MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。

超未熟児で生まれた後遺症で、全盲難聴(盲ろう)となったのんたん、双子の妹あみちゃんと共に楽しく生きる家族のお話です。
子どもたちは24歳になり、毎日元気に楽しく暮らしています。
卵巣ガンになって思ったことも、少しずつ書き始めました。
ベトナム日記は、
http://limings.muragon.com/tag/?q=2019%E5%B9%B49%E6%9C%88-10%E6%9C%88%E3%80%80%E3%83%99%E3%83%88%E3%83%8A%E3%83%A0&p=4 
をご覧ください。
ベトナム家族旅行:
https://limings.muragon.com/tag/?q=2017%E5%B9%B412%E6%9C%88%E3%80%80%E3%83%99%E3%83%88%E3%83%8A%E3%83%A0
小学生だったころの子どもたちの育児日記は、こちらです。
http://limings.sweet.coocan.jp/

埃まみれのビルマ。バックパッカーの10日間 12 - タビニュ寺院とゴドーパリィン寺院。そしてチリピサヤホテルへ。(1987年5月4日/4日め)

1987年5月4日 タビニュ寺院の最上層で。現在は、ここに上がることはできないそうです。(ビルマ・パガン)


1987年5月4日(日)- 4日め


ここまで、
 タラバー門
 アーナンダ寺院
 マヌーハ寺院
 シュエサンドー・パゴダ
 ダマヤンジー寺院
と見てきました。


このときに、
「あるものは『寺院』で、
 あるものは『パゴダ』って呼ぶよね。
 どう違うの?」
と夫に訊いたのですが、夫の答えは、
「わからん。」
でした。


パゴダとは「仏塔」という意味なので、
「寺院」とは違うのかもしれません。
でも、ぱっと見て、
「これはPagodaなのか? Templeなのか?」
と訊かれたら、
私もいまだに、よくわかりません。😅
まあ、とりあえずこのブログでは、
「ネット上で、一般にこう呼ばれている」
という名で、標記しています。


訪れたい寺院(またはパゴダ)については、
はじめに夫がモンモンさんに、
名前を全部伝えました。
でもどういう順番で周るかについては、
マンダレーのときと同じで、パガンでも、
モンモンさんにおまかせしていました。


この日の最後に、
モンモンさんが連れて行ってくれたのは、
タビニュ寺院でした。
私たちが訪れた時は「タッピンニュ寺院」
と呼んでいたので、
ほんとうはそう呼びたいのですが、
現在のネット上の表記は、
「タビニュ寺院」となっています。
ビルマでは、PとBの区別がつきにくいようです。
パガンも、現在はバガンと呼ぶことが多いです。


タビニュ寺院です。

シュエサンドー・パゴダの上でアホなことをやってるMIYOの、はるか向こうに、タビニュ寺院が写っています。

同じアングルから撮った、現在のタビニュ寺院です。シカラの尖塔部分がどれも金色に塗られていて、凄みを増していますね。^^


【タビニュ寺院(Thatbyinnyu Temple)】
パガンにおいて、最も早い時期に建立された二層構造の大型寺院の一つで、旧王城の城壁内に、他のモニュメントを見下ろすかのようにそびえ立っています。年代記には、12世紀半ば頃にアラウンスィードゥー王が建立したと記述されており、1140年創建と推定
されています。タビニュとは、仏陀の「無限の知恵」という意味です。全高は約60メートルと、バガンで一番の高さを誇り、広大な平原のどこからでも視認することができます。
寺院は東向きに造られています。東西南北の四面に入口部が設けられていますが、東側の入口部分だけが、寺院から突出しています。
仏像は上層に安置されています。中央階段から上層に上がることができ、上層のテラスには、各隅に小型の仏塔が設けられています。美しい装飾が現在も豊富に残されているのですが、現在は、保全の観点から、上層テラスへの参観者の立ち入りは禁止されています。


この、パガンで最も高いとされている、
タビニュ寺院。
ネットで調べてみて驚いたのですが、
現在は、1階部分しか、
入ることができないのだそうです。


私たちが訪れた時は、
自由に上層部まで上がっていけたのですが。
ほんとうに、旅というのは、
「行けるときに行かなければ」
という思いです。


ピンクの花ごしに見た、タビニュ寺院。夫はやたら、花を撮りたがります。笑

とりあえず、せっせと登りました。

タビニュ寺院の最上層です。MIYOの後ろに見えているのは、アーナンダ寺院。

そしてテラスに立つと…、

はるか地平線まで広がる平原に、どこまでも続く、無数のパゴダたち。

手前に見えるのはレンガのパゴダ群。その向こうには、白いパゴダが点在しています。

平原を見晴るかす夫の後ろにあるのは…、

イラワジ川でした。

雲が多くて残念でしたが、ほんの一瞬、太陽が顔を見せてくれて…、

すぐに見えなくなりました。わあ…、イラワジ川が、オレンジに染まっています。^^


現在は、エーヤワディー川と言うようですが、
この当時は、「イラワジ川」でした。
シュエサンドー・パゴダからは、
ほんの少ししか見えませんでしたが、
このタビニュ寺院の最上層からは、
イラワジ川を
しっかりと眺めることができました。^^


