MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。

超未熟児で生まれた後遺症で、全盲難聴(盲ろう)となったのんたん、双子の妹あみちゃんと共に楽しく生きる家族のお話です。
子どもたちは24歳になり、毎日元気に楽しく暮らしています。
卵巣ガンになって思ったことも、少しずつ書き始めました。
ベトナム日記は、
http://limings.muragon.com/tag/?q=2019%E5%B9%B49%E6%9C%88-10%E6%9C%88%E3%80%80%E3%83%99%E3%83%88%E3%83%8A%E3%83%A0&p=4 
をご覧ください。
ベトナム家族旅行:
https://limings.muragon.com/tag/?q=2017%E5%B9%B412%E6%9C%88%E3%80%80%E3%83%99%E3%83%88%E3%83%8A%E3%83%A0
小学生だったころの子どもたちの育児日記は、こちらです。
http://limings.sweet.coocan.jp/

台風でも沖縄。台風11号と共に、宮古島と沖縄本島を楽しむ9日間 27 - 旧海軍司令部壕③(ビジターロビー展示室)(2022年9月2日/8日め)

2022年9月2日 旧海軍司令部壕で。地下の司令部壕まで、105段の階段が続きます。(沖縄県豊見城市)


9月2日(金)


ビジターセンター2階の資料館を見学後、
階段を降りて、1階に行きました。
ここに受付があり、参観料を支払います。


ひとり600円を、ペイペイで支払いました。

ふたり分1200円を一括で支払わず、
600円ずつ、2回に分けて支払いました。
一ヶ月に30回以上、ペイペイで支払うと、
翌月のポイント付与率が2倍になるからです。
通常0.5%が1%に、ですね。^^
小さなことですが、
少しでもポイントが増えれば、
地味にうれしいので、毎月こんなふうに、
小刻みにペイペイで支払ってます。^^


9月のポイント付与率も1%だったので、
600円の決済だと6円分が付与されます。
ところが、支払いの詳細をチェックすると、
なにかヘンです。


6ポイント(6円分)付与されるところが、
120ポイントになっています。
これは多すぎます。


なぜ? なぜ?
と思って、壕内の見学そっちのけで、
調べてみました。爆
すると…。


こんなのがあったのです。8月と9月に豊見城市でペイペイ支払いをすると、20%戻ってくるキャンペーンだそうです。


これはすごい。
20%ですよ。笑
参観料1200円を支払って、
240円も戻ってきたんです。🤣🤣


上の画像は、このブログを書くにあたって、
サイトからコピーしてきたのですが、
そこでまたすごいことがわかりました。
9月末までのキャンペーンだったのですが、
予想を上回る利用があり、予算を使い切ったため、
9月9日で終了したそうです。


私たちが利用したのは、9月2日。
なにも知らないで豊見城市に来て、
終了直前のキャンペーンの恩恵に
あずかってしまいました~。


以前、ヒヤシンスさんから、
「MIYOさんたちには旅運がある。」
という名言をいただいたのですが、
このときもそうだったのかもしれません。
旅運。
この言葉、気に入っています。^^
ヒヤシンスさんの造語でしょうか。
いい言葉ですねえ。笑


この「20%戻ってくる」というお知らせを、
MIYOがうっとりして眺めているあいだも、
夫はさっさと先に行ってしまい、
自分だけ、見学を始めていました。
(支払いは、MIYOにさせるんですけどね。😔)


ビジターセンター1階の受付を過ぎると、
ビジターロビー展示室があります。
こちらに展示されているのは、主として、
司令部壕に関するものです。
壕から発掘されたさまざまな遺品や、
家族へ宛てた手紙、写真やパネルなど、
旧日本海軍や沖縄戦についての
さまざまな資料を展示しています。


まず目をひくのは、司令官だった大田實少将の写真と少将旗です。1945年(昭和20年)6月、終末の時を迎えた沖縄海軍部隊の司令官・太田實少将は、沖縄戦の実態を詳しく伝える電文を本土へ送ったあと、ここ豊見城村の海軍司令部壕で自決しました。

自決する直前に、彼が本土へ送った電文です。以下にタイプアウトします。(展示に際し、原文を現代文に直してありました。)


