「そうですか。」
と、痛みをじっと我慢していたら、
「我慢できる程度の痛みなのだ。」
としか思われない、ということです。


黙って堪えているかぎり、
自分がどれほどつらくても、
4時間以上苦しまないと、
痛み止めをもらうことはできません。


入院して一週間。
あまりの痛みに堪えかね、
とうとう私は、思いを吐き出しました。


「痛いのです。
 堪えられないのです。
 4時間経たないと体に悪いというのは、
 わかりました。でも、
 もう死んでもいいです。
 死んでもいいから、
 お薬をください。」


おそらく、必死の形相だったのでしょう。
それを聞く看護師さんも、
真剣な表情でした。
それ以来、「4時間」などと言わず、
お願いするとすぐに、
痛み止めをくださるようになりました。


このことは、大きな教訓となりました。
このあと、私はさらに、何度も
手術をすることになるのですが、
そのたびに、痛みについては、
かなりはっきり訴えるようになりました。
おかげでいつも、
適切に対応していただき、
苦しまないですんでいます。
痛むときは、遠慮してはいけないのです。


さて、そんなこんなで、
結局、手術することになりました。


G研はがんの専門病院で、
「がんは急がない病気」と、
院内では言われていました。
なので、手術は、
通常、1,2か月待ちでした。


手術室は20室くらいあったようですが、
すべて、一か月先まで、
手術の予約が入っていて、
毎日、予約のとおりに、
整然と手術が行われます。


私のように、
がんと診断されたわけではない者が、
突然やってきて、
手術していただく余地はありません。
「他の病院に転院させたら」
という声もあったそうです。


けれどここでも、
医師ががんばってくれました。
始めに診察してくださった、U医師です。
「やはり、うちで診ましょう。
 紹介状を持って、来られたのだから。」
と。


U医師の尽力で、私は、
「研究目的」という枠に、
入れていただくことになりました。
その結果、私の手術を
G研で行っていただくことが、
急遽、決まりました。


手術の前日、様々な検査が行われました。
そのとき私は、肺機能も検査したのですが、
担当者がかなり苦労しておられました。
私の検査数値が、
手術可能である値に届かないのです。


何度もやりなおし、
「はい、がんばって。
 もっともっともっともっと
 吸って吸って吸って吸って…。」
と、けんめいに応援していただき、
最後にどうにか基準をクリアしました。


あとで教えていただいたのですが、
このときすでに、肺水腫を起こしていて、
私の肺には水がたまり、
真っ白だったそうです。


炎症反応も、とんでもない数値でした。
「末期がんの方の終末期」のころに
あてはまるような値だったそうです。
それくらいに、
状態が悪くなっていました。


手術後に、U医師から、
「手術できてよかったね。
 あのままだったら、
 死んでいたかもしれないね。」
と言われたくらいなので、
そうとうひどい状態だったのでしょう。


それでも、
知らないというのはすごいものです。
私は、痛みをこらえながらも、
各検査室を、自分の足で歩いて回り、
すべての検査を終えました。
多分、本当なら、
できるような状態ではなかったのに。


ずいぶんあとになってから、
U医師に言われました。
「MIYOさんは、
 見かけが元気そうだからね。
 それにだまされるんだよね。
 油断できない人です。」
と。


実は、そのとおりのことが、
手術中に起こってしまったのです。


(つづく)


ひたち海浜公園で。(2008年10月4日)
口の中に食べ物を貯めこみ、リスのようになった長男です。笑

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