シュエサンドー・パゴダからの
景色に感動しましたが、
タビニュ寺院からの景色もすばらしい。^^
あれから37年たちましたが、
このときに感じた思いはずっと心に残り、
今も、消えることがありません。


今年1月。
アンコールワットの王のバルコニーから
下界を眺めたとき、
胸をよぎったのは、この日のパガンでのこと。
そして、MIYOの隣りで、夫もまた同じように、
この日のことを思い出していたようです。


アンコールワット・王のバルコニーから眺めた景色です。
このときの日記です。
ベトナム・カンボジアを歩いた14日間 46 - アンコールワット⑲ 第三回廊(王のバルコニー)(2024年1月17日/6日め)


これで、この日の寺院めぐりは終わりました。
このあと、ゴドーパリィン寺院に寄りますが、
この寺院は写真を撮っただけで、
中には入っていません。


ゴドーパリィン寺院です。


【ゴドーパリィン寺院(Gawdawpalin Temple)】
バカンで2番目に高くそびえ立つ寺院です。1183年にスラマニ寺院を建てたナラパティシートゥ王が、1174〜1211年にかけて建てた寺院です。建設途中にナラパティシートゥ王が亡くなりましたが、息子のナンダウンミヤー(1211~1234年)が王位を継ぎ、建設を続けました。美しい塔の高さは55mに達し、バガン遺跡を代表する寺院のひとつです。


イラワジ川のほとりにあるゴドーパリィン寺院は、タビニュ寺院の上からもきれいに見えました。

現在のゴドーパリィン寺院です。(画像をお借りしました)


この日のお宿をまだ決めていなかったので、
モンモンさんに、
「どこか知っているホテルに
 連れて行ってください。」
とお願いしてありました。
そのホテルまで行く途中に通ったのが、
このゴドーパリィン寺院でした。


「中に入りたいですか?」
とモンモンさんに訊かれました。
今思うと、中に入ればよかったのですが、
このときは、もう疲れきっていて、
そんな元気がありませんでした。😅


今と違って、アゴダなどはありません。笑
あらかじめネットで予約を入れておくとか、
ありえない時代だったので、
モンモンさんに連れて行ってもらうことで、
どうにかホテルに泊まることができました。


このときに泊まったホテルの名前は、
「チリピサヤホテル」でした。
ほとんど観光化されていない頃だったので、
当時、このあたりでは、
最も高級な部類のホテルだったと思います。


ホテルの名前だけは憶えていたのですが、
残念ながら、
ホテルの写真を全く撮っていません。
ネットで探しても、出てきません。


37年も前のことだから、
もうそんなホテルはないんだろうな、
…と思ったら、一件だけ、
「Thiripyitsaya」というワードで検索できました。
2018年に、チェコ人の旅行者が宿泊し、
インスタにあげていました。


そうそう。泊まったのは、こんなコテージでした。^^(以下4枚、画像をお借りしました)

当時のままです。目の前がイラワジ川。コテージのまわりは芝生で、コテージまでは、この写真のとおりに、細い通路がめぐらされていました。

部屋の広さもこんな感じでした。ベッドに天蓋とかはなく、インテリアはもっと素朴でしたが。

このホテル、現在は、Thiripyitsaya Sanctuary Resort Bagan と言い、こんな豪華なホテルになっています。


イラワジ川のほとりに位置する、
Thiripyitsaya Sanctuary Resort Bagan。
1996年に、日本の投資家によるプロジェクトで
こんなすごいホテルになったそうです。😮


ちなみに、アゴダで調べてみました。


一泊朝食付きで、定価は30276円。
ですが、アゴダセールで56%引きになり、
13373円(ふたり分)。


これなら、私たちでも泊まれそうです。^^
(また行くのか?🤣)


今日一日のルートです。


タラバー門から入り、
 アーナンダ寺院
 ダマヤンジー寺院
 マヌーハ寺院
 シュエサンドー・パゴダ
 タビニュ寺院
 ゴドーパリィン寺院
と訪れ、
(当時の)チリピサヤホテルへ。


私たちがチェックインしたのを見届けて、
モンモンさんも、家路につきました。
ビルマに着いて3日め。
この夜、初めてお風呂に入り、
ベッドで眠ることができました。😂


