MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。

超未熟児で生まれた後遺症で、全盲難聴(盲ろう)となったのんたん、双子の妹あみちゃんと共に楽しく生きる家族のお話です。
子どもたちは24歳になり、毎日元気に楽しく暮らしています。
卵巣ガンになって思ったことも、少しずつ書き始めました。
ベトナム日記は、
http://limings.muragon.com/tag/?q=2019%E5%B9%B49%E6%9C%88-10%E6%9C%88%E3%80%80%E3%83%99%E3%83%88%E3%83%8A%E3%83%A0&p=4 
をご覧ください。
ベトナム家族旅行:
https://limings.muragon.com/tag/?q=2017%E5%B9%B412%E6%9C%88%E3%80%80%E3%83%99%E3%83%88%E3%83%8A%E3%83%A0
小学生だったころの子どもたちの育児日記は、こちらです。
http://limings.sweet.coocan.jp/

もうひとつの、スピリチュアル体験 – ひまわり施療院 ④

2017年11月3日 ウクレレ教室で。(全盲難聴・のんたん 22歳)



あみかの施療 - 1996年2月


  2月も末になって、とうとうあみかがT産院を退院し、我が家へと帰ってきた。
  なにも、そんな一番寒い時期に引き取らなくても、春まで待てばよかったのに、と思われるかもしれないが、私には、どうしてもあみかを引き取りたい事情があった。
  慢性肺疾患となったあみかは、呼吸がなかなか安定せず、医師からは、「退院後も在宅酸素を使う生活になるかも」と言われていた。それでも、なんとか自力呼吸ができるようになり、「在宅酸素を使わないですむぎりぎりの線」と言われながらも、経鼻カテーテルをつけることなく、身軽な体で帰宅することができた。
  やっと退院できたあみかだったが、からだの状態で言えば、のぞみよりもはるかに悪かった。
  医師からは、「育っていくなかで、自然に治っていくのを待つしかない。」と言われていたが、そういうあみかの状態は、「自然治癒力を高める」という田中先生の施療に、より向いている、と私は思っていた。のぞみの施療に20万円もかけたのだから、同じことをあみかにもしてやらないと不公平にも思えた。
  おそるおそる、田中先生に頼んでみると、希望者が殺到していたにも関わらず、「退院したら、すぐに連れてきなさい。」との返事をいただいた。
「本当は、もっともっと早く看てあげたかったんだけど、入院中じゃあ、しょうがなかったものね。」
と、先生は笑顔を見せてくれた。
  先生の配慮はそれだけではなかった。のぞみと同じように20回コースを、とお願いした私に、先生は、「費用は半額でいいから。」と言ってくださった。
「20万円は、大勢の人が押しかけてこないように、って考えた費用。私のことを信じて通ってくる人なら、その半額でいいのよ。」
という、先生ならではのことばに、私は頭を下げるしかなかった。
  こうして、あみかとのぞみの両方をひまわり施療院へと連れて行く日々が始まった。あみかの退院に合わせて、松山から私の母が応援に来てくれたのだが、その母がいっしょに施療院までついていくと、母までもが、無料で行われる家族施療の対象となった。
  私の母はたいへんな頭痛持ちで、もう二十年来、一日たりとも薬が手放せない状態だった。その母が、「田中先生の気を受けたとたん、頭痛がすうっとひいた。」と言ったときには、さすがに私も驚いた。結局、その日からずっと、私たちといっしょに暮らしている間、母が頭痛薬を飲むことはなかった。これもまた、不思議な体験だった。
  不思議なことはまだまだあった。そのころ、夫は例年どおり、花粉症で苦しんでいた。夫の花粉症はかなりひどく、鼻水がとまらなくなる。薬を飲むと、今度はぼお~っとして、仕事ができなくなるらしい。アレルギーがいっさいない私には理解できない世界だ。
  その年は、夫婦で相談し、せっかくこういうところに通ってるんだから試してみようか、と言うことになった。先生には失礼なことだが、私たちは冗談半分で、夫が花粉症で困っていることを相談してみた。
  その日、田中先生は、いつもよりほんの少しだけ長い時間、夫に気を送っていたように思う。ただそれだけだった。いつもと特別に違うなにかをしたわけではない。だが、その日、夫の鼻水はぴたりと止まってしまった。しだいに、私も夫も、田中先生の力を信じないわけにはいかなくなってきた。
  ただし、肝心のあみかはと言えば、毎回たいへんないやがりようだった。いつも穏やかな顔で施療を受けるのぞみとは大違いだった。慢性肺疾患のあみかは、先生が軽く背中や胸を撫でただけで嫌がって泣いた。
  先生に抱かれて大泣きしながらマッサージを続けるのだから、先生もたいへんだった。
「からだがずいぶんいたんでるから、本人もつらいのよ。からだもゆがんでるしね。」
と説明されたが、それもそうだろうと思った。生まれてすぐにNICUに運ばれ、8ヶ月以上もの間、つらい治療に堪えてきたのだ。これから、できるだけのことをしてやろう、やっとその時がきたのだ、と私は考えていた。


