MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。

超未熟児で生まれた後遺症で、全盲難聴(盲ろう)となったのんたん、双子の妹あみちゃんと共に楽しく生きる家族のお話です。
子どもたちは24歳になり、毎日元気に楽しく暮らしています。
卵巣ガンになって思ったことも、少しずつ書き始めました。
ベトナム日記は、
http://limings.muragon.com/tag/?q=2019%E5%B9%B49%E6%9C%88-10%E6%9C%88%E3%80%80%E3%83%99%E3%83%88%E3%83%8A%E3%83%A0&p=4 
をご覧ください。
ベトナム家族旅行:
https://limings.muragon.com/tag/?q=2017%E5%B9%B412%E6%9C%88%E3%80%80%E3%83%99%E3%83%88%E3%83%8A%E3%83%A0
小学生だったころの子どもたちの育児日記は、こちらです。
http://limings.sweet.coocan.jp/

コロナでもポロト湖。星野リゾート 界 ポロト スイートを無料で楽しむ 19 - 白老仙台藩陣屋跡③(仙台藩士の墓)/ 「弟子屈」で晩ごはん(2022年6月21日/5日め)

2022年6月21日 新千歳空港の弟子屈で、お気に入りの塩ラーメンを食べました。(北海道千歳市)


6月21日(火)


白老仙台藩陣屋跡に来ています。


外曲輪の南端にあった御門を抜けて、さらに歩きました。


御門を抜けると、
そこは「入口広場」という場所で、
ここには小さな神社と、
未舗装の駐車場やトイレがあります。



「そろそろ空港に行く?」
と夫に言われたのですが、
ふと思いたって、こう答えました。


「もしもまだ時間があるなら、
 『仙台藩士の墓』に行きたいんだけど。」


【仙台藩士の墓】
仙台藩が白老陣屋で警備を実施した12年間で、23名(男19名、女4名)の藩関係者が亡くなっています。当時、死没者は寺や本墓地に弔われていましたが、明治維新による陣屋の放棄に伴い、同墓地も人々の記憶から忘れ去られていきました。その後、明治39年になって、雑草の中に倒れていた藩士の墓石が発見されたことを機に、周辺住民が中心となり、塩釜神社の建て直しや墓地の供養を行うようになりました。


ここまで見たからには、
彼らの墓を訪ねて終わりにしたい。
そんな気持ちでした。


それからがたいへんです。
「藩士の墓」ってどこにあるんだっけ?
と、ふたりして地図で探しました。😅


ありました。


地図の左上の、青い丸のところです。
現在地である入口広場から
ここまで歩いて行って、ふたたび、
出発地点の資料館駐車場まで戻ると、
かなり時間がかかりそうです。


空港までの移動時間を考えると、
あまり猶予はありません。
なので、別行動をとることにしました。


まずはMIYOが、
入口広場から墓地まで、先に歩き、
大体の場所を見つけておく。
夫は、資料館駐車場まで走って戻り、🤣
車を運転して墓地に行く。
…ということで、
墓地の近くで待ち合わせることにしました。


夫と別れて道路をしばらく歩くと、草むらの中に墓地の入り口を見つけました。ほんとに草むらでした。道路脇で待っていると、ほどなく、夫も車でやってきました。

こんな草むらを分け入って入りました。グーグル先生に訊いたら、これは「ヒメスイバ」という野草だそうです。陣屋跡にもたくさん自生していました。

しばらく歩き続けると、木陰のひっそりとしたところに、墓石が並んでいるのが見えました。

ただ、手を合わせました。故郷を遠く離れて亡くなった人々のことを思うと、言いようのない気持ちでした…。

墓地に残されていた碑です。ひとりひとりの名前も記されていました。

墓地をあとにして、空港に急ぎます。少し前方に、6台の観光バスが連なって走っていました。コロナでも修学旅行が実施されているようです。ウポポイに寄った帰りだといいな、と思いました。

