MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。

超未熟児で生まれた後遺症で、全盲難聴(盲ろう)となったのんたん、双子の妹あみちゃんと共に楽しく生きる家族のお話です。
子どもたちは24歳になり、毎日元気に楽しく暮らしています。
卵巣ガンになって思ったことも、少しずつ書き始めました。
ベトナム日記は、
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をご覧ください。
ベトナム家族旅行:
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小学生だったころの子どもたちの育児日記は、こちらです。
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台風でも沖縄。台風11号と共に、宮古島と沖縄本島を楽しむ9日間 22 - 台風なら浦添城⑥ 浦添グスク・ようどれ館(2022年9月1日/7日め)

2022年9月1日 浦添グスク・ようどれ館で。西室(英祖王陵)の内部が、実寸大で再現されていました。(沖縄県浦添市)


9月1日(木)


さんざん歩きましたが、どうにかこうにか、
浦添グスク・ようどれ館
にたどり着きました。



ここは、浦添城跡と浦添ようどれの
ガイダンス施設です。
古い写真、発掘調査のパネルや、
出土した遺物などが展示されており、
浦添グスクと浦添ようどれの歴史を
学ぶことができます。


入口を入ると、
すぐのところに展示されていたのは、
前田高地での激戦の記録と、
浦添城跡から出土した、兵士たちの遺品でした。


前田高地を戦車で猛撃する米軍。(1945年4月29日)

飯盒(はんごう)と、銃弾が貫通した米軍の水筒。

日本軍の鉄カブトと茶碗。

熱で溶けたガラス瓶と、炸裂した手りゅう弾。

焼けた食糧(おにぎり、豆、カンパン)。

戦後、壊滅した浦添ようどれの発掘調査が始まりました。

昭和初期の浦添ようどれです。この状態に戻すべく、人々の努力が続きました。


破壊されつくした浦添城と、
兵士たちの遺品の数々に、
胸が苦しくなるような思いでした。


朝ドラ「ちむどんどん」で、
暢子の母親が、自分の家族を探して、
月に一回の遺骨収集をずっと続けていました。
あの場所はきっと、この浦添なんだな、と、
ブログを書いているうちに気がつきました。


住民の半数が犠牲となるような戦争が、
かつてここにあったということを、
私たちはもっと知っておきたい、と、
展示を見学しながら思いました。


そして、浦添ようどれは、ほぼ戦前の姿によみがえりました。実に、戦後60年もの年月が経過していました。


この浦添ようどれが、
二度と壊されるようなことがないように。
貴重な歴史遺産を守り続けていくのが、
今に生きる私たちの役割なのだと思います。


さて。
浦添グスク・ようどれ館では、
戦争に関する展示を見ることができるのですが、
もうひとつ、
ここでしか見られないものがあります。
それは、浦添ようどれの内部です。
この資料館の中に、西室(英祖王陵)が、
実寸大で再現されているのです。


先ほど見学した浦添ようどれでは、西室(写真の下側)と東室(上側)が並んでいました。

ふたつの王陵のうち、西室が、資料館内に再現されています。内部は、こんなふうになっています。

それでは、墓の内部に入ってみます。ここは主室になります。

右手に小さな扉があります。この扉の向こうに奥室があります。

そして主室の左手には、みっつの石厨子が置かれています。

一番手前にある、1号石厨子です。厨子の中に、英祖王の遺骨を洗骨して納めました。

見事なレリーフが施されています。

沖縄県立博物館でも、この石厨子のレプリカが展示されていました。(2022年8月31日)

台風でも沖縄。台風11号と共に、宮古島と沖縄本島を楽しむ9日間 9 - 台風なら博物館② 沖縄県立博物館 常設展示室(アサギマダラと進貢船)(2022年8月31日/6日め) - MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。


その隣りの、2号石厨子。

こちらも美しいですね。^^

奥に見えているのが墓口。通常はここから出入りします。

3号石厨子は、中がわかりやすいよう、屋根が取り外されています。

くてわかりにくいですが、中はこうなっていました。

墓口です。


浦添ようどれの内部には、
本来はとうてい入ることができないのですが、
こうして実物大の王陵を造ってくださったおかげで、
内部をつぶさに見ることができました。


すばらしかったです。
ありがとうございました。(→浦添市)


