MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。

超未熟児で生まれた後遺症で、全盲難聴(盲ろう)となったのんたん、双子の妹あみちゃんと共に楽しく生きる家族のお話です。
子どもたちは24歳になり、毎日元気に楽しく暮らしています。
卵巣ガンになって思ったことも、少しずつ書き始めました。
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ベトナム家族旅行:
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コロナでもマシュキニ。増毛から留萌へ、ニシンの千石場所を歩く 7 - 旧商家丸一本間家②(呉服店舗、奥帳場)(2022年6月19日/3日め)

(2022/08/02 18:00記)

2022年6月19日 旧商家丸一本間家・呉服店舗2階で。(北海道増毛郡増毛町)


6月19日(日)


旧商家丸一本間家に来ています。
さきほどの国稀酒造のにぎわいが
うそのように、
こちらはひっそりとしています。
このときに見学していたのは、
私たちだけでした。
こちらに立ち寄る人があまりいないのは、
意外だったし、少し残念でした。


入口を入って、まずは入場料を支払いました。ひとり400円なのですが、「元陣屋」の観覧券に付いていた割引券があると、200円引きになります。入場料、わずか200円ですよ。こんなすばらしいところが、たったの200円。

そしてここで、スタンプカードをコンプリートしたので、プレゼントをいただきました。増毛の民話影絵紙芝居「怪物ダコと美男の千吉」のマグネットでした。^^


【怪物ダコと美男の千吉】
阿分(あふん)の沖に住んでいた大きなタコが、村一番の美男子の千吉に恋をしてしまいました。タコは千吉の船を探し出して追いかけるのですが…というストーリーだそうです。


増毛町には多くの民話が伝えられており、その数は20話程が確認されています。こうした民話を町の歴史とともに後世へ伝えていこうと発足した団体「増毛の民話伝承会」が、これらの民話の影絵紙芝居を制作する活動をしています。これまでに、13話の紙芝居を作ったそうです。


それでは、お屋敷の中に入ります。
内部がとても広いのですが、
順に歩いていこうと思います。


まずは、出入り口を入って左手にある居宅入口で靴を脱ぎます。そして、家屋内に上がってすぐのところにある、呉服店舗に入りました。

呉服店舗です。奥の方に、大八車が見えます。

家屋を正面から見たときのこの部分にあたります。


【呉服店舗】
呉服店舗がある部分は、木骨石造の頑丈な建物で、明治26年に完成しました。主の本間泰蔵は、明治8年に、小樽の丸一松井から独立し、増毛で荒物・雑貨を扱う商売を始めたのですが、 5年後の明治13年、大火により、店舗が消失してしまいました。「これからの建物は火災に強い構造で なければならない」と確信した泰蔵は、店舗を木骨石造にし、敷地の境にも石造りの壁を建立しました。
呉服の販売業は昭和3年まで続けられましたが、それ以降は事業の縮小に伴い、この店舗もあまり使用されなくなっていきました。


たしかに、隣りの棟との間に、立派な壁が築かれています。

まるで「うだつ」のようです。

呉服店舗の内部をぐるりと見てみます。まずは、壁一面に置かれた屏風。

その右には、帳場とたくさんの反物。

ちなみにこちらは、札幌・開拓の村で訪れた、旧武岡商店。なんだか似ています。当時の店舗は、大体こんな設えだったのでしょうね。^^(2021年11月6日)

この時の日記です。
コロナでもウポポイ3。札幌2週間ホテル暮らし 36 - 北海道開拓の村⑧(旧近藤医院、旧武岡商店)(2021年11月6日/4日め)


そして、屏風と反対側の壁です。木製のりっぱな燈籠がありますね。

居宅入口から呉服店舗に通じる扉です。この扉の向こうには、家の奥へと続く廊下が延びています。扉の手前右側に階段があったので、そこから2階に上がってみました。

呉服店舗の2階部分です。かつては、呉服店舗の倉庫として使用されていたのではないかと思います。広いスペースに、古い家具などが展示されていました。

この2階部分は、イベントの会場として利用されています。このときは、「時代を駆け抜けた豪商 本間泰蔵」という企画展が開催されていました。


【本間泰蔵(1849年~1927年)】
1873年(明治6年)、24歳で、新潟・佐渡から小樽に移り住みました。丸一松居呉服店で商売を勉強し、養子格の番頭となります。そして2年後、同店が閉店することになったため、在庫品を譲り受け、増毛で商売を始めます。そのときに、丸一の屋号を引き継ぎました。
増毛では、類い希な商才を発揮し、呉服店舗や雑貨店舗などが複合された「丸一本間家」を興します。
増毛は古くからニシンで栄えた町ですが、泰蔵がニシン漁業を始めたのは1881年(明治14年)でした。ニシン漁で町が活気づいていた頃で、ニシン漁業は、本間家の事業の中では海運と並ぶほどの大きな利益をあげました。当時の本間家は6か統の建網を所有し、増毛町内でも有数の網元でした。
やがて、出稼ぎヤン衆の激しい労働を癒やすために、酒造りが必要であると考え、増毛の良水を使った酒造りを開始しました。これが、後の「国稀酒造株式会社」の前身「丸一本間合名会社酒類部」です。その後も、新事業を次々に成功させ、海運業に進出。遂に天塩国随一の豪商となります。老境に入ってからもアイデアは尽きることなく、幅広い経営を行いました。
増毛町の経済発展に大きく貢献し、有力資産家となりましたが、1925年(大正14年)に引退。長男の泰輔にあとをまかせ、1927年(昭和2年)に、77歳でその生涯を終えました。


最盛期の丸一本間合名会社。この社屋が、現在も残る、旧商家丸一本間家です。

本間泰蔵の葬儀(昭和2年)。


本間泰蔵という人は、まさに、
「時代を駆け抜けた豪商」
でした。
泰蔵だけではありません。
本間家一族には、その後も、
語りつくせないほどの、
ドラマのような人生を送った人が
何人かいるのですが、
それについては後ほど、
少しだけご紹介したいと思います。


次は、奥帳場に行ってみます。

呉服店舗を出ると、前方と左手に廊下が続いています。前方の廊下に面した部屋で一番手前にあるのが奥帳場です。

奥帳場です。奥に見えるのは、「通り庭」と言われた通路(土間)です。

襖絵が、今も美しく残っています。


【奥帳場】
本間泰蔵は、元々雑貨を扱う商売から事業を起こしたのですが、ニシン景気に沸く増毛町で商いを軌道に 乗せると、酒造り、ニシン漁、呉服販売、海運業とどんどん業種を拡大していき、一代で天塩国随一の 豪商と呼ばれるまでになりました。奥帳場は、これら本間家の経理関係を一手に処理する場所でした。
電灯のなかった時代に、少しでも明るい環境で効率的に仕事ができるよう、 天井に明かり取りのための窓を設けてあります。


天井部分に設けられた、明かり取りのための窓です。現在、天井には屋根がかぶせられてますが、創建当初はガラスがはめ込まれ、たくさんの光を取り入れることができるように工夫されていました。

奥帳場として使われていた頃の写真です。各業務の経理書類は、すべてここで処理されました。大番頭の橘和七のもと、番頭や丁稚がそろって働いていました。


すみません…。
間取図を見た瞬間に
おわかりになったと思いますが、
この先、まだまだ続きます。😅
またも、長い連載になりそうですが、
どうか気長におつきあいください。


(つづく)

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