トレン太くんでレンタカーを返し、送迎車で新千歳空港へ。ほんと、北海道ラブが止まりません。笑

そして晩ごはんは、いつものように、北海道ラーメン道場です。

MIYOのお気に入り、弟子屈で食べます。

おめあての鮭冬葉塩(930円)。夫は叉焼味噌(980円)。

ちょうど一年前にも、同じお店の同じ席で、家族でラーメンを食べてました。笑(2021年6月28日)

エアポートシアターで少し遊びました。

歴代のCAのユニフォームとかが展示されていて、おもしろいです。^^

最後は、出発までの時間を、スーパーラウンジで過ごしました。

ここは有料(ひとり1100円)なのですが、提携のクレカ(ゴールドカード)を持っていると、無料になります。

フリードリンクです。座席で充電もできるので助かります。

搭乗です。

機内に入るなり、CAさんから、「バッグとマスクがおそろいですてきですね。」と言われました。すごい、よく見てますよね。^^

行きは週末の夕方ということで満席状態で驚きましたが、帰りは平日だったので、混み具合はこの程度でした。

今回訪れたところです。

札幌を拠点に、北は留萌のおびら鰊番屋、西は神威岬、そして南は白老へ。全部で約600キロでした。


4泊5日で、今回も、
内容充実(充実すぎ)の旅になりました。
毎晩の家族宴会で、お酒を飲みながら、
「明日はどこに行くか」を、
相談しながら決めていくという、
行き当たりばったりの毎日でした。
でも、思い出深い、いい旅になりました。


ありがとう、北海道。


【今回訪ねたところ】
1日め
 羽田空港→新千歳空港
 宿泊:プレミアホテル-CABIN-札幌
2日め
 神威岬
 昼食:田村岩太郎商店でバフンウニ丼
 小樽
 ・茨木家中出張番屋
 ・田中酒造 亀甲蔵
 夕食:千歳鶴蔵元
 宿泊:フェアフィールドバイマリオット札幌
3日め
 増毛
 ・秋田藩元陣屋
 ・厳島神社
 ・国稀酒造
 ・旧商家丸一本間家
 昼食:港町市場甘えびまつりで甘海老寿司
 ・増毛駅
 留萌
 ・おびら鰊番屋
 軽食:おびら鰊番屋で海鮮丼
 夕食:札幌王将で餃子をテイクアウト
 宿泊:フェアフィールドバイマリオット札幌
4日め
 昼食:札幌回転寿司根室花まるで昼食
 札幌→白老
 ・ポロトの森散策
 夕食:星野リゾート 界 ポロト
 宿泊:星野リゾート 界 ポロト
5日め
 朝食:星野リゾート 界 ポロト
 昼食:ウポポイ カフェリムセでペネイモ
 ・仙台藩白老元陣屋資料館
 ・白老仙台藩陣屋跡
 ・仙台藩士の墓
 夕食:弟子屈でラーメン(塩・味噌)

 新千歳空港→羽田空港


今回は、4~5日めの
白老の部分だけを書きました。
いつか、1~3日めの日記も
書きたいのですが、
いったいいつになることやら、です。😅


18時半、離陸しました。夕暮れの北海道はとてもきれいでした。奥に見えているのは洞爺湖です。なつかしい。

洞爺湖を訪れたときの日記です。


今回特に自慢したいのは、
ホテル代、レンタカー代は
ポイントと補助金(サッポロ割)を利用し、
航空券はANAマイルの特典航空券だったので、
ほぼ、無料の旅だったことです。^^


気持ちよく、旅を終わりたかったのですが、
このあと、夫が機内に本を忘れてきて、
羽田空港で3時間も足止めをくらいました。
そのあげく、着払い料金を1000円も払って
送っていただくことになり、
夫は、私から大目玉を食らいました。😠😠


夫のやらかしで、
旅先から着払いで送ってもらうの、
この一年で、3回めですよ。
(いいかげん、いやになります。😔😔)


いろいろ工夫し、ポイントを貯め、
せっかく節約しても、
夫のやらかしで、ムダなお金が
どんどん出ていく気がします。
(だからお金が貯まらない。😔😔)


まあ、無事に帰ってこられてよかった、
と思うことにします。(思うしかない。)


(おわり)

