MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。

超未熟児で生まれた後遺症で、全盲難聴(盲ろう)となったのんたん、双子の妹あみちゃんと共に楽しく生きる家族のお話です。
子どもたちは24歳になり、毎日元気に楽しく暮らしています。
卵巣ガンになって思ったことも、少しずつ書き始めました。
ベトナム日記は、
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をご覧ください。
ベトナム家族旅行:
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小学生だったころの子どもたちの育児日記は、こちらです。
http://limings.sweet.coocan.jp/

コロナでもマシュキニ。増毛から留萌へ、ニシンの千石場所を歩く 12 - 旧商家丸一本間家⑦(付属家)から千石蔵へ(2022年6月19日/3日め)

(2022/08/07 18:15記)

2022年6月19日 旧商家丸一本間家の呉服店舗です。(北海道増毛郡増毛町)


6月19日(日)


旧商家丸一本間家の中を歩いてきましたが、
いよいよ、最後のスポットになりました。
お屋敷の右半分になる、付属家エリアの
2階・3階の部分です。


付属家1階の井戸のあるところからは、2階・3階に上がれます。階段はかなり急勾配なのですが、これは、狭いスペースをコンパクトに活用するための昔の人の知恵でした。


【付属家2階】
付属家は、明治27年の建設と考えられています。もともと、1階は酒揚場として、酒通リなおを行っていました。しかし、明治35年に本間家の全容が完成し、酒造りが酒造場(現在の国稀酒造)に移ると、1階部分は居宅の付属家へと改築されました。
2階部分には、2間続きの和室(奥の間と次の間)があります。1階と同じ年代に建設されたもので、当初は本間家の家族の居宅や補助的な客室として使用されました。明治43年に本間泰輔とキミが結婚すると、2人の居宅として使用されます。
3階へ向かう階段の右側には、引違いの戸で仕切られた通路があり、その奥には女中頭の寝室がありました。


1階の土間部分で靴を脱ぎ、階段を上がって2階に行くと、2間続きの和室(奥の間と次の間)があります。右が奥の間(10畳)で、左が次の間(7.5畳)です。ここで、新婚の本間泰輔・キミ夫婦が暮らしました。

奥の間です。

部屋は和風ですが、窓の手すりにはモダンな細工がありました。

窓の外には、さきほど見学した呉服蔵が見えます

次の間からは、呉服蔵の全体が見えました。

新婚夫婦が暮らした部屋の奥に、さらにもうひと部屋あります。ここは、女中頭の部屋でした。

女中頭であるからこそ与えられた個室でした。が、この部屋には天井がなく、梁もむき出しで、簡素な造りになっています。


階段を上がって、3階に行きました。
3階部分は、
主に客室として使用されました。


【付属家3階】
3階部分も、2階部分と同時期に造られたようです。
窓は、それぞれ南側、北側に配置しており、北側は出窓式で洋風の手すりが設けられています。本間家が完成したころは、現在のような高い建築物が周囲になかったため、3階からは、増毛町の眺望が楽しめました。北側には日本海の海岸線、そして南側には、暑寒別岳の山並みが続きました


明治35年、社屋増築の上棟に合わせて書家の巌谷一六が来町し、この部屋を使用したと伝えられています。

旧商家丸一本間家④でご紹介した、居宅(客間)の襖に今も残っている巌谷一六の作品は、この部屋で揮毫されたものと考えられます。

コロナでもマシュキニ。増毛から留萌へ、ニシンの千石場所を歩く 9 - 旧商家丸一本間家④(客間、次の間、上勝手、台所、下勝手)(2022年6月19日/3日め) - MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。


かつてはこの窓から、暑寒別岳の山並みを臨むことができました。反対側の窓からは、沖を行き来する本間家の船を眺めていたのかもしれません。


さて。
これでようやく、旧商家丸一本間家の
すべての部屋の見学を終えました。
ふう…。


本当に広かった、本間家。

その敷地に沿って、増毛歴史通りから海のある方向へと歩きました。

増毛町の歴史は古く、町内には北海道遺産に選定されたレトロな建物が立ち並んでいるのですが、なんでもない普通の個人のお宅でも、歴史を感じさせるものをいくつも見かけました。

すごく雰囲気がありますよね。^^


さらに歩いて、次のスポットに到着しました。


千石蔵です。


【千石蔵】
日本最北の酒蔵として知られる國稀酒造が所有する蔵で、現在は、ニシン船やニシンに関する資料の展示室になっています。國稀酒造が無料で一般開放しており、ビアパーティやコンサートも開催される、増毛町の文化施設でもあります。入場料は無料です。
ニシンの枠船や道具、ニシン漁全盛時の写真等を通して、当時の増毛港がたいへんなスケールの港であったことを肌で感じることができる、貴重な資料館です。