(つづく)

埃まみれのビルマ。バックパッカーの10日間 11 - マヌーハ寺院、シュエサンドー・パゴダ、ダマヤンジー寺院(1987年5月4日/4日め)

1987年5月4日 シュエサンドー・パゴダの最上層で。(ビルマ・パガン)


1987年5月4日(日)- 4日め


モンモンさんの馬車に乗って、
パガン寺院群のパゴダを尋ねています。


アーナンダ寺院から次の寺院へ。遠くに、アーナンダ寺院が見えます。そして私たちの馬車とすれ違う、二頭立ての牛車。もうもうと舞い上がっている、すさまじい土埃をご覧ください。当時のビルマは、どこもだいたいこんな感じでした。😄


さて、アーナンダ寺院の次に行ったのは、
マヌーハ寺院でした。


現在のマヌーハ寺院です。(画像をお借りしました)


馬車がここに止まったとき、
「ん? なんかヘンな所に来たな。」
と思ったような気がします。
で、これが寺院だとは思えなかったみたいで、
夫は、写真も撮っていなかったし、
アルバムを調べても、
なんのメモも残っていませんでした。🤣
なので、今回、ブログを書くにあたって、
寺院名をつきとめるのに苦労しました。


【マヌーハ寺院(Manuha Temple)】
2階建てで長方形のマヌーハ寺院は、パガンでもっとも古い寺院のひとつです。マヌーハは、タトォン国の王(モン人)名前です。11世紀半ば、バガン王朝を建てたアノーヤター王(1044~1077年)に攻めこまれ、マヌーハ王自身も、捕虜としてこの地に連行されました。後にマヌーハは釈放されましたが、そのときに所有していたすべての財宝を投げ打ち、1067年にこの寺院を建てました。寺院内には3体の仏坐像と1体の涅槃仏が安置されていますが、どれも空間いっぱいに造られていて、非常に窮屈そうにしています。その姿は、囚われの身となった王の、憂いに満ちた心情を投影したものとされています。寺院の随所に、捕らわれの身の鬱屈した思いが表れている、因縁の寺院です。

*モン人とは、ビルマ南部・タイ中西部に散在していた南アジア語系の先住民で、ドヴァーラヴァティーを建国したことで知られています。


この寺院で撮った唯一の写真。窮屈そうに横たわる涅槃仏です。


この涅槃仏が置かれているところ、
ほんとうにすごく狭くて、
人ひとりがやっと通れるくらい。
「どれくらい狭いかがわかりやすいように」
と、夫がわざと、MIYOを立たせました。


このときのMIYOの顔ですが。
2日前から顔を洗っていないので、
前日のタナッカーが、まだ残っています。😅
せっかく描いてもらったので、
もったいなくて、洗いたくなかった、
ということもあったのですが。🤣


マヌーハ寺院で撮った写真は、これ一枚。
この写真だけで寺院名をつきとめた私は、
エライと思う。
(誰も言ってくれないので、自画自賛。)


現在の写真。涅槃仏は、全身、きれいに色を塗られています。お顔を美しく化粧され、真っ赤な口紅。どっちがビルマらしいのかと言われたら、どっちもなんでしょうね…。^^(画像をお借りしました)


続いて向かったのは、
シュエサンドー・パゴダでした。
モンモンさんがここに向かったのには、
理由がありました。
そろそろ夕暮れ時で、その時間に、
シュエサンドー・パゴダからの眺めが
いちばん美しく見えるからなのです。


そんなこと、私たちは全然知りませんでしたが、
寺院を訪れる順番を、モンモンさんは、
ちゃんとアレンジしてくれていました。^^


馬車の中から撮ったシュエサンドー・パゴダです。大きいです。

現在の写真です。37年前と同じ姿ですね。^^(画像をお借りしました)


【シュエサンドー・パゴダ(Shwesandaw Pagoda/ရွှေဆံတော် ဘုရား)】
1057年、アノーヤター王によって建立された、パガンでもっとも高いパゴダです。5層のテラスが設けられ、その上に「ティ(hti)」というシカラ(ストゥーパ)があります。かつては、ジャータカ(Jataka)という物語の場面を描いたテラコッタのタイルが置かれていました。塔内には、タトン(Thaton)国から入手したゴータマ・ブッダの聖髪が安置されています。
パゴダの階段から上に登ることができ、最上層からは、パガンの寺院群が一望できます。眺めがすばらしく、朝日、夕日を見るのに最適な場所です。


…ってことで、私たちも登りました。すごく急な階段です。

最上層まで、あともう少し。シカラ(sikhara)があんなに近くに見えます。

到着です。ここから、パガンの寺院群が一望できます。MIYOの隣りに見えているのは、ダマヤンジー寺院。この寺院には、前まで行ったのですが、写真を撮っていませんでした。