コロナでもポロト湖。星野リゾート 界 ポロト スイートを無料で楽しむ 18 - 白老仙台藩陣屋跡②(外曲輪とアカマツ)(2022年6月21日/5日め)

2022年6月21日 白老仙台藩陣屋跡・御門で。(北海道白老郡白老町)


6月21日(火)


白老仙台藩陣屋跡に来ています。
内曲輪をぐるりと見て歩いたあと、
詰御門から、外曲輪に入りました。


詰御門です。この門を抜けて堀にかかる橋をわたると、外曲輪になります。

橋を渡ると、そこから長い道が続いています。かつてはその両側に、藩士たちが生活した長屋が建ち並んでいました。

道の左側に見える、三番長屋跡です。

その三番長屋の奥に残るアカマツ。仙台藩の藩士たちが植えたもので、これはぜひ見たいと思っていました。これだけでは大きさがわからないから、と、夫から手前に立つように言われました。笑


【白老仙台藩陣屋跡のアカマツ】
1856年(安政3年)、蝦夷地防衛の白老元陣屋を築いた仙台藩は、故郷の風景を再現するために、仙台からアカマツの苗木数百本を運び、陣屋内や海岸の会所につながる道沿いに移植しました。その12年後、戊辰戦争によって白老元陣屋の歴史は幕を閉じます。以後、移植されたアカマツは、燃料用などとして切られたり、枯死したりして次々と無くなりました。記録によれば、1930年(昭和5年)に11本残っていたそうです。が、1954年(昭和29年)の洞爺丸台風で7本が倒壊。平成に入ってからは、3本が胴枯れ病で倒れました。現在は、高さ20メートル、幹回り約3メートルの1本だけが陣屋跡の長屋跡付近に残っています。


平成に入って倒れた3本ですが…。
そのまま打ち捨てるのは忍びない、
ということで、
地元の彫刻家たちが協力しました。


資料館で、はじめにビデオを見せていただきましたが、そのテレビの周りには、4つの木彫り人形と2本のこけしが飾ってあります。

これらはすべて、倒れたアカマツの木から製作されたものなのだそうです。

「コタンコルクル」「鮭くわえ熊」「フクロウ」「フクロウとクマ」「遠刈田系こけし」を作成された方々の写真と苦労話が展示されていました。こけしは、歴史姉妹都市である仙台で作られたそうです。

仙台藩士が植えたアカマツから作られた「フクロウとクマ」と、現在1本だけ残る、最後のアカマツ。樹齢166年になりました。


【アカマツ再生プロジェクト】
陣屋跡に残るこのアカマツは、道内最古とされています。幕末に仙台藩が郷里から白老へ持ち込み、北方警備拠点の元陣屋に植えた歴史的価値の高い巨木です。樹齢160年を越えましたが、アカマツの寿命は長くて200年程度です。歴史の生き証人として陣屋跡に1本だけ残るアカマツの遺伝子を後世につなぐため、白老町では、研究機関の増殖技術で苗木をつくる事業を計画しました。この事業は2022年度よりスタートします。町では、「増やした苗木を陣屋跡に移植し、往時の姿を復元したい」と計画しています。


白老町の、
陣屋跡やアカマツにかける思いが
伝わってくるような話です…。


これは、通りの右側にある、二番長屋跡です。三番長屋と向かい合うように建てられていました。

三番長屋の隣りにある、稽古場跡です。この後ろに横にのびているのが土塁なのですが、多動夫がそこに上がってみたいと言い出しました。😅

稽古場横の土塁の上から見た外曲輪です。奥の方にMIYOが小さく写っています。本当に広いです。

これは道の右側。二番長屋の隣りにある、五番長屋跡です。

そして道の左側。稽古場跡の隣りにある、四番長屋跡です。


長屋一棟あたりに、
20名くらいが住んでいたのでしょうか。
なかには、
妻を帯同していた藩士もいたそうです。


外曲輪の最終地点に近づいてきました。さっきくぐってきた詰御門が、あんなに小さく見えます。

そして、外曲輪の南端にある御門が見えてきました。

こんなふうに歩いてきました。


これだけの規模の陣屋を、
わずか一年で作り上げたとは、
驚くばかりです。
仙台藩士の気概を見る思いでした。


御門をくぐって、外曲輪を出ます。

御門の反対側です。正確には、こちらが陣屋の正門にあたるようで、私たちは、言ってみれば「裏門」から入り「正門」から出たことになります。


そろそろ、
空港へ向かう時間が近づいてきました。


…なのですが。
「白老仙台藩陣屋跡」の日記、
あともう少しだけ続きます。


(つづく)