次回は、千石蔵の中を歩きます。


(つづく)

コロナでもマシュキニ。増毛から留萌へ、ニシンの千石場所を歩く 11 - 旧商家丸一本間家⑥(多目的便所と醸造蔵)(2022年6月19日/3日め)

(2022/08/06 18:20記)

2022年6月19日 旧商家丸一本間家の茶の間です。この部屋は、昭和56年公開の「駅~STATION~」の撮影に使われました。見比べてみると、長火鉢や障子は全く同じものであるのがわかります。(北海道増毛郡増毛町)


6月19日(日)


呉服蔵を出て、
お屋敷の右半分の方向に歩きました。


魔除けの天狗が飾ってありました。

台所の奥に井戸があり、さらにその奥へと土間が続いています。奥の白い壁の内側になにがあるのかと思ったら…、

トイレでした!笑 入ってすぐのところに、男子トイレと流しがあります。

流しのさらに奥にあるのが…、

女子トイレです。


お食事中の方、すみませんでした…。
2021年3月に、長野・田中本家で、
美しい便器を見せていただいてから、
古い家屋にいくたびに、
便器が気になってしまい、
ついつい、写真に撮ってしまいます。😅


田中本家の便器です。(2021年3月27日)

コロナでも雛旅。古(いにしえ)の雛を訪ねる、4泊5日の長野・岐阜・愛知 20 - 田中本家博物館 水車土蔵(2021年3月27日/2日め) - MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。


この土間に展示してあったステンドグラスです。大正時代に、風呂場の窓に使用されていたそうです。

丸一本間が所有していた船の模型です。通算12隻もの汽船を所有し、海運業でも大成功を収めました。

機械室・多目的便所のエリアを抜けて、さらに奥の醸造蔵に行きました。


【醸造蔵】
明治27年頃新築した酒造蔵で、後に味噌の醸造も行ったので、味噌蔵とも呼ばれました。総称して、醸造蔵と呼ばれています。間口3.7間、奥行11間、建坪40坪余りの平屋一宇2階建ての土蔵造で、屋根はトタン(亜鉛板)葺きでした。後に半分を撤去し、2階建てになっていた部分(20坪余り)が現存しています。
お酒造りは、明治35年以降、現在の國稀酒造へと作業場所が移されました。現在は、復元工事の際に撤去された扉や瓦などを展示しています。


醸造蔵の入口には、杉玉が下がっています。杉の葉でできており、酒林(さかばやし)とも呼ばれます。かつては蔵元で、新酒ができたことを知らせるために下げられたものでした。

醸造蔵の内部です。現在は、復元工事の際に撤去された扉や瓦などを保管・展示しています。

この丸くて大きな板は、酒造りのための桶だったようです。

左端にあるのは、蔵の外戸です。平成9年の復元工事の際に、取り外されました。

この扉は、明治20年代に蔵が建てられた時のものだそうです。

扉と同じころに作られた屋根瓦です。

丸一の屋号と本間家の家紋である花菱を入れた屋根瓦は、今も美しく、大切に保管されていました。


広いお屋敷を延々と見てきましたが、
いよいよ、あと一か所になりました。
次回は、本間泰輔とキミが、
結婚後に暮らしていた部屋を見学します。


(つづく)

コロナでもマシュキニ。増毛から留萌へ、ニシンの千石場所を歩く 10 - 旧商家丸一本間家⑤(呉服蔵と本間一夫さん) / 「怪物ダコと美男の千吉」(2022年6月19日/3日め)

(2022/08/05 18:30記)

2022年6月19日 旧商家丸一本間家で展示されていた写真です。(北海道増毛郡増毛町)
左:本間キミに抱かれる、本間一夫(1915年)
右:設立した日本盲人図書館の前に立つ一夫(1940年)。


6月19日(日)