(つづく)

台風でも沖縄。台風11号と共に、宮古島と沖縄本島を楽しむ9日間 21 - 台風なら浦添城⑤ 浦添グスク・ようどれ館をさがす(2022年9月1日/7日め)

2022年9月1日 浦添城の下に伸びる道を、延々と歩きました。(沖縄県浦添市)


9月1日(木)


浦添ようどれの見学を終えました。
次は、浦添グスク・ようどれ館まで、
歩いていきます。


浦添ようどれの全景です。(画像をお借りしました)

暗しん御門と前庭のあるところまで戻り、そこから石畳になった坂道を下りました。

いちばん下まで降りたところです。

こんな道がずっと続いていました。なんか、ジャングルのようですね。^^ 道の脇には、クワズイモが群生していました。(以下、植物の名前はすべて、グーグル先生におしえていただきました。)

クワズイモです。背が高く、葉の長さは1mくらいありそうです。傘の代わりになりそうですね。^^


【クワズイモ】
「食わず芋」から名がついています。見た目はサトイモに似ていますが、食べられないのでそう呼ばれています。植物自体がシュウ酸カルシウムを含んでおり、皮膚の粘膜を刺激します。食べることができないのはもちろんですが、切り口から出る汁にも手で触れないように注意が必要です。外見がサトイモやハスイモの茎(芋茎)と
似ているため、間違えてクワズイモの茎を誤食して中毒する事故が、日本ではしばしば発生しています。東京都福祉保健局の分類では、クワズイモは毒草に分類されています。


北海道でもよく似たのを見かけますが、あれは里芋の葉です。沖縄のこれは違う植物だったんですね。それも毒草。うっかり触らなくてよかった。😅

これは北海道・釧路湿原で見たフキの葉。これも、葉がかなり大きくなるのですが、沖縄のクワズイモとは形が全然違いますね。^^(2022年9月16日)

この大きな葉の下にコロポックルがいると、北海道では伝えられています。(2020年11月30日 函館市北方民族資料館)

コロナでもウポポイ。登別から函館を訪ねる北海道 4泊5日のおトク旅 24 - 函館市北方民族資料館①(2020年11月30日/4日め) - MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。


脱線しました。
浦添のお話に戻ります。笑


道のあちこちで花を見かけるたびに、夫が立ち止まって写真を撮るので、なかなか先に進めません。笑 これはフサナリツルナスビ。沖縄ではよく目にする花です。元は南米原産で、琉球列島では野生化しているそうです。

おなじみ、ハイビスカス。

バナナに見えますが、「イトバショウ」だそうです。食用バナナの素となった原種品種群のひとつで、熱帯アジアが原産とされています。実は食べられないことはありませんが、えぐみがあり、果肉が硬くて種子が多いため、通常は食べません。

歩き続けているうちに、沖縄式のお墓が建ち並んでいるところに来ました。「浦添墓地公園」と書いてあります。資料館をめざして歩いているはずなのに、なぜ墓地に着いたのでしょうか。😅

そこからさらにどんどん歩いて、今度は住宅街に突入しました。それはそれで、まあおもしろいんですけどね…。なんでもない普通のマンションでも、エントランスにはシーサーが置かれています。

住民を守っているシーサー。沖縄ならではですね。^^

住宅街に入ってからも、夫はあいかわらず写真を撮りながら歩いています。😂 これはアリアケカズラだそうです。

ムラサキアリアケカズラ(別名アラマンダ・ウィオラケア)。

イクソラ・コッキネア。アカネ科サンタンカ属の常緑小低木で、インドが原産です。インドでは、シバ神にこの花をお供えするそうです。


やはり、熱帯、亜熱帯の植物が多いですね。^^
それはともかく、資料館をさがして、
とにかく歩き続けました。
30分以上歩いたと思います。😂😂


花を撮りながら、ノーテンキに歩く夫。
そして、
「なんでこんなに歩くんだ。
 道、間違ってるんじゃないの?」
と、だんだんふてくされるMIYO。😔
怒りが爆発しそうになる寸前でしたが、
どうにかこうにか、資料館に到着しました。