コロナでもポロト湖。星野リゾート 界 ポロト スイートを無料で楽しむ 17 - 仙台藩白老元陣屋資料館③から白老仙台藩陣屋跡①へ(2022年6月21日/5日め)

2022年6月21日 「仙台藩白老元陣屋資料館」で。三好監物所要の、紺糸縅甲冑(複製)。三好家伝来の家紋入りです。(北海道白老郡白老町)


6月21日(火)


「仙台藩白老元陣屋資料館」で、
駐留していた藩士たちの
足跡をたどってきました。


彼らが築いた陣屋は面積が約66,000 m²、
堀と土塁に囲まれた曲輪があり、
内曲輪と外曲輪の中に6基の門を構えていました。
本陣、勘定所、殻蔵、稽古場、長屋などを築き、
常時120名の藩兵が駐屯していたそうで、
その様子は錚々たるものだったと思います。


そんな中、1868年(慶応4年・明治元年)に
戊辰戦争が勃発します。
官軍が白老陣屋を攻撃する危機が高まったため、
藩士は白老を離れて仙台に引揚げました。
こうして陣屋は、12年の歴史に幕を閉じました。


【陣屋の終焉】
1868年(慶応4年)5月3日、戦火は東北地方へと波及しました。6月以降、仙台藩の戦局不利となり、ついに7月、白老へ元陣屋追討軍が派遣されました。箱館の野口屋又蔵(白老場所請負人)から急報を受けた御備頭児玉覚之進は、「賊軍」の汚名に、もはやこれまでと撤退を決意しました。

1868年7月18日早朝、野口屋又蔵からの急報が白老に届きました。敵地での衝突を避けるため、仙台藩士たちは、白老から支笏湖畔へ向かい、さらに山越えしながら定山渓を経由して小樽に到達しました。ここで船を雇い、奥州へと撤退しました。元陣屋追討軍の白老到着は、7月21日でした。辛くも難を逃れたという、ぎりぎりの逃避行でした。


最後に、この資料館で心に残った、
ふたりの人物について、
書いておきたいと思います。


【草刈運太郎】
仙台藩が白老に元陣屋を築いてから3年後、三代目の代官として、白老に着任しました。1868年、戊辰戦争が起こり、東北諸藩と同盟を結んだ仙台藩は敗れ、白老の陣屋にも政府軍が迫りました。このときに、元陣屋の藩士は全員白老を撤退したのですが、運太郎は、藩の民政責任者として当地に残りました。その後まもなく、政府軍が進軍してきたのですが、元陣屋の器物を破壊する官兵に抗議して、運太郎は深手を負いました。社台の漁家相木林蔵の番屋に逃れたのですが、刀創は治りませんでした。同年8月25日、再起不能を知ると、身を清めて砂浜に坐り、はるか南の仙台を拝み、割腹して果てました。49歳でした。白老に今も残る墓碑は、1883年(明治16年)、旧仙台藩士で画家の茂庭竹泉が同地を訪れた際に、その死を悼んで建立したものです。今も供養のために、地域住民による墓前祭が行われているそうです。


草刈運太郎の墓です。(画像をお借りしました)


【野口屋又蔵】
白老場所請負人3代目。仙台藩と去就と共にした商人でした。野口屋は、1844年(弘化元年)から、白老で昆布養殖に取り組み、成功させました。その三代目又蔵は、1859年に場所請負人に指定され、行こう、漁業をはじめ、諸産業の振興に努めました。
幕末、野口屋一家は、官軍の追討をうけた仙台藩士の撤退に献身的に協力しました。そのため、官軍からさまざまな圧迫にあい、資産の多くを失いました。