【大田司令官の電文】
 次の電文を海軍次官にお知らせくださるよう取り計らってください。
 沖縄県民の実情に関しては、県知事より報告されるべきですが、県にはすでに通信する力はなく、32軍(沖縄守備隊)司令部もまた通信する力がないと認められますので、私は県知事に頼まれたわけではありませんが、現状をそのまま見過ごすことができないので、代わって緊急にお知らせいたします。 
 沖縄に敵の攻撃が始まって以来、陸海軍とも防衛のための戦闘に専念し、県民に関してはほとんどかえりみる余裕もありませんでした。しかし、私の知っている範囲では、県民は青年も壮年も全部を防衛のためにかりだされ、残った老人、子供、女性のみが、相次ぐ砲爆撃で家や財産を焼かれ、わずかに体一つで軍の作戦の支障にならない場所の小さな防空壕に非難したり、砲爆撃の下でさまよい、雨風にさらされる貧しい生活に甘んじてきました。
 しかも、若い女性は進んで軍に身をささげ、看護婦、炊事婦はもとより、砲弾運びや切込み隊への参加を申し出るものさえもいます。敵がやってくれば、老人子供は殺され、女性は後方に運び去られて暴行されてしまうからと、親子が生き別れになるのを覚悟で、娘を軍に預ける親もいます。 
 看護婦にいたっては、軍の移動に際し、衛生兵がすでに出発してしまい、身寄りのない重傷者を助けて、共にさまよい歩いています。このような行動は、一時の感情にかられてのこととは思えません。さらに、軍において、作戦の大きな変更があって、遠く離れた住民地区を指定されたとき、輸送力のない物は、夜中に自給自足で雨の中を黙々と移動しています。
 これらをまとめると、陸海軍が沖縄にやってきて以来、県民は最初から最後まで勤労奉仕や物資の節約をしいられ、ご奉公するのだという一念を胸に抱きながら、遂に報われることもなく、この戦闘の最後を迎えてしまいました。 
 沖縄の実情は言葉で形容のしようもありません。一本の木、一本の草さえすべてが焼けてしまい、食べ物も6月一杯を支えるだけということです。
沖縄県民はこのように戦いました。 
県民に対して、後世、特別のご配慮をしてくださいますように。


太田司令官の少将旗は、沖縄戦終結後、この壕内で発見されましたが、米海兵隊少佐が本国に持ち帰っていました。2012年の海軍慰霊祭で、67年ぶりに、ご遺族のもとに返還されたものを展示してあります。


【沖縄県における被害の全容】
沖縄戦における軍人の戦死者数はほぼ正確ですが、沖縄県民の犠牲者数は現在も不明で、推定されるのみです。約15万人前後と推測されていますが、これは日米両軍の正規軍人の二倍以上にのぼり、戦前の県人口約60万人の1/4にあたります。
犠牲になったのは人命だけではありません。地上の文化財の9割以上が失われ、戸籍や地籍簿も消滅したため、戦後の混乱が長く続きました。なによりも、地獄の戦場で傷ついた沖縄県民の心の傷跡は、いつまでも消えることがありません。


旧日本海軍関係の遺留品です。左から、炊事用品、手榴弾、薬品瓶。(これらは、県内遺骨収集ボランティアの国吉勇氏より寄贈されました。)

左上:東風平村富盛の石彫大獅子を弾除けにして、八重瀬岳の日本軍陣地を攻撃する米軍兵士。
右上:南部戦線へ向かう米戦車隊。右手奥の丘は、壊滅した海軍司令部壕です。
下:沖縄随一を誇った小禄飛行場格納庫と、その前を進撃する米海兵隊。

小禄飛行場を占領して、南下する米軍侵攻部隊。

1945年6月、喜屋武半島での最後の戦いが終わりました。そして、島の南端の洞窟から、約8万人の避難民がはいだしてきました。ほとんどが傷ついた老人、子供、女性たちでした。

左:日本軍将兵の収容所。二重の有刺鉄線に囲まれています。
右:収容所へ向かう、日本兵捕虜。

左:石川の仮収容所で衣服を乾かす住民たち。
右:全財産を持ち、米軍に指定された地域へと移動する住民たち。


ここにご紹介しているのは、
ごく一部です。
機会がありましたら、ぜひ、
この司令部壕での展示を見ていただきたいな、
と願うばかりです。


ビジターロビー展示室の隣りにある階段を降りると、小さなホールがあります。

ここでは、花や千羽鶴と共に、掘削作業で使用したツルハシの見本が置いてありました。約3000人の兵士が、このツルハシを使って、司令部壕を造りました。

その右手に、司令部壕の入り口がありました。たくさんの千羽鶴が手向けられています。

旧海軍司令部壕は、地下約20mのところにあります。ここから、105段の階段を降りて行きます。


次回は、地下にある、
旧海軍司令部壕の中を歩きます。


(つづく)

台風でも沖縄。台風11号と共に、宮古島と沖縄本島を楽しむ9日間 26 - 旧海軍司令部壕②(沖縄戦写真展と義烈空挺隊)(2022年9月2日/8日め)

2022年9月2日 旧海軍司令部壕に展示してあった、豊見城城の写真です。旧海軍司令部壕の東に位置する豊見城城は、1400年頃に、のちの南山王となる汪応祖が築いた城です。終戦直後には城壁の一部が残っていましたが、戦後、米軍の採石場となり、その原型を失いました。その後、豊見城城址公園を整備する際に破却されました。(沖縄県豊見城市)


9月2日(金)