浦添グスク・ようどれ館です。


同じ公園内の資料館に行くだけなのに、
どうしてあんなに延々と歩いたのか。
それがとても不思議だったので、
このブログを書くにあたって、
グーブルマップで調べてみました。
そしたら、すごいことが判明しました。


まずは浦添前田駅から浦添城/ハクソー・リッジへ行ったのですが、そこから「浦添グスク・ようどれ館」までは、すぐ近くでした(赤いルート)。ところが、夫はなぜか、反対方向の道へ降りてしまい、そこから延々と墓地まで歩き、住宅街に突入していたのです。つまり、公園の外周をおおまわりして、「浦添グスク・ようどれ館」まで歩いたことになります(青いルート)


夫が反対方向に山を下りたのは、たぶん、
浦添ようどれの全景が
見たかったからだと思います。
青いルートの方向に山をおりないと、
浦添ようどれを遠くから
眺めることができません。


それはいいのですが、全景を見たあとに、
また山に戻ればよかったわけで、
わざわざ公園の外周をおおまわりして
歩くことはなかったと思います。


ざっと見ただけでも、
7倍くらいの距離を歩かされています。😵
夫は方向音痴だし、
「なんか、迷ってるみたいだなあ…」
と思ってはいましたが、
こんなにもムダに歩かされていたとは…。
ば~か~や~ろ~
…と、言いたくなりました。😂😂


まあ、それでも、
MIYOは事前になんにも調べないで、
ただ夫のあとをついて歩いているので、
文句は言えないですね。😅


ムダに歩かされるのがいやなら、
次からはきちんと事前に調べて、
自分で地図を
読み取っていけばいいんですよね…。


まかせきってなにもしない自分が悪い。
…とわかってはいるのですが、
たぶん、次の旅でもなにもしないだろうな、
と、今から予想しています(←アホ)。


方向音痴のくせに、
勝手にどんどん歩いてしまう夫と、
夫は信用できないとわかっていながら、
自分で調べないでただついて歩くMIYO。
いい勝負かもしれない。
…と、思わないでもありません。😅😅


次回は、浦添グスク・ようどれ館の中に入ります。


(つづく)

台風でも沖縄。台風11号と共に、宮古島と沖縄本島を楽しむ9日間 20 - 台風なら浦添城④ 浦添ようどれを歩く(2022年9月1日/7日め)

2022年9月1日 浦添ようどれで。前庭と暗しん御門です。(沖縄県浦添市)


9月1日(木)


浦添城のハイライト、
浦添ようどれに到着しました。
ここには、琉球国中山王一族の墓があります。


【ようどれ】
ようどれは琉球語で、「夕方の波風が静まる時」「夕凪」と言う意味です。夕凪の、「無風で波の静かなる状態」が死後に続くことを願い、この墓の名前になったのではないかと言われています。また「ようどれ」とは、「極楽」のオモロ名(琉球時代の古語)ではないかとも言われています。


【浦添ようどれ】
浦添ようどれ(国指定史跡)は、浦添城跡の北側岩壁の中腹にある、英祖(えいそ)王(在位1260-1299)と尚寧(しょうねい)王(在位1589-1620)の陵墓です。向かって右側が英祖王の墓、左側が尚寧王の墓だと伝えられています。両陵とも、正面は石組みで漆喰が塗り固められています。自然洞窟を堀削して造営しており、沖縄の墓造りの原型になったと考えられています。墓の中の石厨子は県指定文化財です。仏像、鶴、亀などの見事な彫刻が施されており、仏教文化の影響を色濃く残しています。


【戦争を経て】
この一帯は、沖縄戦での激戦地で、ようどれも大きな被害をこうむりました。墓域を囲んだ石垣も、美しいアーチ型の門も、墓室をおおっていた石組みも破壊され、その復元が大きな課題となっていました。