現在のダマヤンジー寺院です。37年間で木がずいぶん生い茂っていて、その間から、ニョキニョキと、たくさんのパゴダが顔を出しています。(画像をお借りしました)

この寺院は、未完成のままで残されています。(画像をお借りしました)


【ダマヤンジー寺院(Dhammayan Gyi Temple)】
基壇一辺の長さが約78メートル。ピラミッドのような均整のとれたフォルムが美しい、バガンの中で最大規模の寺院です。1170年、「もっとも変わった姿で、もっとも精密な細工を施した寺院を」と望んだ、パガン王朝第5代ナラトゥー王(Narathu)の命によって建設が始められました。しかしナラトゥー王は在位わずか4年目で何者かに暗殺されてしまい、工事は中断。その後、建造を再開する人物は現れず、寺院は今も未完のままで残っています。


シュエサンドー・パゴダの最上層から眺めた景色です。はるか向こうに、少しだけ、イラワジ川が見えました。

夫の後ろに、アーナンダ寺院も見えます。

このときのMIYO。ボロボロです。パンツも靴下も真っ黄色に染まってるし、お風呂には3日入ってなくて、髪はボサボサ。😂

でも、最高に楽しかった。

世界中、どこに行っても、必ずコレをやってる人。(アホ)

…と思ったら、あはは、MIYOもいっしょにやってました。(ドアホ) ちなみに、奥に見えているのは、パガンで最高の高さを誇る、タビニュ寺院。

どこまでも続くパゴダを、ただひたすら眺めていた日。このときのことを思うと、やはり泣けてきますね。


ちなみに、このシュエサンドー・パゴダですが。
眺めが素晴らしいということで、現在は、
たいへんな人気スポットとなっているようです。


ネットで調べてみると、
「観光客が押し寄せるところです。
 階段が急で怖いが、途中で立ち止まったり、
 ゆっくり登ったりしていると
 後ろに続く人たちのヒンシュクを買う。」
「日の出、日の入り前後は混雑するので、
 いい場所をキープするには、
 1時間前までに到着して
 場所を取っておいた方がいい。」
…などという記述が出てきます。


はあ… そうなんだ…。😮


私たちが訪れた当時、
パガンは無人に近い状態でした。
ご覧の通り、
どこに行っても誰もいなくて、
ふたりで好き勝手やってます。笑


じゃあ、ふたりいっしょの写真は、
どうやって撮ったのかというと。
まれに、地元の方がお参りに来られるのです。
そういうときに、
お願いして撮っていただきました。^^


私たちのほかには誰もいなかった、
あの頃のパガン。
アジア最大の仏教遺跡・パガンは、
ビルマ軍事政権下の経済制裁が続いたため、
長く、神秘のベールに包まれてきたのですが、
2019年、ようやく、
ユネスコの世界遺産に登録されました。


アンコールワット(カンボジア)や
プランバナン(インドネシア)を
はるかに凌ぐと言われる、その広大な寺院群を、
私たちふたりで、貸し切りですよ…。
今思うと、ディズニーランド貸し切りよりも、
ずっとずっと、
すごいことだったような気がします。(アホ)


(つづく)

埃まみれのビルマ。バックパッカーの10日間 10 - アーナンダ寺院(1987年5月4日/4日め)

1987年5月4日 アーナンダ寺院で、チンネ像と。(ビルマ・パガン)


1987年5月4日(日)- 4日め


パガンに到着し、
モンモンさんの馬車に乗って、
パガン寺院群に行きました。


今も残る城壁のタラバ門を抜けて、
2200ものパゴダが残る、
オールドパガン・エリアへ。
いちばん初めに訪れたのは、
「ビルマのウェストミンスター寺院」
と言われる、アーナンダ寺院でした。


当時、夫が買った絵葉書です。日本の自宅あてに送ったので、消印の赤いインクが少しついていますね。^^ 印刷が粗いのもさることながら、尖塔の金がはがれた部分を、すべて、赤い色で塗りつぶして修正してあるのがすごい。😮

現在のアーナンダ寺院。絵葉書で赤く塗りつぶされていたところは、一部、金色になっています。^^ こうして、おそらく今後も、金色の部分が増えていくんだろうなあ…。(画像をお借りしました)

アーナンダ寺院へと続く入口です。

ちなみにこれは、現在の同じ場所です。アーナンダ寺院の尖塔部分(シカラ)が、キンキラキンになっています。😄(画像をお借りしました)