アヨロ鼻灯台にある、野口屋又蔵功績碑です。

資料館の終わりには、白老での蝦夷地警備を進言した三好監物の、紺糸縅の甲冑が展示されていました。

紺糸縅が美しさに、目が覚めるようでした。


1868年。
藩論が紛糾し、勤皇狩りが行われる中、
当時若年寄だった監物は、
会津討伐の詔勅を受けます。
しかし、従うことなく、
8月15日、従容として自決しました。
ときに53歳でした。


1966年(昭和41年)、白老仙台藩陣屋跡は、
国指定の史跡となり、白老町が整備しました。
1981年(昭和56年)、白老町は、
縁のある仙台市と「歴史姉妹都市」を提携
1984年(昭和59年)には、
町制施行30周年を記念して、
「仙台藩白老元陣屋資料館」を開館しました。


ここでしか見ることができない資料が
多数展示されていて、
たいへん見ごたえのある資料館でした。
ここまで整備した白老町の尽力に、
頭がさがる思いです。


資料館を出て、陣屋があった場所へと歩きました。

写真の中央あたり、はるか向こうに見えている門のあたりが、陣屋跡のようです。そこまで歩きます。

陣屋跡の配置図です。堀と土塁を円形にめぐらして、内曲輪と外曲輪を構成しています。現在は、資料館から搦手御門跡まで歩いているところで、ここから内曲輪に入ります。

かなり広いです。こういうとき、旅は体力勝負だ、とつくづく思います。😅

曲輪を囲む、堀と土塁が見えてきました。

堀にかかる橋をわたると、搦手御門跡があります。ここからが内曲輪に入ります。内曲輪に入るとすぐに、右手に厩跡が見えます。ここで馬をつないで、奥に進んだんですね。

そして左手には、勘定所跡が広がっています。広いですが、雑草が刈り取られ、きれいに整備されていました。

中を歩いてみると、けっこうな広さがあったことがわかります。

そしてこれが、本陣跡です。

本陣の向こう側には、兵具蔵跡がありました。

こちらは穀蔵跡。

内曲輪のほぼまんなかあたりに、井戸跡もありました。

厩跡あたりをウロウロしているところを、夫に撮られました。笑 奥に見えている白い建物が資料館です。

そしてMIYOも、井戸跡前に立っている夫を撮りました。笑 奥に詰御門が見えていますが、この門の向こうに、外曲輪が広がっています。実際に歩いてみると、陣屋跡の広さに驚きます。

内曲輪と外曲輪の間にある、詰御門です。向こう側に見えているのが外曲輪。堀に橋がかかっています。

そしてこちらは、今歩いてきた内曲輪です。

ここまでに歩いたところです。資料館から搦手御門跡まで移動し、内曲輪の中を、ぐるりと見て歩きました。


ご覧の通り、陣屋跡には、建物らしいものはなく、
わずかな痕跡が残るのみです。
けれど、資料館で知ったさまざまな出来事を
胸の内で反芻しながら歩くと、
言いようのない思いがこみ上げてきました。


明治維新、とひとことで言うけれど、
その陰には、数えきれないほどの
苦難や悲しみがあったのだ、と
思わずにはいられません。
ここ、白老仙台藩陣屋跡も、
そのひとつだったのだと思いました。


次回は、表御門の向こう側に広がる、
外曲輪を歩きます。


(つづく)

コロナでもポロト湖。星野リゾート 界 ポロト スイートを無料で楽しむ 16 - 仙台藩白老元陣屋資料館②(2022年6月21日/5日め)

2022年6月21日 「仙台藩白老元陣屋資料館」で。当時築かれていた陣屋のジオラマです。(北海道白老郡白老町)


6月21日(火)


「仙台藩白老元陣屋資料館」
に来ています。
前回は、概要を書きましたが、
仙台を出立してからの一行の記録を、
もう少し詳しくご紹介します。


1857年(安政4年)、御備頭三好監物は、白老詰後立として、46名の供を率い、蝦夷地へ向かいました。

様々なものを長持に入れて、人力や馬力で運びました。

こんなものまで持って行ったようです。左は提重。当時のお弁当箱です。

仙台から白老までの所要日数は、順調に行けば19泊ほどでした。が、青森での船待ち、渡海、それに風水害による滞留などが加わり、一ヶ月以上かかるのが常でした。藩士は、仙台の北で藩主に見送られ、一の関、盛岡、七戸を通って青森へ。さらに青森で船を雇い、潮の流れの激しい津軽海峡を渡りました。