1989年(平成元年)、浦添ようどれを含む浦添城跡一帯が国史跡に指定されました。それを機に、尚家第22代当主・尚裕氏が、3629㎡の陵墓を浦添市民に無償譲渡しました。この英断を受けて浦添市は、1997年(平成9年)から、文化庁の補助を受けて復元事業に着手。8年の歳月をかけて、浦添王陵をよみがえらせました。これにより、墓室の石組みと「ようどれの碑文」も復元されました。
2005年4月には、修復・復元工事が完了し、浦添グスク・ようどれ館も誕生しました。館内では、英祖王の墓の内部が実物大に再現され、3つの石棺や出土した遺物などが展示されています。


この浦添ようどれには、
名前がついている場所が7つあります。
 前庭、暗しん御門、二番庭、中御門、
 一番庭、西室、東室

それを順に見て行きます。


1.前庭


浦添ようどれに着いてすぐの所にあります。
小さなスペースで、庭と言うよりも、
階段の踊り場のような感じです。


MIYOの後ろにある小さなスペースが「前庭」です。そして前庭の後ろにあるのが、暗しん御門です。


2.暗しん御門(くらしんうじょう)


前庭の奥に続く細い道の部分です。
もとは、崖の下を通る、
トンネルのような通路でした。
が、沖縄戦の砲撃で破壊され、
天井部分がなくなってしまいました。


現在の暗しん御門です。

かつての暗しん御門(昭和9年頃)。加工した岩盤と石積みでできた、トンネル状の通路でした。薄暗くひんやりとしているため、「地下通路を通ってあの世に行く」ような雰囲気を醸し出していました。が、この天井の岩盤は、沖縄戦で破壊されてしまいました。

この暗しん御門を通り抜けたところが、二番庭になります。


3.二番庭


二番庭は広いスペースになっています。
ここで従者が待機していたのでしょうか。


暗しん御門を抜けて二番庭に入るところです。


4.中御門(なかうじょう)


二番庭の奥には、石積みでできた門があります。
これが中御門です。


この門を入ると、一番庭になります。

門の向こうに、一番庭が見えます。

石造りの門はアーチ型で、かなり厚みがあります。あとで知ったのですが、アーチがあるのは、「ここから先は『聖域』ですよ」という印なのだそうです。なので、中に入る前には帽子を脱ぎ、おじぎをしなければならなかったようです。夫、帽子をかぶっています。(スミマセン…)


5.一番庭


浦添ようどれのいちばん奥の部分で、
ここに王陵が築かれています。


一番庭です。夫、奥へ奥へと歩いています。笑

一番庭のつきあたり。

ここで振り返ると、中御門がこんなふうに見えます。^^


次は、一番庭にある、王陵を見てみます。
ふたつの王陵(西室と東室)が、
並んで造られています。


浦添ようどれは、英祖王の墓として、
13世紀に造られたもので、
1620年に、尚寧王によって改修されました。


沖縄戦や戦後の採石で、
浦添ようどれは徹底的に破壊されましたが、
1996年から実施した発掘調査の成果に基づき、
2005年に、戦前の姿を復元しました。


西室と東室です。


6.西室


英祖王(在位1260-1299)の陵墓です。



7.東室


尚寧王(在位1589-1620)の陵墓です。
東室には、尚寧王と彼の一族が葬られています。


ここまで、こんなふうに歩きました。


これで、浦添ようどれの見学を終えました。
台風のせいなのかコロナのせいなのか
よくわかりませんが、
この日に訪れる人はほとんどなく、
今回も、いつものように、
「浦添ようどれ貸切状態」でした。😅😅


二番庭からながめた。浦添の街です。

さて、帰ります。

来た道を引き返しながら帰るのかと思ったら、どうやら違う道を行くようです。坂道をどんどん降りていく夫。ここも、きれいな石畳が続いていました。

下まで降りてから振り返ると、浦添ようどれの全景が見えました。

よくぞここまで復元してくれた…という気持ちでした。


(つづく)

台風でも沖縄。台風11号と共に、宮古島と沖縄本島を楽しむ9日間 19 - 台風なら浦添城③(浦添城跡前田高地/ハクソー・リッジ、展望台、そして浦添ようどれへ)(2022年9月1日/7日め)