思いがけず、
旧海軍司令部壕に来てしまいました。


【旧海軍司令部壕】
沖縄戦において、大日本帝国海軍の司令部として使用された防空壕です。当時は軍事上の最高機密機関でした。沖縄県豊見城市と那覇市の市境に位置しています。
沖縄戦は、太平洋戦争中に日本で唯一行われた地上戦でした。この壕内では、約4000名の兵士が戦い、傷つき、そして最期を遂げました。戦後はしばらく放置されていましたが、数回に渡る遺骨収集の後、1970年(昭和45年)に、旧海軍司令部壕としてその一部が一般に公開され、周辺は県によって海軍壕公園として整備されました。

現在は、司令官室を中⼼に 300mが復元されています。内部には、司令官室、医療室、下仕官室、作戦室などが当時のままに残されており、戦争の恐ろしさを知り、平和の尊さを認識する場所となっています。また、併設されているビジターセンター(資料館)では、壕内で発見された遺品や戦争時の関連資料を展示しています。


タクシーが到着したのは、
旧海軍司令部壕の駐車場でした。
ここは展望台になっており、
周囲の街を360度見渡すことができます。


司令部壕がこの場所に建設されたのは、
やはりこの眺望ゆえでした。
近くにある、
小禄飛行場(今の那覇空港)を守ることが、
この司令部壕の役割でした。
「戦闘時に、肉眼でも敵か味方かを
 判断しやすかった」
ということで、
この見晴らしがいい場所が選ばれたのです。
建設にあたっては、約3000人の将兵が
手掘りの掘削作業に従事したとされています。


海軍慰霊之塔で手を合わせ、
展望台の周囲をぐるりと歩いてから、
ビジターセンターに入りました。


ビジターセンターです。(画像をお借りしました)


正面の入口を入ったところは、
旧海軍司令部壕の2階にあたります。
ここは資料館になっていて、一面に、
沖縄戦の資料や写真が展示されていました。


たくさんの写真が並んでいました。有名な、「白旗の少女」もありました。っていうか、この写真以外のは、見たことがありません…。


ここでは、そのごく一部だけになりますが、
資料館とロビーに展示されていた写真を
掲載したいと思います。


沖縄に上陸。用心深く周囲のようすをうかがうアメリカ兵たち。(1945年4月 読谷)

左:亀甲墓の前で、米兵にねらい打ちにされてしまった日本兵。(1945年5月)
右:多くの住民が死に追いやられました。(1945年4月)

洞窟に火炎放射を浴びせる米兵。逃げ出してくる日本兵をねらって、もう一人がライフル銃をかまえています。

義烈空挺隊の97式重爆撃機一機が、読谷飛行場での胴体着陸に成功しました。その隊員たちが破壊した米軍機の残骸です。(1945年5月)


【義烈空挺隊】
義烈空挺隊とは、敵飛行場に輸送機で強行着陸して、敵航空機と飛行場施設を破壊することを目的とした特殊部隊でした。旧日本陸軍の空挺部隊で編成されました。義烈空挺隊は、1945年5月24日、連合軍に占領されていた嘉手納飛行場と読谷飛行場で攻撃を行いました。まさしく、特攻作戦と同じように、生きては帰れない作戦でした。
5月24日、熊本の飛行場から飛びたった12機(168名)が沖縄を目指します。途中4機が機材不調で引き返しましたが、8機が沖縄上空まで到達しました。そのうち5機が北飛行場(読谷飛行場)まで接近。しかしアメリカ軍の対空砲火で4機が撃墜され、1機だけが、読谷飛行場に胴体着陸しました。アメリカ軍の中に、たった1機で。
着陸と同時に、完全武装の空挺隊員(8名)が機から飛び出すと、八方に突っ走り、滑走路沿いに並んでいるアメリカ軍機に手榴弾を投げつけ、破壊工作を開始しました。このときに、コルセア2機、C-54型輸送機4機、プライベティアー1機を撃破。その他、リベレーター爆撃機1機、ヘルキャット3機、コルセア22機、合計26機が撃破されました。燃料集積所も破壊され、ドラム缶600本(70000ガロン)のガソリンが焼き払われ、米兵2名が戦死し18名が負傷しました。また、対空砲火で被弾した重爆撃機のうちの1機は、高射砲に体当たりして、高射砲を操作していた海兵隊員8名が戦死しています。
この作戦で確認された義烈空挺隊員(8機)の死者は69名でした。その遺体は、アメリカ海軍設営隊が埋葬しています。義烈空挺隊が出撃した健軍の地は、現在、陸上自衛隊健軍駐屯地となっています。毎年5月24日には、義烈空挺隊の慰霊祭を開催しているそうです。

戦時中(1945年6月9日)の「日本ニュース」に、義烈空挺部隊が出撃する時の映像が残っています。「子どものようなほがらかさで、全隊員が搭乗機へ向かった。」というナレーションに、暗澹たる思いがします
奥山大尉の、「全員、喜び勇んで行きます。」という言葉に、胸がつまりました。