(つづく)

夢のような豪華フレンチを、無料で楽しむ - Elan MIYAMOTO(恵比寿)

2006年10月14日 運動会の日に。(全盲難聴・のんたん 11歳)



先日、ものすごいフレンチディナーを、無料で楽しんできました。
恵比寿にある、モダンフレンチの名店、Elan MIYAMOTO で、
おそらく、一人分が10000円くらいか?と思われます。
これが、ペアで楽しめて、タダなんです。
私たちだけでなく、誰でも、無料で楽しめるんです!
これを読んでおられる方にも、ぜひ体験していただきたくて、
その方法をご紹介いたします。


Elan MIYAMOTO


今日ご紹介するこのお店は、
フレンチの名店、「シェ松尾」で料理長を務めた、
宮本英也氏のお店です。


お店の入り口。恵比寿ガーデンプレイスからほど近い、住宅地の一角にあります。


この日は、ほぼ満席。カウンター席に通されました。
シックなテーブルセッティング。すぐ目の前で、宮本シェフの華麗なおしごとを見せていただけます。


ディナーコースには、グラスワインが付いていたのですが、
シェフの提案で、シャンパンに変更していただきました。


自家製のバターとパン。バターがすごくおいしいです。
パンも、種類の異なるものが次々と出てきます。


まずは、華麗なるメニューの数々をご覧下さい。


黒無花果と鴨のフォアグラ バルサミコ
ゼリー寄せの下にあるのが、フォアグラ。のっけから、手のこんだお料理です。


京かぶら 美白鶏 帆立貝柱 紫大根の、フラン(洋風茶碗蒸し)


歩荷の自然卵ポーチドエッグとフランス秋トリュフのサラダ
グラスカバーをかぶせ、トリュフの香りを閉じ込めてあります。


カバーを取ると、こんな感じ。


「こんなおおぶりのトリュフを使ったお料理、初めて見ました。」
と言うと、
「完全に、赤字です。(苦笑)」
とシェフ。


表面が霜降り模様に見えるものは、かなり質の高いトリュフであるのだと、
あとから、本で知りました…。


白印の白子 カラスミ イエローミディ 黄ビーツ
白子はフリッタになっていて、サクサクとした食感が楽しい。^^


魚料理 天然ひらめ ピスタチオ 小蕪 美~ナス
手前にあるのが、ナスのペースト。お魚といっしょにいただきます。すごく深い味です。


肉料理 青森バルバリー鴨 赤とピンクの野菜
鴨は脂っこいので、どちらかといえば、それほど好きではなかったのですが、
こんなにさっぱりと食べられる鴨料理は初めてでした。


赤玉 ジャスミン茶、パイのデザート


お砂糖を入れてないのに、ほんのりとした甘みがあるコーヒー


ここまでで、お腹いっぱい。
夫も、「もう食べられない。」と。
なのに、まだ出てきました。


お茶菓子 カヌレとチーズケーキ


デザートとお茶菓子の担当は、和野 円パティシエ。
一見、可憐なお嬢さん風ですが、
フランスのメゾンに勤務後、
グランファミーユシェ松尾成城でビブグルマンを取得し、
シェフパティシエールだった方。
(ちなみに、宮本シェフも、イケメンです。^^)


すごいですよね。
夢のようなひとときでした…。


さて。
これが、全部無料なのです。


どうして無料だったのか?
それは、ですね。
みなさん、よくご存じの、アレですよ。


ふるさと納税!