2022年9月1日 沖縄戦最大の激戦地となった、浦添城跡前田高地(ハクソー・リッジ)。現在は展望台になっています。まるで、浦添の街を見守っているかのようでした。(沖縄県浦添市)


9月1日(木)


浦添城を歩いています。
伊波普猷の墓から、
海の方向に向かって歩いていくと、
城壁が現れました。


この石垣は分断されていて、その間が道になっています。分断されているのは、ここに城門があったから、ではありません。


上の写真で、右側の石垣は、
戦争で破壊された当時の城壁のラインですが、
左側は、発掘調査に基づき、
想定されるラインを復元したものだそうです。


これは左側の石垣です。

これは右側の石垣です。裏側は、こんなふうになっています。

第二次世界大戦で、この城壁は、壊滅的な被害を受けました。修復前の写真を見ると、道の両側には、がれきしかない状態です。その後、発掘調査に基づいて復元したのが、現在の城壁です。よくぞここまで修復したと思います。


石垣がこれほどまでに破壊されたのは、
かつてここに、
前田高地壕群があったからでした。
つまりここが、
映画「ハクソー・リッジ」の舞台となった、
「浦添城跡前田高地」そのものなのです。


この日の朝、
浦添城を訪ねると決まったときから、
多動夫は、
「『ハクソー・リッジ』って言うんだけどね。
 沖縄戦の激戦地だったところなんだけど、
 そこを見たいんだよね。」
と、何度も言っていました。


そのときのMIYOは、夫のことばを、
あまり気に留めていませんでした。
「行くのはお城でしょ。
 激戦地の跡を見てどうするの?」
くらいにしか思っていなかったのです。


けれど、実際に浦添城に来てみると、
その大激戦地であったという歴史から
目をそむけてはいられなくなりました。
それほどまでに、浦添城には今も、
戦争の傷跡が深く残っていたからです。


沖縄戦最大の激戦地となった、
浦添城跡前田高地(ハクソー・リッジ)
について、少し書きたいと思います。


【浦添での戦い】
1945年4月1日に、米軍は艦船1400隻、将兵54万人の内、183000人からなる大部隊で、沖縄に上陸しました。これに対して日本軍は、首里の司令部を守るために、宜野湾の嘉数高地と浦添グスク一帯(前田高地)に防衛線を張り、進軍してくる米軍を迎え撃ちました。地上では米軍の手榴弾が投げ込まれ、空からは「鉄の暴風」と呼ばれたほど凄まじい砲撃が繰り返されました。特に浦添グスク一帯は、日本軍と米軍の激しい攻防戦が繰り広げられた場所でした。浦添は、沖縄戦最大の組織的な激戦地となり、多くの死傷者がでました。当時の凄惨な状況は、「ありったけの地獄を一つにまとめたようなもの」ということばで表現されています。


上陸する米軍。

石垣のそばには、日本軍の陣地壕跡が今も残っていました。


「この金網がない写真を撮りたいよね…。」
とMIYOがつぶやいたら、
「できるよ。」
と夫。😅


フェンスの隙間をのぞくようにして夫が撮った、同じ場所の写真です。北海道を旅行しているときは、「こういう大きな葉っぱの下にはコロポックルがいるんだよね。」などと、のんきな会話をしていました。が、沖縄では、こういうところの奥には塹壕や防空壕が残されていたりするので、心穏やかに見ることができません…。


【日本軍陣地壕跡】
この壕は、首里に侵攻する米軍を阻止するため、「ありったけの地獄を一つにまとめたようなもの」が現実となった場所でした。前田高地では、第62師団独立混成第63旅団が、この高地の地形を利用して洞窟・トンネル・トーチカ連鎖陣地を構築しました。それぞれの壕同士が繋がった、大規模な陣地だったようです。「壕口が一つ破壊されても問題がないように、内部では壕同士が繋がっていた」と書いた、日本兵の手記が残っています。