「日本ニュース」は、太平洋戦争を間近に控えた1940年(昭和15年)から終戦をはさみ、1951年(昭和26年)まで製作されたニュース映画で、戦時中は、日本軍や内務省の検閲を受けた後、毎週映画館で封切られ、国民の戦意高揚に用いられました。「日本ニュース」は、戦争完遂を目的にした国策映画でしたが、太平洋戦争中の映像記録として大変貴重なものです。


左上:占領された読谷飛行場に強行着陸した義烈空挺隊員。米軍に大きな被害を与えて戦死しました。
左下:急造の爆雷を背負って戦車に迫り、射殺された少年兵。人間爆雷によって、一日6台の重戦車が破壊されたと言われています。
右:コンクリートブロックの重石を腰にしばりつけた特攻機のパイロット。

首都・那覇は、一面瓦礫の街となりました。

米軍に救けだされる人々。10mの竪穴の下に1000mの横穴が続く、巨大な壕の中には、500人もの住民が避難していました。(1945年6月)

洞窟から救けだされる母子。子どもの泣き声で、米兵に発見されました。(1945年4月)

収容所に向かう沖縄住民。(1945年6月)

左:子どもを抱っこする米兵。
右:米軍が用意した病院で、ウジのわいた足の傷の手当てを待つ少女。

収容所の住民たち。

米兵と沖縄の人々。

子どもの手を見る米兵。

にわかづくりの捕虜収容所に集められた、日本軍の捕虜。(1945年6月 小禄)


全てが、この地で起こったことでした…。


沖縄は、日本で唯一の、地上戦が行われた場所。
私が知っていたのは、それくらいでした。
全住民の4人に1人が亡くなったとは…。
途方もない数です。
沖縄戦のことも、義烈空挺隊のことも、
ほとんど知らないままに、
ここまで生きてきました。
そのことを、ただただ、申し訳なく思いました。


(つづく)

台風でも沖縄。台風11号と共に、宮古島と沖縄本島を楽しむ9日間 25 - 朝食ビュッフェ、長崎角煮まん弁当、そして旧海軍司令部壕①へ。(2022年9月2日/8日め)

2022年9月2日 海軍壕公園から見た、豊見城の街。美しい海が続いていました。(沖縄県豊見城市)


9月2日(金)


旅の8日めになりました。
宮古島から那覇に来て4日めになります。
まずは朝ごはん。
那覇・ヒューイットリゾートでの、
3回めの朝食ビュッフェです。


このホテルでのすごいごちそうの数々は、
昨日までにご紹介したので、
今日は省略します。


夫の朝ごはん。毎朝、沖縄そばを食べてます。笑 赤いのは沖縄グァバジュースです。

MIYOの朝ごはん。白粥がお気に入りで、毎朝いただきました。トッピングに、島らっきょう、油条、ゴーヤーチャンプルーふりかけとか、珍しいのが並んでいて、どれもおいしいのです。^^ 海ぶどうも、毎日たくさんいただきました。

毎朝必ず楽しみにいただいたのは、白粥、海ぶどう、そしてこのラフテーです。「豚の皮がついていないとおいしくない。」とちむどんどんで言ってましたが、そのとおりでございます~。笑

今日もきれいに完食。笑

デザートもどんどん補充されるし、都度内容が変わるので、見逃せません。笑

一種類ずつとってみました。

緑色のパウンドケーキは、抹茶ではなくてピスタッチオです。昨日食べたらおいしかったので、今日はふた切れ。遠く沖縄にいるのに、ピスタッチオを見ると、やっぱりエンディミオンさんを思い出します。笑


ここまでで、第一ラウンド終了です。
デザートを食べ終わったところで、
次にいきます。


パンコーナーもあるのですが…、

やはりこちらで。ハンバーガーステーションには、8種類のバンズが並んでます。
上段:イングリッシュマフィン、ドッグバンズ、ピタパン、ミニスライス、カンパーニュ、中華バンズ
下段:ミニバーバーバンズ、バーガーバンズ

中に入れる具も、ハンパなくすごい量です。

今日のお弁当です。夫は今日も、小さなハンバーガーをひとつだけ作っていました。MIYOは、さすがに3日めもハンバーガーは飽きるので、バンズをピタパンと中華バンズに。ピタパンは洋風に、そして中華バンズにはラフテーをはさんで、角煮割包にしてみました。長崎の角煮まんみたいでしょ。笑

MIYOのを見て、夫も真似して角煮まんを追加。笑 はいりきらなかった具は、おかずとして別のペーパーに包んで、今日のお弁当が完成です。^^


今日もお腹いっぱいになって
部屋に戻りました。
前日は、夜になってから、
かなり雨が降っていましたが、
今朝になると、雨がやんでいるばかりか、
青空さえ見えています。
台風が近づいてるはずなんですけどね…。