旧商家丸一本間家の、
居住部分の見学を終えました。


旧商家丸一本間家の模型です。居住部分は、その左半分です。

こちらは、明治35年ごろの旧商家丸一本間家建築群。右半分にも屋根が続いており、現在よりもさらに大きなお屋敷でした。

居住部分の最後に見た、上勝手です。

この上勝手で靴を履き、土間に降りました。靴は、居宅入口の靴入れに残してきたのですが、多動夫がここまで持ってきてくれました。😊

降りたところにある、台所。

台所からお屋敷の入口まで、一直線にメインストリートが延びています。この土間を「通り庭」と呼びました。

通り庭を少し歩いて、次は呉服蔵に入りました。


【呉服蔵】
雑貨店(明治17年竣工)と同時期に着工し、約2年で完成しました。間口3間、奥行8間、建築面積24坪(80㎡)。総2階、屋根瓦葺きの土蔵造りです。1階の前半分は雑貨店専用であったため、手前に大戸前口を開き、後半分と2階は呉服物の倉庫であったため、通り庭の側に大戸前口を開いています。
現在は、展示室として使用されています。本間家が使用していた食器・什器や生活道具、呉服販売や海運業などの資料が展示されています。本間家2代目の泰輔とキミが結婚した際の婚礼の宴で用意された献立も残されています。当時2人の祝宴は、親族、顧客、 使用人など4日間で5回に分けて開かれるという盛大なものだったようです。

※呉服蔵の展示内容はその年によって入れ替わりがあります。


蔵の真ん中に、本間一夫さんゆかりのものが展示されていました。

紙彫琴です。


【紙彫琴】
明治17年頃から発売された、リード式のオルゴールです。楽譜となる紙を通してハンドルを回すと、紙に開けられた穴の場所の音階が鳴るようになっています。

西洋のオルガンを手本として、戸田欽堂が考案したもので、紙腔琴とも呼ばれました。当時のチラシを見ると、米一升が9銭だった時代に9円~15円もの値段で販売されており、いかに高価なものであったかがわかります。同種のものは当時数多く作られましたが、明治年間に蓄音機の輸入が増えると、いっきにその姿を消していきました。


この高価な紙彫琴を、おそらく彼のために購入したのだと思います。日本点字図書館創始者、本間一夫さんです。


【本間一夫】
東京都新宿区高田馬場にある日本点字図書館の創始者です。1915年(大正4年)に、本間泰蔵の長女・千代の長男として生まれました。本間泰蔵の孫にあたります。千代が早世したため、キミが一夫の養母となりました。

一夫は、5歳の時に脳膜炎にかかり、両眼を失明しました。学校にも通えず、在宅生活を送りますが、毎日のように本の読み聞かせをしてもらうことで、本の楽しさを知ります。
14歳で函館盲唖院に入学した一夫は、点字図書に出会い、さらに、「イギリスにある点字図書館」の存在を知ります。当時の日本にはこのような施設はありませんでした。しかし、目が見えなくても自由に本を読める喜びを知った一夫は、自らの手で点字図書館を作ることを決意しました。
その後、関西学院大学専門部文学部英文科を首席で卒業。前身である日本盲人図書館を創立しました。点訳奉仕者の育成に尽力し、戦争や資金不足など幾多の困難を乗り越え、1943年(昭和18年)、念願だった日本点字図書館を完成させました。


覚えておいででしょうか。
前々回の日記で、本間キミさんには、
ふたりの養子がいたと書きました。
そのひとりめの養子だった一夫は、
全盲になってしまうのですが、
本間家の長男として立派に成長し、
日本点字図書館を作ったのです。


左:本間キミに抱かれた一夫。
中:子供用の自転車に乗る一夫。
右:昭和15年、東京都豊島区に開いた日本盲人図書館。

左:昭和29年、職員と一夫の家族(妻、長男、次男)と共に。
右:点字図書館設立30周年を祝う集いでの一夫。

左:一夫と喜代子夫人。
右:点字図書館が作成したハンカチ。一夫が書いた「乕(とら)」の文字をプリントしたものです。下部には点字が印刷されています。


びっくりしました。
こんなところで、こんな方に出会うなんて。


夫は、長女といっしょに、
「視覚障害者と登山する会」
に参加しています。
先日、会のお仲間に、
夫がこのときの話をしたのですが、
皆さんのほうがよくご存じで、
「はじめから、本間一夫さんの生家を訪ねて、
 増毛にまで行ったのかと思ってましたよ。」

と言われたそうです。🤣🤣


いえ、ちがいます。😅
そんなこと、ちっとも知りませんでした。😅😅
自分の息子がお世話になっていながら、
本間一夫さんのお名前すら、
憶えていませんでした。(スミマセン)


そんなノーテンキな両親のもと、
長男も、今や26歳。
キミさんの写真を見ながら、
赤ちゃんだった長男を抱いて、
いろんな病院や施設、療育センターに
通った日々があったことを思い出しました。
今は旅行ばかりしていますが、
こんなふうに楽しく旅行ができるなんて、
あの頃には想像もしていませんでした。