私たちが訪れた時は、
国自体がほとんど鎖国状態だったこともあり、
ほかの観光客に会うこともありませんでした。
このときも、「パガン貸し切り状態」でした。


世界遺産として登録された現在は、
パガンにも多くの人が訪れるようになり、
アーナンダ寺院の前には、
たくさんのバスや車が停車しているそうです。
そして、この入口を入ると、内部はなんと、
りっぱなお土産物屋さんになっているとか。😅


入口を抜けると、アーナンダ寺院がド~ンと見えます。

現在と違い、尖塔部分は、地肌がむきだしになっています。これはこれで、素朴で美しかったのですが。

寺院が大きすぎて一枚に収まらず、夫、苦労しながら撮りまくっていました。笑

寺院を守っているのは狛犬ではなく、ビルマの神話上の動物、羽根のあるライオン・チンネ(またはチンゼ)だと思います。
チンネについては、こちらの日記で書きました。
埃まみれのビルマ。バックパッカーの10日間 6 - サインワインでおおさわぎ(1987年5月3日/3日め)


パガンの他の寺院と同じように、
アーナンダ寺院でも、
東西南北それぞれの方向に
全部で4体の仏像が安置されています。
が、アーナンダ寺院の仏像の特長は、
黄金に輝く立ち姿であること。
さらに、高さが9.5メートルもあり、
その大きさに圧倒されます。


4体の仏像には、それぞれ、
名前が付けられています。


夫が撮ったのは一枚だけで、南向きにあった、Kassapa。中に照明などはなく、バ*チョ*カメラなので、あまりきれいに撮れませんでした。4体のうちの2体(北向きと南向き)が建立時からのものと考えられていて、これはそのひとつです。

現在のKassapaです。最近は、きれいに撮れるようになりました。(画像をお借りしました)

左上から時計回りに、Kassapa(南向き)、Kakusandha(北向き)、Konagamana(東向き)、そしてGautama(西向き)。

内部には、美しい壁画が残されていました。

左:夫が買った絵葉書のアーナンダ寺院。
右:現在のアーナンダ寺院。
(画像をお借りしました)


あの当時はネットなどはなく、
ビルマの写真どころか、関連書籍すら、
なかなか入手できませんでした。
そんななか、ビルマで買った絵葉書は、
私たちが手にすることができた、
数少ない、「ビルマの写真」でした。
なので、たとえ印刷は悪くても、
夫は大切に、アルバムに貼っていました。^^


現在は、PCを開けば、
見たい写真がいくらでも出てきます。
こんな時代が来るとは…。😄
(なんたって、37年も前。爆)


アーナンダ寺院を出て、モンモンさんが待つ駐車場(駐馬車場)に戻ると…、

モンモンさん、お馬さんにお水を飲ませていました。🤣

馬車に乗って、アーナンダ寺院を出発。

アーナンダ寺院が、しだいに遠ざかって行きました。


この頃はまだ、海外であまり知られてなく、
世界遺産としても登録されていませんでしたが、
それでも、ここは一応、オールドパガン。
「パガン寺院群」という遺跡エリアです。
けれど、エリアの中には牛車がいるし、
家畜たちはのんびりと草を食んでいました。


世界遺産となった今でも、パガンでは、
こんな光景が続いているのかなあ…。😄


(つづく)

埃まみれのビルマ。バックパッカーの10日間 9 - メイッティーラを通過してパガンに到着。そしてアーナンダ寺院へ。(1987年5月4日/4日め)

1987年5月4日 アーナンダ寺院で。(ビルマ・パガン)


1987年5月4日(日)- 4日め


マンダレーから夜行バスに乗り、
パガンへと向かっています。



朝ごはんも終わり、再びバスで走っていると、
窓の外に、湖と町が見えました。


海のように見えますが、これは湖で、メイッティーラ湖と言います。


夫が、近くに座っていた人に尋ね、
「ここはメイッティーラだよ。」
と教えてもらいました。
それで写真を撮ったようです。


【メイッティーラ(Meiktila)】
ビルマ(現在のミャンマー)の中部にある都市で、メイッティーラ湖のほとりにあります。人口は、2014年時点で約30.9万人。古くから交通の要衝で、ヤンゴンとマンダレーを結ぶバスは、必ずこの町を通ります。


夫がこの街にこだわったのには、
理由があります。
ここで、1945年3月に、
日本軍とイギリス軍がイラワジ会戦を行い、
大激戦の末、イギリスが勝利しました。
一ヶ月におよぶ、メイッティーラ奪還戦で、
英連邦軍の戦死者は、約18000名
(内7500名は戦病者)。
日本軍の戦死者は、12913名でした。
さらにこの後の後退戦において、日本軍は、
敗戦までに15万人以上の戦死者を出しています。