箱館からは、8泊程度で白老に着きます。しかし、出張陣屋勤務の藩士たちは、白老からさらに陸路を厚岸や根室へと向かいました。また、択捉、国後詰めの藩士はそこから舟に乗り、任地へ向かわなければなりませんでした。


青い丸で囲んだところが、左から、
白老、厚岸、根室、国後島、択捉島です。
こんな遠いところまで、
行った(=行かされた)んですね…。


元陣屋の図面(右)と、現在の航空写真(左)です。当時のままの形状をとどめているのがわかります。白老元陣屋は、1856年(安政3年)の警衛初年度中に、土塁や主な建物の建築をほぼ完了しました。

白老元陣屋絵図
盛岡市中央公民館に収蔵されていたもので、当時の元陣屋の姿を立体的に描いたものとしては、唯一の貴重なものです。外曲輪、内曲輪合わせて十数棟の建物がありました。

当時の陣屋を再現したジオラマがありました。

土塁の内側に、本陣、勘定所、兵具蔵、穀蔵、井戸、厩が並んでいます。

さらにその手前には、藩士たちが住んだ長屋が建ち並んでいます。

ここには、稽古場と長屋がありました。

【陣屋の武士たち】
白老の仙台藩元陣屋には、百人を越す武士たちが駐留して、北方警備にあたっていました。彼らの士風を引き締めて鼓舞することは、責任者である御備頭の最大の任務でした。そのため、藩兵たちの訓練もきびしく行われていました。

毎月一回の兵学講義を始め、武芸の稽古、火縄銃や大筒の撃方訓練、さらに実戦さながらの訓練を行う修羅前などを積極的に行いました。

修羅前の訓練をしているところです。

【陣屋と地元の人々】
藩兵と地元のアイヌとの交流は掟で禁じられていましたが、勤務が当初の1年から2年以上へと長期化するとともに、相互の交流も自然に深まって行きました。

下の図は、オムシャという儀式を描いています。語源はウムシャ(久しぶりに再会した者同士が行うアイヌの礼式)でしたが、ここでは、知行主の役人が年一回、漁の終わる初冬にアイヌを集めて政令を伝え、酒肴を与えて恩恵を施す儀式となっていました。役人の前で手を付いているアイヌの人々が、そろって陣羽織を着ていることから、すべて長老クラスであったことがわかります。

三好監物のシントコ(本州で作られた、漆塗りの器)です。アイヌは産物と引き換えにこれを手に入れ、宝物として、大切に保存してきました。ここに展示してあるシントコは、三好監物が当時の総乙名に与えたものと推定されています。陣屋の建設や警備体制の維持には、地元民の協力が必要であり、代々の御備頭は、アイヌには相当気を遣ったと言われています。

こんな大砲まで、仙台からはるばる運んできて、訓練を行っていました。

火薬入れ、白石藩家臣紺野家に伝わる槍(穂先)と三好家の家紋の入った槍鞘、鉄扇です。

槍と火縄銃。


当時の仙台藩は、資金難にあえいでいました。
そのため、白老に送った大砲も、
当時としてもかなり旧式のもので、
実戦では役に立たないものだったそうです。


そんな武器を与えられ、日々、
訓練に励んでいた藩士たちの胸中は、
どのようなものだったのでしょうか…。


故郷を遠く離れ、厳寒に堪えながら、
仙台藩士たちが苦労して築いた陣屋でしたが、
やがてその歴史に幕を閉じる日が、
刻々とせまっていました。


(つづく)

コロナでもポロト湖。星野リゾート 界 ポロト スイートを無料で楽しむ 15 - 「ななかまどイレンカ」から仙台藩白老元陣屋資料館①へ(2022年6月21日/5日め)

2022年6月21日 「仙台藩白老元陣屋資料館」で。貴重な資料が多数展示されていました。(北海道白老郡白老町)