「今日はどうするつもり?」
と、夫に訊いてみました。
すると、
「旧海軍司令部壕に
 行ってみようかと思って。」

ですと。


はい…?
海軍? 司令部? 壕?😮😮😮


昨日の浦添城にも驚いたのですが、
今日は司令部壕だそうです。


み「それって、穴の中にあるわけ?
  防空壕みたいに?
  そこ、40年前に行かなかった?」
夫「それは、沖縄陸軍病院南風原壕跡群。
  今日行きたいのは、そこじゃなくて、
  旧海軍司令部壕。」
み「台風なのに?」
夫「でも地下だから。
  地下の深いところにあるから、
  雨風が強くても大丈夫だよ。


はあ~…。😵😵
と、ため息しかありません。
よくもまあ、毎日こんなにも、
思いつくものです。
夫、ホテルにおこもりはイヤなんですね。
台風を避けながら、なにがなんでも、
おでかけするつもり。😂😂


結局、この台風の中、
「オサレなホテルで缶詰めになる」
という、MIYOの夢は、
一日もかなえられないもようです。😔


アクセス方法を調べてみました。
場所は、那覇市の隣りの豊見城市です。
バスで行くこともできるのですが、
いつ雨が降りだすかわからない状況で、
バスターミナルまで歩いて行って、
バスをさがして…と考えると、
ちょっとメンドウです。
でも案内には、
「那覇市街からタクシーで15分」
ともありました。
「15分くらいなら、
 ここは思いきってタクシーで行こう。」
ということになりました。


普段、めったなことでは、タクシーに
乗らない(乗れない)私たち。
でもこのときは別です。
なんたって、DiDi(の割引券)という、
心強い味方がいますから。笑


アプリを開き、
「どこに行きますか?」
と訊かれたので、
「旧海軍司令部壕」
と入力したら、
4秒後に、タクシーが走り始めました。🤣🤣
昨日は5秒でしたが、
今日はさらに早くなりました。すごっ。


ホテルに向かってやって来るタクシーを、スマホでモニターできます。じりじりと近づいてくるタクシーのアイコン。その色まで、本物のタクシーと同じにしてあるところが泣かせます。

ホテルのロビーで、スマホを見ながらタクシーを待っているMIYO。「あと2分で来るよ。あと200mだよ。」すごい時代ですねえ…。

そして、ホテルのエントランスにタクシーが到着しました。ああ、なんて便利なんでしょう。😍😍


あとは、
タクシーが連れて行ってくれるので、
ラクチンです。^^


目的地まで向かっている状況は、スマホ上で、リアルタイムにモニターできます。

ものの15分で、旧海軍司令部壕に到着しました。

このときの領収書です。

タクシー料金 1470円
クーポン割引   560円
合計金額     910円


910円ですみました。
バス代二人分とあまり変わらないですね。
ありがとうございます~。(→DiDi)
*DiDiを使ってみたい方は、登録時にMIYOの紹介コード2YRDXZRAを入力すると、500円のクーポンがもらえるみたいです。タクシーを利用する機会がありましたら、お試しください。
詳細はこちらです。
DiDiで今までにない移動体験を | DiDiモビリティジャパン株式会社


このタクシー料金は、
ペイペイで自動的に決済されます。
MIYOの場合は、
ペイペイで2%のポイントが付与されるので、
18円が還元されます。
これも、ちょっとうれしいポイントです。^^


ということで、
旧海軍司令部壕にやってきました。


まず目にはいったのは、海軍慰霊之塔です。


【海軍慰霊之塔】
1945年(昭和20年)6月13日、大田司令官や多くの将兵が壕内で最期を遂げました。そして7月2日、連合国軍が沖縄戦の終了宣言を行います。「鉄の暴風」と言われた沖縄戦は、こうして終わりを迎えました。この戦争による死者は、日米両軍と民間人を入れて約20万人、そのうち、住民の犠牲は9万4千人に上り、沖縄県民の実に4人に1人が亡くなったとされています。
1958年(昭和33年)、亡くなった兵士やその家族を弔い、遺族を励ます意を込めて、沖縄海友会によって建立されたのが、海軍慰霊之塔です。


記念碑の周囲を歩いてみました。現在、ここは展望台となっており、海軍壕公園が整備されています。

あ…、海が見えました。なんてきれいな青。

そしてこちらの方に広がっているのは、那覇市。見るからに都会ですね。^^

(ビルがなければ)右端の方に、首里城も見えるんですよ…。


沖縄県立博物館(那覇市)、
浦添城(浦添市)、
そしてここ、
旧海軍司令部壕(豊見城市)と歩き、
少しずつ、このあたりの地図が
頭の中に描けるようになってきました。^^


次は、ビジターセンターの中に入ります。


(つづく)

台風でも沖縄。台風11号と共に、宮古島と沖縄本島を楽しむ9日間 24 - ハンバーガーとチキナー弁当、そして山羊料理(2022年9月1日/7日め)

2022年9月1日 スーパーで売っていた「かふう」。下部には進貢船が、そして上部には「万国津梁の鐘」が描かれています。(沖縄県那覇市)


9月1日(木)