かつての日本にとって、
ビルマとはそういう国であり、
その中でも、メイッティーラは、
多くの日本人が戦死した激戦地でした。


私たちがビルマに行ったのは、
37年も前のことです。
当時は、ビルマで日本軍が戦ったのを
見ていた人たちが、少なからずご存命で、
たまに日本人を見かけると、
「日本人ですか?
 メイッティーラを知っていますか?」
と、話しかけてくることもありました。


忘れられないのは、パガンからタウンジーに移動する乗り合い自動車で出会った、ウー・タン・アイ(U Tun Aye)さん。メイッティーラに住んでいる方でした。(1987年5月6日)


ウーさんは、私たちを見ると、
「ニッポンジンデスカ?」
と、日本語で話しかけてきました。


第二次大戦のときに、
日本はビルマで小学校を作り、
ビルマの子どもたちに、
日本語で同化教育を実施しました。
その頃、小学校に通った人たちの中には、
それから40年以上たっても、
日本語を覚えている人がいました。
そして私たちを見ると、
日本語で話しかけてくれました。
ウーさんも、そのひとりでした。


ウーさんは、忘れかけていた日本語を
一生懸命思い出しては話し続け、
「ミヨ、トウカイノ ソラ アケテー♪」
と、愛国行進曲まで歌ってくれました。
おそらく、小学校で習ったのだと思います。


「ニッポンジン、ヘイタイサン、
 タクサン イタ!」
…と、彼の話は続きました。


「タナカ!」


「タナカ」という日本兵がいたようです。
そして、次に彼が言ったのは、


「シンダ!」


このあとも、
「ヤマモト! シンダ!」
「スズキ! シンダ!」
「ヤスダ! シンダ!」
と…。
自分が知っていた日本兵の名前を、
懸命に思い出しながら、
ウーさんは話し続けました。


日本がビルマで、子どもたちに対して、
愛国教育を日本語でやってきたこと。
イラワジ会戦以後だけでも、
15万人もの日本兵が亡くなっていること。
そんな事実が目の前に迫って来て、
私たちは、返すことばもありませんでした。
ビルマという国を戦場にしてしまったことで、
ビルマの人々に申し訳ない気持ちもありました。


けれどウーさんが、日本を憎むことなく、
自分が習った日本語をなつかしく思い出しながら
私たちと話そうとしてくれていることは、
せめてもの救いでした。


あのころ、ビルマを旅するということは、
第二次大戦時の日本がやってきたことと、
自分なりに対峙し、考えてみる…。
そんなことでもあったような気がします。


いろんな思いを抱えながらも、バスは走り続けました。

マンダレーから走り続けること10時間。ようやくパガンに到着しました。


ここで、MIYOも夫も、足を見て大笑い。
ズボンも靴も、靴下も、
真っ黄色に染まっていました。


昨夜、バスに乗ったときには、
真っ暗でわからなかったのですが、
運転席の隣りに、麻袋があり、
「その袋の中に、
 ターメリックのようなものがあった。」
と夫は言いました。


袋の口が開いていたようで、
バスの振動と共に、
中からその粉が舞い続けていたようです。
一番前の補助席に座っていた私たちの足は、
一晩中、その粉にさらされていました。😅


このときは、「単なる粉」と思っていました。
叩いて払えば落ちるし、
日本に帰ってから洗濯すればいいだけ。
…と思っていました。


それがね。
帰国してから、洗っても洗っても、
落ちないんですよ。🤣🤣


このパンツ、動きやすくて、
わりと気に入っていたのですが、
黄色い埃まみれになったのを
日本に持ち帰り、洗いまくったあげく、
結局、オシャカになりました…。😔


到着するなり、パゴダがいくつも見えました。と言っても、ここで夫が撮りたかったのは、MIYOでもパゴダでもなく、ピンクの花が満開だった樹。🤣


さて。
ここから、新たな人物の登場となります。
彼もまた、ビルマで会った、
忘れられない人でした。


それは、モンモンさん。


パガンでは、2泊する予定でした。
(ここで初めて、ホテルに泊まります。笑)
バスを降り、
「これからどうしようか。」
…と、ふたりで相談していたとき、
「オレの馬車で、パガン観光しないか?」
と話しかけてきたのが、モンモンさんでした。


馬車で観光するとか、思ってもみませんでした。
でも、広大なパガンの遺跡群を周るのに、
この頃は自動車なんてほとんどなかったので、
よく考えると、馬車というのは、
当時、唯一の移動手段でした。


モンモンさんといっしょに。この馬車に乗って、2日間、パガンを観光しました。


この写真をよく見ると、MIYOの後ろに、
のんびりと移動している牛車が写っています。
ほんと、あの頃のパガンには、
自動車なんてなくて、
すれ違うと言ったら、馬車か牛車でした。笑