生きていれば、こんな日もくるのだな、
と思います。


「読む喜びをすべての人に」


多くの人に喜びを送り続けた一夫は、
2003年(平成15年)、
心不全のために永眠しました。
87歳でした。


(つづく)


(おまけのお話)


元陣屋でもらったスタンプカードを
コンプリートしたことを、
以前の日記に書きました。
そのときの日記です。
コロナでもマシュキニ。増毛から留萌へ、ニシンの千石場所を歩く 7 - 旧商家丸一本間家②(呉服店舗、奥帳場)(2022年6月19日/3日め) - MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。


これは、「ましけヒストリー・ラリー」と言うイベントで、今年の4月から11月まで開催されています。

私たちがコンプリートしたスタンプカードです。今気が付きましたが、スタンプ係だった夫が、押す位置を間違えています。笑 本間家と厳島神社のスタンプが入れ替わってますね。🤣🤣


元陣屋:漁をする千吉
本間家:祝言をあげる千吉
厳島神社:大ダコが千吉を襲う


…と、3つのスタンプがあります。
それぞれが、
「怪物ダコと美男の千吉」という、
増毛に伝わる民話のシーンなのですが、
いったいどんなストーリーなのでしょうね。^^


ということで、調べてみました。2013年に作成された、8枚の影絵紙芝居です。(画像をお借りしました)


大ダコが、イケメンの千吉に恋をした。
その千吉が祝言を挙げた。
怒った(?)大ダコが千吉を襲う。
…というストーリーのようですが、
やはり、詳しいことはよくわかりません。


スタンプを3つ集めて、いただいたマグネットです。


はたして、この花嫁さんは、
大ダコの化身だったのか…?
うーん、気になるところです。笑

コロナでもマシュキニ。増毛から留萌へ、ニシンの千石場所を歩く 9 - 旧商家丸一本間家④(客間、次の間、上勝手、台所、下勝手)(2022年6月19日/3日め)

(2022/08/04 18:00記)

2022年6月19日 旧商家丸一本間家で展示されていた写真です。(北海道増毛郡増毛町)
初代本間泰蔵、長男泰輔とキミ、そして、婚礼の際、豪勢な飾りつけをしてキミを迎えに行ったと伝えられる、持ち船の太刀丸。丸一本間は、通算12隻もの汽船を所有しました。日清、日露の戦役に伴う御用船の需要もあり、海運の分野でも、一時は小樽の海運王板谷宮吉をもしのぐほどの隆盛を誇りました。


6月19日(日)


旧商家丸一本間家の、
居住部分を見学しています。
次は、中庭をはさんで反対側にある、
客間に行ってみます。
中庭を囲むようにつくられている、
コの字型の廊下をぐるりと歩きました。


客間です。


【客間】
客間の高さは3m30㎝で、隣りにある「次の間」よりも天井が高くなっています。応接的な要素で使われており、襖は、奥の間と同じく、巌谷一六による漢詩「赤壁賦」(蘇軾)が揮毫されています。書院造りで、左から付書院、床、棚が設置されています。
特筆すべきなのは、客間・次の間の前の廊下部分のみ、板の角が面取りされて丸くなっています。客人を通すことを考え、足元にまで心を配っていたようです。


床の間の左側にある、付書院(つけしょいん)です。
*付書院とは、室町時代以後の書院造りに見られるものです。床の間の側面に窓を設け、板張りで机のような部分を作りました。通常は縁側に張出しており、前に明かり障子を立ててあります。

床の間から右側の壁部分へ。

さらに右へと視線を移します。床の間と向かい合っている側は襖になっていて、「赤壁賦」が揮毫されています。

客間横の廊下に、もうひとつの見どころがあります。

通常の廊下と異なっているのがおわかりでしょうか。それぞれの板の角が面取りされて、丸くなっているのです。ここは客人が通るところであったため、少しでも足ざわりが良いようにという気配りで、廊下も手間をかけて作ったようです。