ようやくホテルに戻ってきました。


最近のホテルでは、客室の清掃を毎日やってくれません。昨日は清掃なしだったのですが、この日戻ってみたら、きれいにお掃除してくださっていました。^^

早速、買って来たものを冷蔵庫に入れました。いろいろ入りすぎていて、生活感がでてます。とてもじゃないけど、オサレなホテルの部屋の冷蔵庫には見えないですね。😅

夫は、帰るなりビールだそうです。スーパーで買ったばかりのオリオンビール。「カリー!」とは、沖縄で「カンパイ!」の意味だそうです。


【カリー】
漢字では「嘉例」と書きます。「嘉」という漢字から分かるように「喜ばしいこと」「めでたいこと」「縁起がいいこと」という意味があります。ちなみに、かりゆしウェアの“かりゆし”も「嘉例吉」という漢字が当てられ、こちらも「めでたい」「縁起がいい」ということを意味します。
「カリー」という言葉は、現在では、居酒屋やお酒の席でよく聞かれます。音頭を取る人が「ぐすーよー、カリーさびら(皆様、乾杯しましょう!)」と掛け声を発したら、その席にいる人たちは、自分のグラスを目の高さに掲げ、元気に「カリー!」と返します。いわゆる、沖縄式の「乾杯」です。


スーパーでだらだらと遊んでしまったので、
時刻は午後2時を過ぎています。
遅くなりましたが、お昼ごはんです。


今日のお昼ごはんは、朝ごはんのときに各々が自分で作ったハンバーガー。夫のは上品ですが、MIYOのは超特大バーガーになってます。😅😅

朝食ビュッフェのお話はこちらです。
台風でも沖縄。台風11号と共に、宮古島と沖縄本島を楽しむ9日間 16 - 「ヒューイットリゾート那覇・ブッフェレストラン ティーダ」で朝ごはん② 驚きのハンバーガーステーション(2022年9月1日/7日め) - MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。


こちらは、夫が作った常識的なハンバーガー。

MIYOのは、ハンバーガーの具とは、もはや言えなくなっています。

お皿に盛ったのを全部、バンズにおしこみました。😄😄

で、そのハンバーガーを冷蔵庫に入れて出かけました。帰ってきて包みを開いたら、具がこぼれてきてたいへんなことになりました。しょうがないので、お箸で具をつまみながら食べました。😅 


ハンバーガー、おいしかったです。^^
こんなデカいのを食べたので、
お腹がいっぱいになりました。
(↑あたりまえ)


いつもの旅行だと、夫に引っ張られて、
朝から晩まで、ウロウロと、
観光しまくっているのですが、
今回は台風が来ているということで、
「ウロウロ」はナシです。
さらに、MIYOから夫に、
申し渡していることがありました。


それは、ワンデイ、ワンシング
(One day, one thing.)
つまり、「一日に一つしかしない。」
ということです。
夫がいちばん苦手なことですね。🤣🤣


「台風だから、基本、ホテルにこもるよ。
 状況によって観光できそうな場合は、
 訪問先は一か所だけにする。
 欲張って、あちこちウロウロしない。


これが、MIYOが申し渡した条件でした。
この条件を、夫は拡大解釈して、
前日は、沖縄県立博物館に、
4時間も滞在しました。
そして今日は、浦添城を歩き回り、
午後遅くに帰ってきたわけです。
かなり長時間のおでかけだと思うのですが、
それでも、夫の言い分は、
「言うとおりにしてるよ。
 ワンデイ、ワンシングでしょ。」
と言うことになります。😔


このころ台風は、先島諸島からじりじりと、
こちらに近づいていました。
「明日こそは、
 ホテルに缶詰めになれるかな。😍」

と期待するMIYOです。


巨大なハンバーガーを食べたあとは、
お風呂に入り、そのあとは、
お部屋でだらだら過ごしました。
(こういうのがいちばん好き。笑)


晩ごはんです。スーパーで買ったチキナー弁当(450円)、胡麻あじのたたき丼(398円)、ぶりの刺身(328円)。ワインは、チリの DANCING FLAME。

2L入りの「すらっとお茶」も、スーパーで買いました(118円)。夏に旅行するときは、お茶を水筒に入れ、ホテルでもらった氷も入れて、毎日持ち歩きます。暑い中、冷たいお茶はなによりおいしくて、いつも助かってます。


ひとつだけ、うれしかったこと。
本当は、一日だけ遠出するつもりで、
事前にレンタカーを予約してありました。
でも、この台風の中、
遠出はムリのようなので、断念。
夫がレンタカー会社に、
キャンセルの電話をしました。


前日のキャンセルなので、
違約金を覚悟していましたが、
しかたありません。
ところが。


「台風が理由でキャンセルされる場合、
 キャンセル料はいただきません。」


…と言われました。
びっくりです。
OTSレンタカーさん、
どうもありがとうございました。^^


窓の外では、雨が激しく降っていました。
いよいよ、台風がひどくなってきたようです。
明日はどうなるのかな、と思いますが、
お天気のことなんて、
明日になってみないとわからないし、
なりゆきまかせです。^^