モンモンさんの馬車の上から、他の馬車を撮りました。誰かの足が写りこんでいますが。🤣

馬車に乗って、しゅっぱあ~つ!😄

道路の両側に、パゴダがガンガン見えてきました。


【パガン寺院群】
パガン(またはバガン)は、ビルマ(現在のミャンマー)の中央部にあります。世界三大仏教遺跡のひとつであるパガンは、11〜13世紀にパガン朝の都があったところです。パガン王朝は、エーヤワディー川の輸送を支配し、水運の独占によって広大な地域を治めた国家でした。ここには、2200基以上もの仏塔(パゴダ)や寺院が残っていて、カンボジアのアンコールワットやインドネシアのボロブドゥールをはるかに凌ぐ、アジア最大級の仏教遺跡と言われています。軍事政権が続いて、訪れることが難しい国だったこともあり、あまり知られていませんでしたが、ようやく2019年に、世界遺産に登録されました。
上座仏教を国教に指定したのは、パガン朝の初代の王・アノーヤター(1044〜1077年)でした。パガン朝は。13世紀に最盛期を迎え、仏塔も多く作られるにようになります。これだけ仏塔が造られたのは、バガン朝が仏教によって国をコントロールからと推測されています。
50㎢を越える広大な遺跡群の中でも、多くの仏塔があるのは、エーヤワディー川の東側。遺跡はおもに8つの遺産で構成されていて、仏塔、寺院、僧院、巡礼者用の施設、フレスコ画、彫刻、遺跡など、幅広いのが特徴です。13世紀にパガン朝は衰退し、滅んでしまいますが、この地は上座仏教の聖地として、今でも人々の祈りの場となっています。パガン寺院群は、現在も人々から篤い信仰を集めている、「生きた遺跡」と言えます。


2200以上もの仏塔(パゴダ)や寺院が今も残る、パガン寺院群です。(画像をお借りしました)

遠くの方に見えているのは、ティーローミィンロー寺院(Htilominlo Pahto)のようです。

馬車はどんどん進み、タラバ門(Tharabha Gate)から、中へ入りました。


【タラバ門(Tharabha Gate)】
9世紀に、ピンビャー(Pyinbya)王が、城を守るために築いた城壁の門です。タラバ門はパガン朝時代のものではなく、それよりも200年ほど前に造られたものです。左右の門には精霊(ナッツ神)が祀られており、この門をくぐると、いよいよ、オールドパガンに入ることになります。


アーナンダ寺院の正門前に着きました。いきなり、パガンの大御所に入ります。^^


【アーナンダ寺院(Ananda Temple)】
バガン遺跡の中で最も有名な寺院のひとつです。パガン王朝に最盛期をもたらした王といわれている第3代チャンシッター(Kyanzittha)王が、1105年に建立しました。都城外の東側に位置するアーナンダ寺院は、一辺が53メートルの大きな正方形の寺院で、高さは51メートル。「アーナンダ」という名前は、仏陀の弟子のひとりに由来しています。
アーナンダ寺院は、ビルマとインドの建築様式を融合させたスタイルです。ギリシャの十字のレイアウトを取り入れ、エレガントな雰囲気も兼ね備えながら、完璧に計算された対称構造になっています。最も特徴的なのは、黄金に輝く尖塔部分を持つ「シカラ(sikhara)」で、北インドをルーツとしています。このシカラの側面には、仏像が安置されている5つの壁龕があります。さらにそのトップには傘型の尖塔装飾品である「ティ(hti)」が飾られています。


アーナンダ寺院で。(1987年5月4日)

そして現在のアーナンダ寺院。同じアングルの写真を探してみました。^^ やはりここでも、金色の部分が増えています。(画像をお借りしました)


アーナンダ寺院は、
「バガンで最も美しく、中心となる建造物」
とされています。
その美しい外観から、
「ビルマのウェストミンスター寺院」
とも称されているそうです。


アーナンダ寺院の写真は、
次回でもう少し掲載します。


(つづく)

埃まみれのビルマ。バックパッカーの10日間 8 - マンダレーからパガンへ。(1987年5月4日/4日め)

1987年5月4日 村の食堂で朝ごはん。(ビルマ・マンダレー)


1987年5月4日(日)- 4日め


夜11時発の夜行バスでマンダレーを出発し、
次に向かったのは、パガンでした。


ラングーン(現在のヤンゴン)から夜行列車でマンダレーまで行きましたが、その日の夜行バスに乗って、今度はパガンに移動しています。


ええっと…。
ビルマに着いて3日めになるわけですが、
昨日は夜行列車、今日は夜行バスってことで、
まだ一度もお風呂に入ってないですね…。😅
一応、毎日服は着替えているのですが、
まだ一度も、ベッドで寝ていません…。😅