面取りされていたのは客間と次の間に面した廊下だけで、それ以外は、通常の面取りされてない廊下になっています。

当時は、「春慶塗」という技法で、すべての廊下に漆が塗られていたそうです。廊下の一部には、その漆が今も残っていました。


【春慶塗】
紅色または黄色で着色してできた木地の上に、「春慶漆」と呼ばれる特に透明度の高い「透漆」(すきうるし)を塗り上げ、表面の漆を通して木目の美しさが見えるようにした技法です。木目を見せるため、下地等の補強をしません。そのため、木地の素材、扱い方に工夫を要します。素朴な技法だけに、デザインで差異をつけることが追求され、木地や下地の色の選択、漆の精製に各地方独特の様式や技術が見られます。また、「塗師(ぬし)」とよばれる漆塗り職人によっても仕上がりに違いが出てきます。

通常は、蒔絵などの加飾を行わないため、他の漆器に比べて工程が少なく、安価にでき、軽くて実用性が高いとされています。例としては、板物(盆など)、曲物(菓子箱、重箱など)、挽物(茶托など)が多く、特殊な物として家具、仏壇などがあります。


庭を囲む、コの字型の廊下と、それに沿って造られた部屋の数々。

客間の隣りにある、次の間に行きました。

居宅入口からのびる廊下の、つきあたりにある部屋です。

次の間です。左手の襖の向こう側が客間になります。


【次の間】
客間の次に天井が高い部屋です(3m25㎝)。電灯が設置されていますが、これは大正6年ごろのものです。増毛では、大正5年に街灯がつき、翌年、増毛電気株式会社が設立されました。本間泰蔵は、初代の社長に就任しています。
箪笥は桐製で、金具部分には家紋である花菱があしらわれています。新潟県の箪笥職人の手によるもので、居宅が完成した明治35年頃にあわせて通らせたものと思われます。


電灯には、美しい細工が施されていました。

桐たんすの金具には、家紋の花菱があしらわれています。大きな家紋ですね。^^

この家紋は、箪笥だけでなく、屋根瓦にも見ることができます。旧商家丸一本間家の屋根の一部に瓦が使われているのですが、そのすべての瓦に、本間家の家紋である「花菱」の紋が入れられました。当時の北海道では、瓦を使うこと自体が珍しいことでした。(画像をお借りしました)

右側の、障子が入った襖の向こう側には、「上勝手」があります。

いちばん右側にある、上勝手です。


【上勝手】
家人が食事などをする場所として使用されました。本間家では、平成9年まで、この家を住居として使用していましたが、後年は上勝手を居間として使っており、中央部分には掘りごたつをしつらえていました。創建当時の上勝手には囲炉裏や自在鉤が備え付けてあり、現在はそのころの状態を復元しています。


障子が入った襖の向こう側は「次の間」です。この部屋も天井が高いですね。

上勝手のすぐ隣りは、台所になっています。その奥には、井戸も見えますね。^^ この井戸は、近年までポンプを利用して水を汲み上げ、生活用水として利用されてきました。台所のあるスペースはからお屋敷の出入り口までは、細長いまっすぐなスペースが広がっており、「通り庭」と呼ばれました。


【通り庭】
建物の入口(入場料を支払ったところ)からこの台所までが、一直線にのびるメインストリートのようになっています。これを、通り庭と呼びました。この場所から入り口までを見渡すと、本間家がいかに広大であるかを実感します。

本間泰蔵は、業務の拡大と共に増築を繰り返していったため、本間家全体は非常に複雑なつくりになっています。平成10年に復元工事をする前は、さらに蔵が2つ、事務所が1つありました。「客人がお手洗いに行ったら帰って来れなくなる家」として有名でした。


台所の奥にも、小さな食事スペースがあります。

このスペースは、使用人たちが食事するための場所でした。主一家が食事するための「上勝手」に対して、「下勝手」と呼ばれました。


これで、居宅部分が終わりました。
呉服店舗が竣工してから、造作を進め、
明治35年までに完成したようです。
居宅部の造作は精緻に工作されており、
廊下などの手足の触れる範囲はすべて、
建具と同様、
春慶漆で塗りあげられていました。


次回は、通り庭を横切って反対側にある、
呉服蔵に入ります。


(つづく)

コロナでもマシュキニ。増毛から留萌へ、ニシンの千石場所を歩く 8 - 旧商家丸一本間家③(茶の間、仏間、奥の間)/ 本間キミさん(2022年6月19日/3日め)

(2022/08/03 17:00記)

2022年6月19日 旧商家丸一本間家で。(北海道増毛郡増毛町)


6月19日(日)