えっ?
と、思いますよね。
これ、佐賀県玄海町の、返礼品なんです。


40000円寄付したら、こんなことになっちゃいました。(笑)
ちなみに、25000円のペアチケットもあります。


まだ、ふるさと納税を使い残している方、
ぜひ、おすすめいたします。


この返礼品は、ルクサと地方自治体、そして都内の名店がコラボして、
最近スタートしたばかりです。
なので、以下のサイトからでないと、申し込めません。
のぞいてみてください。



我が家は、来週、もう一軒、行ってみる予定です。
こんなふるさと納税、大歓迎です。
来年もやってくれないかなあ、と夫婦で話しています。^^


みなさんも、ぜひ。
おすすめですよ…。^^

もうひとつの、スピリチュアル体験 – ひまわり施療院 ③

2017年11月3日 新しいヘッドフォンを買って、ご満悦。(全盲難聴・のんたん 22歳)



通い続けた冬 - 1996年1月~3月


  初めての施療の夜、夫は興味津々で私の話を聞いた。ばかにするかと思ったが、「世の中には理解できないような力だって存在するだろうし、あんたがやりたいと思うならやってみればいい。」というのが夫のスタンスだった。
  その次に指定されたのは休日だったので、夫もいっしょにでかけた。先生の「手かざし」にも、夫はこれといってなにも感じなかったそうだ。だが、のぞみの気持ち良さそうな顔を見ていると、それだけで、来てよかった、と私も夫も思っていた。
  数回の施療の後、のぞみの、第一回目の目の手術が始まった。施療が奏効するという保証はなかったが、私は、できるだけのことをしたいと思っていた。しないではいられなかった。だから、日本でも指折りと言われている高名な眼科医に直談判した。「目の手術で入院しているあいだも、外出という形で、のぞみをその施療院に連れて行きたい」という希望を伝え、かなえてもらった。
  こんなふうにして、のぞみの一回目の手術が終わってとりあえず退院するころ、田中先生の自宅で、「難病や障害に苦しむ子どもたちを癒すための施療院」として、「ひまわり施療院」が正式にオープンした。
  オープン初日に集まった子どもたちは、多岐にわたっていた。自閉症、ダウン症、喘息、発達遅滞、アトピー…。
  ひとりの子どもとその家族にかける時間は、2時間近くになる。先生ひとりで、ホスピスの仕事がない週末だけに看ることのできる子どもの数には、限界があった。
  私が見た紹介記事は、先生が初めて応じた取材だったそうで、本来、いっさい宣伝をしない主義の先生のところに申し込みに来るのは、紹介者だけであった。が、その紹介者も、すぐに数ヶ月から半年待ちの状態となった。
  それでも、どんなに忙しくても、先生は、のぞみにだけは特別目をかけてくれた。
  施療中、「ほんとうにかわいい子」と言って、のぞみを抱きしめることもたびたびだった。先生に用事があって、施療院がお休みになってしまうときでも、
「他の人には絶対ナイショよ。」
と、私たち家族だけをこっそりと自宅に招んで、施療してくださることがあった。
  あるとき、のぞみの施療中に、あらたな施療希望者から電話がかかってきた。先生は、「希望者がいっぱいなので、半年後でないと。」と言って電話を切った。そのあと、私の方に向かって目くばせし、こう言った。
「体当たりで来る人はトクよね。」
  私は吹き出した。それは、まさしく私のことだった。
  先生が、毎日どれくらいの希望者に応対し、どれほど忙しいかも知らず、私は夢中で手紙を書いた。その手紙が、先生の心に響いた。一生懸命だった私を、先生も体中で受けとめてくれたのだった。
  その後も、目の手術のために、のぞみの入院・手術はくりかえされた。のぞみをおくるみで包み、さらにそれを自分のからだで包むように抱きしめて、入院していたTH大学病院からひまわり施療院へと通い続けているうちに、季節は春になろうとしていた。


(つづく)

もうひとつの、スピリチュアル体験 – ひまわり施療院 ②

1997年夏
(全盲難聴・のんたんと、双子の妹・あみちゃん 2歳)



9月のブログで、「刷毛醤油海苔弁」をご紹介したのですが、


それを読んでくださった まろかんさん が、同じお店にいらしてくださいました!