お腹もいっぱいになったので、
とりあえず今日は寝ます。
おやすみなさい。^^


(つづく)


(おまけのお話)


ゆいレール・安里駅を出て、
ホテルに向かって歩く途中で、
山羊料理のお店を見つけました。


「山羊料理二十番」。ここは、山羊料理の有名店だそうです。

その隣りの、「山羊料理美咲」。

そっか~。沖縄では、山羊を食べるんですね~。😮(以下3枚、画像をお借りしました)


【沖縄の山羊料理】
ヤギは沖縄では「ヒージャー」「ピージャー」「ピンダ」などと呼ばれ、貴重なタンパク源として重宝されてきました。
肉用ヤギは、15世紀以降に中国や朝鮮から渡ってきたのではないかといわれています。沖縄では、古くから、「クスイムン」ともいわれ、疲労回復薬として食されてきました。産後の体力回復や、冷え性の改善、喘息や打撲にも効くといわれています。現代では、沖縄の伝統料理として食されています。

どんな料理なのかな、と思って調べてみました。
左:ヤギ料理の代表格「ヤギ汁」
右:食感が人気の「ヤギ刺し」


【ヤギ汁】
昔から、お祝いごとの時に食べるハレの料理。「おめでたいことがあるとヤギ汁を振る舞う」という風習がありました。現在でも、家を新築するときなどにヤギ汁を大工さんに振る舞う習慣が残っていて、ヤギ汁のケータリングが頼めます。


【ヤギ刺し】
ヤギの生肉の刺身です。新鮮なヤギ肉を刺身にして、ショウガやニンニクをたくさん入れたしょうゆにつけて食べます。ヤギ汁と比べると獣臭は控えめで、コリコリとした食感がクセになります。初めてヤギを食べるなら、ヤギ刺しがおすすめだそうです。


そういえば私も、
ヤギを食べたことがあったなあ、
と、思い出しました。


5年前に家族ででかけたベトナム。ニンビン省チャンアンで、山羊料理をいただきました。(2017年12月26日)

真ん中にあるのが、ヤギのスープです。沖縄の「ヤギ汁」と似ているような…。^^

そのときの日記です。

3年前、ベトナムで働いていたときに、ニンビン省ホアルーで食べた、ヤギ肉のグリル。(2019年9月25日)

定年でもベトナム。ハノイで始める、お仕事日記 67 - ホアルー&チャンアン日帰りツアー③ ヤギ肉料理のランチ(2019年9月25日/25日め) - MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。


ベトナムで山羊料理を食べたことを、
すっかり忘れていました。
でも、ムラゴンで検索したら、
すぐにでてきました。


やっぱり、書き残しておくものですね。^^
ブログに書いておくのって大事だなあ、
って、いつも思います。

台風でも沖縄。台風11号と共に、宮古島と沖縄本島を楽しむ9日間 23 - DiDiとスーパーりうぼう(2022年9月1日/7日め)

2022年9月1日 浦添前田駅まで、タクシーで戻りました。(沖縄県浦添市)


9月1日(木)


浦添グスク・ようどれ館で、
実寸大の王陵の中に入ってみるという、
貴重な体験をしました。


受付で、係の方にお礼を言って、
資料館の外に出ると、雨が降っていました。
それもかなり。


台風が近づいているというのに、
こうして旅行を続けている私たち。(←アホ)
朝からずっと、少し強めの風に吹かれながら、
浦添城を歩き続けていたのですが、
とうとう、雨が降り出しました。
…って言うか、よくぞここまで、
お天気がもってくれた、と思います。^^


資料館の前に置かれている、大きな石。説明がついていなかったのですが、おそらく、かつての浦添城に使われていた石だと思います。


上の写真ではよくわからないのですが、
雨はかなり降っていました。
ここから浦添前田駅まで、
歩いて20分くらいだと思うのですが、
この雨の中を歩くのはちょっとキビシイ。
…ということで、
タクシーを呼ぶことにしました。


昨日も利用したタクシー配車アプリ、
DiDiを開きました。
自分がいる場所は、
アプリがわかってくれているので、
あえて教える必要はありません。
「どこへ行きますか?」と訊かれるので、
「浦添前田駅」と入れて、
「依頼」をタップしたら、わずか5秒で、
タクシーがこちらに向かって走り出しました。
たった5秒。🤣🤣


MIYOのスマホの画面で、
タクシーの画像がこちらに近づいてくるのを、
夫とふたりで確認。


黄色い車が、200m手前まで来ています。それがだんだん近づいてくるのまでわかるので、楽しいです。笑 車のナンバーや運転手さんの名前まで表示されていて、この画面から、運転手さんと電話で会話することも可能です。


浦添グスク・ようどれ館の玄関で待っていると、
黄色いタクシーが、
ほんとうにやってきました。笑
DiDiを利用するのはこれで3回めですが、
余りの便利さに、いつも感動します。


