MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。

超未熟児で生まれた後遺症で、全盲難聴(盲ろう)となったのんたん、双子の妹あみちゃんと共に楽しく生きる家族のお話です。
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やっぱりイタリア 12日間 17 - メルカンティ広場からミラノ大聖堂(ドゥオーモ)①へ(2026年2月7日/2日め)

MIYO

2026年2月7日 ジュレコンスルティ宮殿で。(イタリア・ミラノ)


2月7日(土)- 2日め


スフォルツァ城からダンテ通りを直進し、

コルドゥシオ・グラン・メリア宮殿まで

進みました。


さらに歩き続けると、ジュレコンスルティ宮殿が見えてきました。ミラノオリンピックののぼりが掲げられています。

ジュレコンスルティ宮殿(Palazzo dei Giureconsulti)です。


【ジュレコンスルティ宮殿(Palazzo dei Giureconsulti)】

ヴィンチェンツォ・セレーニの設計で、1562年に建てられました。中央にある鐘楼の鐘は、「ザヴァタリア」と呼ばれ、公開処刑があるときに鳴らされました。この鐘は、後に時計に置き換えられました。

この建物はもともと、政治家や弁護士志望者のための学校であるコレジオ・デイ・ノビリ・ドットーリ(「高貴な医師大学」)の本拠地として機能していました。18世紀以降は、証券取引所、 電信の本拠地、ミラノ・ポポラーレ銀行として利用され、1911年からは商工会議所となりました。現在でも、この建物は商工会議所が所有しています。

宮殿は、第二次世界大戦の爆撃により大きな被害を受けましたが、1980年代に修復されました。この修復中に、最新の通信回線やマルチメディア機器などのハイテク機器が設置され、イベントや会議などに対応するための多機能施設として再生されました。


ジュレコンスルティ宮殿の向かい側の建物の裏に回ると、ここもまた、古い建物で囲まれていました。ここが、メルカンティ広場です。


【メルカンティ広場】

歴史的な魅力と静寂な雰囲気で、訪れる人々を魅了する広場です。中世ミラノの商業の中心地として栄えた場所で、今もその雰囲気を色濃く残しています。広場は、中世の建築物に囲まれており、石畳の道が古き良き時代を感じさせます。かつてこのエリアでは、市の行政が行われていました。現在のミラノとは一線を画す、静けさと落ち着きが魅力のエリアです。週末になると、地元の人々や観光客で溢れ、時にはアート展示や小規模なコンサートなどのイベントも開催されます。


かつてこのエリアには、ガリレオ・ガリレイが住んでいたそうです。

現在のメルカンティ広場は、こんなお土産物屋さんがあるだけで、ひっそりとしていました。^^

広場を一周したあと、再びジュレコンスルティ宮殿の前に戻りました。ここまで来ると、通りの奥に、めざしていたものがはっきりと見えてきました。

ミラノ大聖堂(ドゥオーモ)です。そして左側に見えているのは、ヴィットリオ・エマヌエーレ2世ガレリア。どちらも、泣けてきそうなほどに美しい。😂

人ごみの中を夢中で歩いて、大聖堂の正面へ。


【ミラノ大聖堂(ドゥオーモ)】

500万人のカトリック信者がいる世界最大の司教区である、ミラノ大司教区を統括する首都大司教の司教座聖堂です。世界最大級のゴシック建築であり、全長158m、幅92m、高さ108mの威容を誇ります。5世紀もの歳月をかけて、多くの芸術家によって完成されました。

ドゥオーモ広場の北にはヴィットリオ・エマヌエーレ2世のガレリアがあり、スカラ広場そしてスカラ座へと通じており、ミラノ最大の観光スポットとも言えます。

ドゥオーモの最初の石は、1386年に、古代からあったサンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂の場所に置かれました。が、設計に失敗し、1480年代まで放置されていました。その後の設計コンペには、レオナルド・ダ・ヴィンチが案を出して参加し、ブラマンテが案をまとめています。レオナルドは、4本の柱をメインとして12本の柱に重荷を分散させる案を出しましたが、採用されず、最終的にマルティーニがそれを生かした上で結論を出しました。

宗教改革による中断を経て、最初の石が置かれてから約500年後の1813年、ミラノ公国を征服したナポレオン・ボナパルトの命令により、フランスの資金で大聖堂が完成されました。その後、19世紀を通じて、尖塔と新しいステンドグラスなどの全ての装飾が仕上げられました。

第二次世界大戦中の1943年に、ミラノは爆撃を受けましたが、連合国側の判断で、大聖堂は爆撃を免れました。そして戦後まもなく、大部分が修復され、このときに、木の扉が青銅製に取り替えられています。


ミラノ大聖堂の正面です。


夕方の日差しを浴びた大聖堂は、

言葉にならないほど美しく、

夫も私も、夢中で写真を撮り続けました。


第二次世界大戦後、木製の扉は青銅製に置き換えられました。

大聖堂を背にして振り返ると、眼前には、ここまで歩いてきた街並みが広がっていました。

さらにその右側に見えるのは、ヴィットリオ・エマヌエーレ2世のガレリア。


ガレリアは、

ミラノ随一の観光スポットなのですが、

ここには後で行くことにして…。


とりあえず今は、ミラノ大聖堂の感動に浸ります。


すごいね。イタリア。


(つづく)

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