6月21日(火)


「Café RIMSE(カフェリムセ)」で
お昼ご飯をいただいたあとは、
もう一か所、行きたいところがありました。


スイーツカフェ、「ななかまどイレンカ」です。

前回、このお店に行った時の日記です。
コロナでもウポポイ3。札幌2週間ホテル暮らし 53 - ウポポイ①(いざないの回廊、ななかまどイレンカ、歓迎の広場)/ 5435(2021年11月7日/5日め) - MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。


このお店を運営しているのは、
社会福祉法人 白老宏友会。
つまりこのお店は、
障害者の福祉作業所です。
でも、そのことを知ったのは、
前回訪問した後。
夜、ホテルに戻ってからでした。


「そうとわかっていれば、もっといろいろ、
 たくさん購入したのに…。」
と残念に思っていたので、今回の旅行では、
「白老に行くなら『ななかまど』に行きたい。
 今度はもっと買い物したい。」

と、夫に何度も話していました。


なので、ウポポイに来たからには、
このお店に行かねばなりません。笑


店内には、チーズケーキのような生菓子のほか、お土産用のコーヒーやお菓子もたくさんありました。

前回は気がつきませんでしたが、レジを担当しているのも利用者さんなのだそうです。はきはきと対応していて、すばらしかったです。仕事をこなす彼の誇らしげな気持ちが伝わってきました。^^


旅先で、あまり物を買わない私たちですが、
このときばかりは、たくさん買いましたよ。^^
食べ物だけでなく、
夫のTシャツまで買っちゃいました。
前回の心残りが解消できて、
なにかほっとしました。^^


スタッフの方々にも、話しかけてみました。
はじめは当惑しておられるようでしたが、
「私の長男も施設にいて、
 皆様のお世話になっているんです。^^」
と話したら、表情が柔らぎ、
お店を運営するうえで考えていることや
日頃のとりくみなどを話してくださいました。


楽しいひとときでした。
このお店にまた来ることができて、
よかったです。


最後は、ソフトクリームを1個買って、夫とはんぶんこ。北海道は、ソフトクリームも格別ですね。^^

トゥレッポんに見送られて、ウポポイを後にしました。

ウポポイを出て、白老町を北上します。

目指すはここ、仙台藩白老元陣屋資料館。白老仙台藩陣屋跡の中にあります。サブキャプションは、「幕末維新を生きた防人たちの歴史」。


【白老仙台藩陣屋跡】
白老町にある白老仙台藩陣屋跡(しらおいせんだいはんじんやあと)は、幕末期に蝦夷地警備を命じられた仙台藩の陣屋があった場所です。国指定の史跡で、約6万6000平方メートルの史跡公園として整備されています。ここには、仙台藩白老元陣屋資料館があり、史跡の絵図面や古文書、武具など約300点の資料を所蔵しています。


江戸時代末期、幕府の命令で、
東北6藩(津軽・南部・秋田・仙台・庄内・会津)
が北海道の警備を行っていました。
それについてはよく知らなかったのですが、
この旅の途中で、たまたま、
「元陣屋」の存在を知りました。
その中でも、仙台藩が陣屋を築いたのが、
この白老だったのです。


実は、この2日前に訪れた増毛にも、
元陣屋がありました。
こちらは、秋田藩が築いた場所です。


西蝦夷警護のために、秋田藩が陣屋を置いた場所です。(2022年6月19日 北海道増毛郡増毛町)


この旅で、増毛町の元陣屋を訪れるまで、
北海道に東北6藩の陣屋があったことを
全然知りませんでした。
東北からはるばる北海道まで
警護に向かった人々の苦労は、
並大抵のものではなかったようです。


今回の旅行での主たる目的地は、
増毛町と白老町だったのですが、
見どころを調べているうちに、
その両方の町に、
秋田藩と仙台藩の陣屋が築かれていたことを
たまたま知りました。
そのことに、なにか不思議な縁を感じ、
訪ねてみたい、と思うようになりました。