リブログまでしてくださり、ありがとうございました。^^
情報を利用していただけて、うれしいです。
はげみになりました。ありがとうございます。
(ちなみに、まろかんさんが10月30日に紹介しておられた「銚子丸」は、
 我が家のいきつけでもあります。笑)



ふしぎな体験 - 1995年12月


  そのころ田中先生は、昼間、某ホスピスで末期ガンの患者を癒す仕事をしていた。夜、市川にある自宅に帰り着いてからでよければ、という先生の申し出に、私はとびついた。
  12月半ばのある夜、京成線の最寄り駅の改札口で、先生と待ち合わせた時間は9時だった。「ふつうの風邪が命とり」と言われていたのぞみを、寒い時期に、よくもまあ連れ出したもの、と我ながら思い出す。けれど、そのときの私は必死だった。おくるみでのぞみをすっぽりと包み、ママコートの内側にしっかりと抱いて、おそるおそる、家の外へと連れ出したことを、今でも鮮やかに思い出す。
  夫の帰宅は毎日11時ごろだったから、あてにはならなかった。当時、家には車もなかったので、私はたったひとりで電車とバスを乗り継いで、市川へとでかけていった。


  夜9時、約束通りに待ち合わせ場所に現れたのは、どこから見てもふつうのおばさん、といった風の女性だった。
  これからどうなるのだろう…?
  私は、期待と好奇心とでいっぱいだった。私たち親子のほかに、もう一組、小学生の男の子とその母親も来ていた。男の子は、自閉症だった。
  全員そろって、駅からほど近い、田中先生の自宅へと歩いた。そこが、「ひまわり施療院」としてスタートする予定になっている場所だった。
  田中先生の子どもたちはすでに独立してしまっていて、夫婦ふたりきりで住むにはあまりにも広すぎる自宅の2階部分は、やがて、5部屋あるすべてが施療院のために使われるようになるのだが、その夜はその中の2部屋に通され、施療が始まった。
  「気功」とは言っても、田中先生の気功は、中国のそれではない。彼女の血筋に伝わる特別な力だということだった。自分の祖父が生前持っていたその力を、自分も同じように授かっている、と彼女が気づいたのは、結婚し、出産した後だったそうだが、それから長い年月をかけて、無料で数多くの人に施療することで勉強を重ね、現在へとたどりついたとのことだった。
  施療のために用意されているベッドの上で、先生はのぞみを抱くと、しばらくの間、じっとようすをうかがっているようだった。それから、頭、顔、両手、両足…などと、からだじゅうを順にマッサージしていった。のぞみは、まったくいやがるそぶりも見せず、実に気持ち良さそうにされるがままになっていた。
「からだがまがってるわね。これを治さないと、いつまでも病気ばかりが続くのよ。」
  先生の施療の主たる目的は、「自然治癒力を高める」ということだった。自然治癒力を高めれば、その結果として様々な病気も良くなっていく、という考えは、私にもわかりやすく、納得できるものだった。
  のぞみともうひとりの男の子のマッサージは、休憩を入れながら、かわるがわる続けられた。いっぺんにするよりも、こうして休みをいれながら続けるのがいいのだそうだ。
  先生独自のやりかたで、からだじゅうのマッサージが終わると、先生は右手を斜め上に伸ばし、手のひらをのぞみにかざすようにした。「手かざし」なんて、なにかの宗教みたいだ、と、私は少し不安になった。
  子どもたちの施療が終わると、今度は親の番だった。
  子どもだけが元気になっても、家族が元気にならなければ、病気のたねは残っている。だから、子どもといっしょに家族全員の施療も行う、というのが、先生のやり方だ。ただし、費用がかかるのは子ども本人だけ。他の家族は、全員、無料でやってもらえるという。
  先生に言われるままに、私はイスに腰かけた。先生は、頭部を中心に、私の肩や腕をマッサージした。つまり、のぞみがされていることを、私も少しだけ体験できたわけだ。そして、ひととおりのマッサージが終わったあと、
「目をとじて」
と、私の後方から話しかけた。
  言われるままに目を閉じた私には、後ろで先生が何をしているのかはわからなかった。だが、次の瞬間、驚くことが起こった。
  床についていた私の足の裏から、びりびりと痺れるような感じがしてきたのだ。そこから両膝へ、そして太ももへ、と、なにか暖かいものがさあ~っとあがってくるのがわかった。なんだろう、ととまどっているうちに、施療は終わった。
  その後、施療を繰り返すうちにわかったのだが、先生が私に向かって手をかざし、気を送り込んだときに、必ず、その暖かいものはあがってくるのだった。それがなんだったのかは最後までわからなかったが、先生の「気を受けた」ときには、とにかく私は、いつもその暖かいものを感じていた。それはとても不思議な体験だった。
  施療は、全部で20回が一コースとなっていた。一コースが20万円だと、雑誌の記事には紹介されていたが、先生がお金を必要とするような暮らしではないことは、容易に想像できた。
「お金はどうでもいいんだけどね。安くしちゃうと、どっと来ちゃうでしょ。そうすると、断るのがたいへんになってくるから。これくらいの費用がかかってもかまわないから、どうしても治して欲しい、と思うくらい困っている人だけを看たいのよ。だから高くしてるし、一コース20回全部を通ってこられる人しか看ない。そのかわり、家族はみんな、無料でやってあげるの。」
  施療をしながら、先生はそんなふうに説明してくれた。
  このコースには、さらに、アメリカで専門の教育を修めた人によるカウンセリングが、5回分、含まれていた。「心の中にためてきたいろいろなものも、いっしょに癒しなさい。」というのが、田中先生の考えだった。
  20万円は大金だ。だが、私は、これにかけてみようと思っていた。その日、料金を支払おうとしたのだが、先生は受け取らなかった。一月になって、施療院が正式にオープンしてからでいいから、と言われ、その夜は結局、一円も払わないで帰ってきた。
  なにもかもが、不思議な体験だった。