日本を出るときから、
こんなことになるんじゃないかな、
と覚悟はしていたので、まあいいです。😅


さて。
グーグルマップによると、
マンダレーからパガンまでは、290キロ。


自動車で約5時間の道のりです。


ただしこれは、現在の話。
当時は、マンダレーからパガンまで、
10時間もかかりました。
現在よりも、道路はずっと素朴だったはす。
いったいどんな山道を走っていたのか。
舗装道路だったかどうかも、
よく覚えていません。😄


マンダレーを出発したあと、
私たちが乗ったバスは、
夜を徹して走り続けました。
そして夜が明けた頃、
ようやく、どこかの村に停車。
バスが停まった気配で、私も目が覚めました。


私たちが乗ったバスです。早朝だったので、村の中を托鉢のお坊さんが歩いています。

バスの下に荷物入れはなく、預けた荷物は屋根に載せていました。私たちのバックパックも、この中に入っています。笑 お盆に食べ物を載せて売り歩いている人が、何人も見えます。

この村では、トイレ休憩だったようです。

天秤棒で担ぎ売りをしている、食べ物屋さん。トレーに朝ごはんを載せて売る少女もいます。

バスに戻ると、窓越しに食べ物を売る女性や子どもたちが集まってきました。売っているのは、ゆで卵やナッツ、手作りのスナック類。

いい笑顔です。^^


ほどなく出発。
その後バスは、いくつもの村で停車しました。
そのたびに、降りる人がいて、
乗ってくる人もいます。
その流れの中で、私たちも少しずつ、
後ろの席へと詰めていきました。


その頃のバスの中です。後ろの方につめて、なんとか窓際の席に座れました。車内はぎゅうぎゅう詰めで、立っている人もたくさんいます。

次の村で再び休憩。牛車が見えました。家も、前の村はトタン屋根でしたが、この村は藁ぶき屋根。^^

左奥に停まっているのが、私たちのバス。そして右側をご覧ください。このバス、ボディが木でできてるんです。すごいっ。

小さな売店で食べ物を売る少女と。

みんな、どうしてこんなにおおらかな笑顔なのか。


この少女が店番をしている売店の
壁をご覧ください。
「網代」でできています。
日本にも、「杉柾矢羽根網代」がありますが、
現在では、歴史的建造物などで、
たまに見られるくらいになってしまいました。


けれど当時のビルマでは、
どこの家でも普通に見られる建築材でした。
工業製品がほとんどない状況の中、
人の手で作られる網代は、
入手しやすかったのだと思います。
風通しがいいので、暑い国には適していますが、
防音性は皆無です。🤣


前日お伺いしたココさんの家でも、ほとんどの壁が網代で造られていました。

これは、日本の建築で見られる、杉柾矢羽根網代です。


【杉柾矢羽根網代】
杉柾矢羽根網代とは、「網代」の代表的なもので、杉の突板を材料に使用し、矢羽根模様に編んだものです。主な用途は内装用建材で、天井や建具、壁面などに使用されます。
小さい木片を組み合せた物ではなく、長い材料を編み込んで作ります。杉材を薄く細い板状に切り、手作業で矢羽根模様に編みこんでいくという、手間のかかる建築材です。
矢羽根網代は、伝統的な連続文様である「矢羽根文様」を網代で表したものです。網代の中で最も代表的かつ人気のある編み模様で、 現在でも、数は少なくなりましたが、一般住宅や宿泊施設、店舗などに幅広く使用されています。杉材の真っすぐではっきりとした木目が、直線状に連なる矢羽根模様を描き、力強くもすっきりとした印象を与えます。


夕張鹿鳴館で見た、杉柾矢羽根網代の天井です。(2023年5月13日 北海道夕張市)
このときの日記です。
積丹から幌加内へ。新緑の美幸線をトロッコで駆けた、11日間の北海道 26 - 夕張鹿鳴館③(2023年5月13日/4日め)


さて、この村の食堂で、私たちも朝ごはんをいただきました。MIYOは、世界中どこに行っても、ほぼほぼ、ごはんとチキン。大好きなんです。😄


上の写真の右に置いてある素焼きの壺には、
お水が入っています。
内側から、水が少しずつ浸みだして、
それが蒸発するので、
気化熱により、中の水が冷やされる、
…という仕組みです。
当時のビルマでは、どこにでも置いてあり、
誰でも自由に、少しだけ冷たい水を
飲むことができました。


村の中を托鉢して歩く、見習い僧の子どもたち。

大好きな一枚。


山あいの小さな村は、
朝の穏やかな空気に満ちていました。


(つづく)