旧商家丸一本間家に来ています。
次は、茶の間に行ってみます。


廊下に面して、奥帳場と茶の間が並んでいます。

廊下の右側、手前に見えるのが奥帳場で、茶の間はその隣りにあります。

茶の間です。廊下側に柵があり、部屋の中には入ることができません。が、夫が反対側の土間に降りて、そこから撮りました。笑


【茶の間】
茶の間には、大きな神棚があります。新潟の宮大工によるものです。神棚が大きかったのは、海難で船を失うことも多かった泰蔵の信仰心の表れかもしれません。
障子のすりガラスは、明治期からのものです。茶の間と奥帳場の襖を取り払うと、広い空間となり、宴会などの際に使用されていたようです。


これは、廊下側から撮った写真です。柵があり、中には入れないようになっていました。奥の土間からの方がよく見えるのではないかと、夫が土間の方にまで行ってしまいました。笑

土間から撮った茶の間です。奥の庭まで、きれいに写りました。この部屋でもうひとつ注目すべきなのは、「駅~STATION~」の撮影で使われた、ということです。

映画の中のシーンです。長火鉢、障子、襖が、すべて同じものです。^^

左上には、巨大な神棚があります。

神棚の下の襖に描かれている絵は、昭和初期の日本画家、仙田菱畝(せんだりょうほ)によるものです。新潟県出身で、佐渡出身の本間家とは交流が深かったと伝えられています。本間家では彼の作品を多く所蔵しており、茶の間にある襖絵や客間に設置してある屏風などが彼の手によるものです。(画像をお借りしました)

次は、この廊下を引き返し…、

今度は左手に伸びる廊下を進みました。

廊下はコの字型になっていて、そのどこからでも、中庭を眺めることができるようになっていました。

ひとつめの部屋である、仏間に入ります。

仏間です。

左から、泰蔵の長男泰輔の妻キミ、泰輔、初代の本間泰蔵、その妻チエです。


【本間キミ】
泰蔵の跡を継いだ泰輔の妻キミは、松前藩の家老を務めた下国家の次女でした。婚礼の際には、丸一本間合名会社の所有する船が函館まで出迎えに参上し、その披露宴は4日にわたって行われるほど豪華なものでした。
泰輔・キミ夫婦は子供に恵まれず、甥の泰次を養子にもらいます。その後、本間泰蔵は、本間家の業務をすべて長男泰輔に託して隠居し、昭和2年に77歳で亡くなりました。ところがその翌年、後を継いだ泰輔も43歳で急死してしまいます。
泰輔の死後、妻キミは、5歳だった泰次を育てながら、気丈にも、本間家の暖簾をひとりで背負います。昭和の恐慌から戦中・戦後の動乱の中、本間家を守り通し、成長した泰次に後事を託しました。


私が、本間家でいちばんすごいと思うのは、
この本間キミさんです。
実は、ひとりめの養子だった本間一夫は、
5歳の時に、脳膜炎で失明しています。
一夫を連れて病院通いを続けるなど、
苦労も多かったことと思います。
全盲の一夫を愛情深く育てながら、
ふたりめの養子を迎えたところで、
夫泰輔が亡くなってしまいました。


キミの悲しみは深かったと思います。
けれどさすが、武家の娘。
すべてをひとりで背負い、ただ生きた。
そして、本間家を守り通した…。
その気丈さが、胸を打ちました。


現在の本間家の人々も、
「今があるのは、キミのおかげ」
と、語っているそうです。


本間泰輔・キミの婚礼写真です。(画像をお借りしました)


凛とした顔立ちの、本間キミさん。
激動の時代を、きっぱりと、
そして鮮やかに生き抜いた人でした。


仏間の隣りの、奥の間に行きました。

奥の間です。襖いっぱいに、漢詩が書かれていました。


【奥の間】
初代の本間泰蔵が晩年隠居部屋として使用した部屋です。泰蔵の死後は、長男泰輔の妻キミが住んでいました。 襖に描かれている漢詩は、明治の三筆として名高い書家、巌谷一六(いわやいちろく)によるものです。 丸一本間家合名会社が創立し、本間家の建築整備が完了した明治35年の夏に招かれ、完成の祝典に合わせて 揮毫しました。
漢詩は、向かって右から4枚が仲長統による「楽志論」、左側の2枚が作者不明で 、左壁面の4枚は『唐宋八家文』の蘇軾による「後赤壁賦」からの引用 です。


部屋の左半分だけを見ると、男性の部屋のように見えますが…、

右側に目をやると、女性の部屋であったことがわかります。


この部屋で、キミさんは何を考え、
日々を暮らしていたのでしょうか。
キミさんが使っていた鏡台を眺めながら、
そのきっぱりとした生きざまに、
思いをはせました。


(つづく)