仙台藩白老元陣屋資料館に到着です。駐車場に車を停め、建物に沿って伸びる道路を歩きました。

資料館の全景です。あまり知られていないためか、訪れる人はほとんど見かけませんでした。

ようやく、入口に着きました。

下の地図の赤い丸が仙台藩白老元陣屋資料館です。そして黄色い丸が白老仙台藩陣屋跡。かなり広いです。かつてはここに、陣屋、兵具庫、厩、倉、長屋などが建ち並んでいました。

まずは資料館で勉強して、そのあとに陣屋跡を歩いてみることにします。

入館料は300円です。

館内に入ると、まずはビデオを見せていただきます。この動画で、北海道に元陣屋が開かれた経緯を説明してもらいました。


【白老仙台藩陣屋の経緯と存在意義】
1856年(安政3年)、江戸幕府は、開国時におけるロシア勢力の南下に備え、仙台藩ほか東北地方の6藩に蝦夷地の警備を命じました。仙台藩の守備範囲は、白老から国後・択捉島までの広大な範囲に及び、白老の元陣屋は、各地に置かれた出張(でばり)陣屋の中核として機能しました。


陣屋の中に入っていくかのように設えられた門をくぐります。この先に、たくさんの資料が展示されています。

館内はいくつもの部屋に仕切られ、数多くの資料が整然と展示されていました。

【三好監物の白老視察】
白老を視察する三好監物です。幕府は当初、陣屋を現在の苫小牧に設置するように指示しましたが、監物は白老の方が最適であると報告します。これにより、白老元陣屋を中心とした蝦夷地警備が始まりました。

三好監物所用の甲冑です。

【北方の脅威強まる】
17世紀ごろから、ロシアは次第にアジアへ進出し始めました。カムチャッカを領有したあと、18世紀には、千島列島沿いに南下を始めました。これ以降、北方の脅威は次第に強まっていきます。

【蝦夷地へ向かう仙台藩士】
当時の仙台藩士がたどった道のりが、克明に記録されていました。

一行には、藩士や藩内各地から集められた下級武士に加え、医師や大工の姿もありました。派遣にあたっては、衣類や武具はもちろんのこと、お櫃などの生活用品に至るまで、すべて持って行ったそうです。出発に必要な費用は、派遣された各人が負担することになっていたので、支度金の工面に苦労する者も多くいたようです。

当初は、ほとんどの者が一年勤務の体制でした。仙台から青森までは陸路を使い、船で箱館に行き、そこかさらに陸路で白老まで行きました。白老までの移動日数は、順調にいけば20日程度でした。が、津軽海峡の渡海のために青森で船待ちをしたり、風雨による滞留などが重なると、2ヵ月を要することもありました。当時、仙台藩からの陣屋警衛に対する経費も切り詰められていたため、行程の間は、各人が自給自足を強いられる状況でした。

白老に到着した仙台藩士たちは、元陣屋の建設を開始しました。陣屋の建設には、仙台から同行した大工や人夫の他、白老場所請負人の野口屋又造手配の地元のアイヌも加わりました。そのかたわら、藩士たちは、鉄砲や大筒などの射撃訓練や完全武装による訓練などに励みました。

こうして、大規模な白老元陣屋が完成しました。約1年という極めて短い期間で造られた元陣屋でしたが、深い堀が掘られ、高い土塁が築かれたその中に、藩士が暮らす6棟の長屋を始め、蔵や厩(うまや)、6基の門などが建てられました。また、国元から塩釜神社や愛宕神社も分霊されて、小さな祠も祀られました。
このときの陣屋跡が、白老の町に今も残っています。写真の中央に写っている円型の広場のような部分が、陣屋跡です。

残念ながら屋敷類は残っていませんが、当時、築かれた円形の土塁の跡は、今もはっきりと見ることができます。


重機も何もない時代、故郷を遠く離れ、
北海道の原野で、厳しい寒さの中、
広大な陣屋を築いた人々を思うと、
胸にせまるものがあります。


「幕末維新を生きた防人たちの歴史」。
まさにそのとおりのドラマが、
ここ白老にありました。


この陣屋がその後、
どんな運命をたどったのか…。
それについては、次回にお話したいと思います。


(つづく)