あっという間に、浦添前田駅に到着しました。


タクシー料金は、
ペイペイで自動的に支払われるので、
車内での支払いはありません。
目的地に着いたら、
お礼を言って降りるだけです。


ところが。
このあと、メールで送られてきた
領収書を見て、驚きました。



タクシー料金 560円
クーポン割引 560円
合計金額    0円


つまり、このときのタクシー料金は、
タダだったのです。


ずぶ濡れになって20分歩くはずだったところを、
資料館まで迎えに来てもらっただけでも
ありがたかったというのに、
なんと、タダですよ、タダ。😂😂


DiDiに感謝です~~。笑

浦添前田駅でタクシーを降りたら、雨はやんでいました。

再び、ゆいレールに乗って帰ります。

夫は乗り物大好き。遠足の子どもみたいな顔してますね。🤣

ゆいレールの窓から街をながめているうちに、安里駅に到着。

ホテルに戻ろうとしたら、巨大なスーパーがあるのを発見。スーパーを見ると入らないではいられない、MIYO。ここで、晩ごはんを買って帰ることにしました。笑

シークワーサーが山盛りになっていました。東京ではちょっと見られない光景。笑

MIYOが好きな、グルクン(沖縄の県魚)の南蛮あんかけがありました。328円!安い!

すいません、これがグルクンです。すごい色ですね。でも食べたらオイシイので、安心してください。笑(画像をお借りしました)

この翌日に行った第一公設市場でも、グルクンを売っていました。右端で、トレーに入れられて小さくなってるのがグルクンです。ちなみに、中央の青くて態度がデカそうなのは、イラブチャー。これも、食べたらおいしいんですよ。🤣🤣

つづいて、てびちの煮付け 2個入り(418円)。豚足です。

お弁当売り場も、沖縄料理が豪華絢爛。ゴーヤーチャンプルー弁当(468円)、ジューシー弁当(488円)、チキナー弁当(450円)


み「チキナーってなに?」
夫「チキンのなにかじゃない?」
…という、アホな会話があったのですが、
この少しあとに、「ちむどんどん」で、
チキナーが出てきました。
「からし菜(シマナー)の塩漬け」
だそうです。^^


これは中味汁(298円)

お菓子コーナーで見つけた、タンナウチャヌク(432円)


タンナウチャヌクってなに?
…と思って調べたら、
「ウガンブトゥチでヒヌカンに供えるお菓子で、
 タンナファクルーでできたウチャヌク」
だそうです。
さっぱりわかりません。😂😂
ひとつひとつの言葉を調べてみました。


【タンナウチャヌク】
沖縄では「ウガンブトゥチ」という行事が行われます。1年間、家を守ってくれていたヌカン(火之神)が天に戻る日であり、神様に手を合わせ、丁重に送り出す行事です。この行事でヒヌカンに対してお供えするお菓子が、ウチャヌクです。中でも、タンナファクルーでできたウチャヌクを、「タンナウチャヌク」と言います。

タンナファクルーは、明治20年、首里真和志町で生まれました。黒糖、 小麦粉、卵で作った素朴な焼き菓子です。当時は、大変高価な宮廷菓子、光餅(クンペン)の代用品として庶民に親しまれました。今では、沖縄の伝統的な焼き菓子として知られています。


ふぅ…。
沖縄は言葉も違うし、調べても調べても、
わからない言葉だらけ。爆
でも、ひとつひとつを調べるのは、
おもしろくて楽しいです。^^


こんなのもありましたよ。塩もずくクッキー(600円)。三線を弾くおばあの絵がすごい~。笑

ドリンクコーナーで見つけた、沖縄伊藤園のかふう。進貢船の絵を見て、夫とうれしがりました。笑 他のお茶はどれもたくさんあるのに、かふうだけが残数わずか。やはり皆さん、地元のお茶を応援しているのでしょうか。

かふうは、この日の朝、ゆいレールの中の広告で見たお茶です。
台風でも沖縄。台風11号と共に、宮古島と沖縄本島を楽しむ9日間 17 - 台風なら浦添城①(石畳道、浦添城の前の碑)(2022年9月1日/7日め) - MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。


ここまで、お気楽に買い物をしていたのですが、牛乳売り場がこんなことになっていて、我に帰りました。台風のため、牛乳が入荷しないのだそうです。


お買い物はこのへんできりあげて、
再び雨が降り出す前に、
ホテルに戻ることにしました。


最後はコレです。スーパーの駐車場の片隅に、神様がいました。なにかタイみたいだな、と思いました。右は、バンコクの神様(画像をお借りしました)。タイでは、スーパーだろうがホテルだろうが、こういう神様を置くのがあたりまえですよね。手を合わせる気持ちは、どちらも同じ。^^


スーパーでたくさんお買い物しました。
大きな袋を提げて、ホテルに戻ります。


(つづく)