現在は、落盤や土砂の堆積が激しく、壕の中に入ることはできません。

今は、修復された城壁が、美しい石積みを見せています。

この城壁の先に、浦添ようどれがあります。

このあたりは美しい景色が広がる展望台になっていて、「浦添八景」のひとつとなっています。柵の向こう側は崖です。

展望台に立つと、眼下には、浦添の街と静かな海が広がっていました。


【展望台周辺の激しい戦闘】
沖縄戦当時、浦添城跡一帯の丘陵は、米軍から「ハクソー・リッジ」、日本軍から「前田高地」と呼ばれていました。米軍がこの崖を「ハクソー・リッジ」と呼んだのは、その地形がHacksaw(弓鋸)のようであったためです。

このあたりは、北側が急峻な崖地となっています。米軍にとっては攻めづらい陣地であったうえ、日本軍が決死の防衛線を繰り広げました。そのため、日本と連合国両軍の大激戦地となりました。
ハクソー・リッジのように急に高くなった丘陵や崖は、戦車による進軍が難しいことから、米軍は兵士自らが攻め寄せる攻撃にならざるを得ませんでした。一方、守る日本軍は、攻め寄せる米軍に対して高所から攻撃を加える、あるいは崖を乗り越えた米兵を狙撃、砲撃するという激しい戦闘を余儀なくされました。


これがHacksaw(弓鋸)です。まるでこののこぎりのように切りたった崖が、前田高地でした。

この沖縄戦を描いた映画『ハクソー・リッジ』(Hacksaw Ridge)は、2016年にアメリカ合衆国で製作され、2017年のアカデミー賞において録音賞と編集賞を受賞しました。

展望台でしばらく立ちつくしました。ここで、激戦が繰り広げられました。この穏やかな海から米軍が攻めてきて、日米双方に多大な犠牲者がでました。言葉にならない思いがこみあげてきました。

左側に浦添の街を見下ろしながら、再び歩き続けました。

やがて、「浦添ようどれ 入口」と書いてあるところに着きました。下方向に向かって、石段が続いています。ここを降ります。

ずいぶん長いですが、さらに降り続けます。


このときのMIYOは、
この先になにがあるのかも知らず、
夫に連行されるままに、
ただ歩き続けていました。笑
(相変わらず、下調べを全くしないで旅行しています。😅)


その長い石段を降りた先には、実は、こんな世界が広がっていました。

浦添ようどれに、到着です。


次回は、この浦添ようどれについて、
もう少し詳しく書きたいと思います。


(つづく)

台風でも沖縄。台風11号と共に、宮古島と沖縄本島を楽しむ9日間 18 - 台風なら浦添城②(殿、ディーグガマ、伊波普猷の墓、城壁)(2022年9月1日/7日め)

2022年9月1日 浦添城の城壁で。美しい海が見えました。(沖縄県浦添市)


9月1日(木)


浦添城に来ています。
ここまで、
南エントランスから入り、
石畳道の緩い坂を上り、
浦添城の前の碑
まで歩いてきました。


地図で見ると、こんな感じになります。

「浦添城の前の碑」から、しばし、景色を眺めました。

そして、ここから山の中をさらに進むと…、

埋葬人骨が見つかった場所に着きます。

発掘時の写真です。(画像をお借りしました)


【埋葬人骨】
1983年の発掘調査で、城壁の下層から、グスク時代の埋葬人骨が出土しました。墓穴は、人が入るギリギリの大きさに掘られ、粘土で蓋をされていました。人骨は20歳前後の女性で、身長は約150㎝。人骨の状態は良好で、仰向けになっており、両腕と両脚を胴体に密着するまで強く折り曲げられた状態で葬られていました。副葬品はありませんでした。


さらにその隣りには、殿(トゥン)があります。


【殿(トゥン)】
殿(トゥン)は、ウマチー(麦・稲の豊作を祈願・感謝する祭り)など、村の祭りを行う場所でした。ウマチーの際は、日本の竹を結び合わせたアーチを作り、それに向かって参列者が手を合わせました。アーチは、神々が通る門を表現したものと考えられています。



殿(トゥン)を過ぎてさらに歩くと、
ディーグガマに着きます。


ディーグガマは、一見、うっそうとした森のようですが、手前の入口から石段を降りて、中に入ることができます。


【ディーグガマ】
鍾乳洞が陥没してできた窪地で、地域の人々に拝まれている御嶽です。洞窟(ガマ)にデイゴの大樹があったため、「ディーグガマ」と呼ばれるようになりました。1713年に成立した地誌「琉球国由来記」には、浦添城内の「渡嘉敷嶽(とかしきだけ)」という名前がみられ、それがこのディーグガマにあたると考えられています。
戦時中は、住民の避難壕として使われました。戦後は、ガマの内部にコンクリートブロックの囲いを造り、その中に戦没者の遺骨を納めました。遺骨は後に、糸満市の摩文仁へ移されています。


石段を降りて、窪地の中に入りました。

ここには、二か所の拝所が設けられています。

千羽鶴が手向けられているところの奥には、かつて、戦没者の遺骨が納められていました。

のぞきこむと、階段が続いているのが見えました。が、落盤の恐れがあるため、現在は、中に入ることはできません。

ディーグガマの隣りにあった「浦和の塔」です。この塔は、沖縄戦で亡くなった人々を祀る慰霊塔です。1952年に、市民の浄財と本土土建会社の協力によって建立されました。納骨堂には、浦添城跡を中心に市内各地で戦死した軍人や民間人など約5000人が安置されているそうです。


当時、浦添の人口は9217人でしたが、
そのうち戦争で亡くなった人は4112人で、
実に44.6パーセントの住民が
戦争の犠牲者となりました。


沖縄の歴史を訪ねる旅をしていると、
第二次世界大戦の悲惨な歴史を
避けて通ることはできません。
楽しい旅行をしていても、
そのことに目をそらすことなく、
手を合わせる気持ちだけは
持ち続けて行きたいと、いつも思います。


ディーグガマを後にし、次は、
「伊波 普猷(いはふゆう)の墓」に行きました。


【伊波 普猷(いはふゆう)】
日本の民俗学者・言語学者です。1876年(明治9年)に、那覇に生まれました。本土に渡り、三高(後の京都大学)から東京帝国大学に進んで、言語学を修めました。東大在学中から、浦添が首里以前の古都であったことを最初に論じた論文を発表しています。学問の領域は、沖縄研究を中心に、言語学、民俗学、文化人類学、歴史学、宗教学など多岐に渡っており、その学問体系によって、後に「沖縄学」が発展したため、「沖縄学の父」と称されています。特に、『おもろさうし』研究への貢献は多大で、琉球と日本とをつなぐ研究を行うと共に、琉球人のアイデンティティの形成を模索し続けました。


道の両側では、うっそうとしたジャングルのように樹々が生い茂っています。

その樹々に見とれながら歩き続けました。

やがて、少し広くなった場所に出ました。その隅に、ひっそりと墓石がありました。

伊波 普猷(いはふゆう)の墓です。


1925年(大正14年)、
49歳の伊波は、再び上京し、
國學院大學で教鞭をとります。
東京では、沖縄人連盟の初代会長となり、
沖縄のために尽力しましたが、
1947年(昭和22年)、
戦争で米軍に占領された沖縄の
行く末を案じつつ、 
東京で亡くなったそうです。


今から100年も前に、
琉球人としてのアイデンティティ
模索し続けていたというのは、
すごいことだと思います…。


そんなことを考えながら、歩いていたら、前方に壮観な石積みが見えてきました。

城壁です。そしてその向こうには海が見えました。

城壁の反対側(海側)です。


【城壁(復元)】
この城壁は、発掘調査の成果に基づいて復元したものです。
浦添城跡は、沖縄戦後の採石により、城壁の石材が持ち出されたため、城壁がほとんど残っていませんでした。この場所について、発掘調査を行ったところ、城壁の切石がかろうじて残っている状況を確認することができました。そこで、残っていた切石を活かし、失われた部分に新しい切石を積み上げることによって復元しました。


この、城壁が復元された場所には、
かつて、前田高地壕群がありました。
つまりここが、
映画「ハクソー・リッジ」の舞台となった、
「浦添城跡前田高地」そのものなのです。


沖縄戦最大の激戦地となった、
浦添城跡前田高地については、
次回に書きたいと思います。


ここまでに歩いたところです。


(つづく)