(つづく)

もうひとつの、スピリチュアル体験 – ひまわり施療院 ①

1996年8月9日
一歳のお誕生日に、たくさんのプレゼントに囲まれて。(全盲難聴・のんたんと、双子の妹・あみちゃん 1歳)



一昨日のブログで、
「過去にも、スピリチュアル体験があった」
ということを書いたところ、
それについてのご質問をいただきました。
なので、過去、私が通っていたところで体験したことを、
ここに掲載したいと思います。
20年くらい前に、私がHPに掲載したものです。


長いですので、連載にします。
20年前、生まれて間もない長男(全盲)を抱いて、
無我夢中で、T先生のもとに通い続けたころの記録です。


長男はその後、耳も聞こえていないことがわかりました。
医師からも、「かなり難しい状態」と言われたのですが、
「だいじょうぶ。耳は治してあげる」
と言うT先生のことばが、
私たち夫婦にとっては、一縷の希望となりました。


今、音楽が大好きで、ウクレレの演奏を楽しむ長男。
その長男と過ごした日々の原点が、ここにあります。


(あくまで、私たち一家が体験したときの事例です。
 効果を保証するものではありません。)


ふしぎな出会い - 1995年11月


  のぞみの退院を目前に控えていたころ、私は、たまたま手に取った雑誌のある記事に眼を奪われた。そのころ、本を読む心のゆとりなどはほとんどなかったことを考えると、やはり、それもまた運命だったのかもしれない。
  それは、ある気功師のことを紹介した記事だった。その女性は、これまでも末期のガン患者を何人も助けてきたのだそうだが、年明け早々から、市川市に施療院を開き、難病や障害を持った子どもたちのための治療を開始する予定だという。
  私の目は、その記事に釘付けになった。もはや、これ以上医学でできることがないのだとしたら、もう、気功でもなんでもいい。できることはなんでも、のぞみにしてやりたかった。夫も、それには異存がないというので、私はすぐさまその気功師に手紙を書き、速達で投函した。
  ただのまじない師と思ったら、そんなことに頼りはしなかっただろうと思う。だが、その記事は、私が長年購入していた有機野菜の宅配ネットワーク「らでぃっしゅぼーや」が発行していた機関誌に掲載されたものだった。市民運動として長年活動を続けてきたそのネットワークを信じる気持ちが、そのまま、その気功師に対する期待へと変わっていた。
  手紙を出して一週間たっても、当然ながら、その気功師からの反応はなかった。施療院は一月にオープンするということだったから、まだ一ヶ月ほどあった。だが、私には、その一ヶ月を待つ余裕はなかった。のぞみは、年が明けたらすぐに目の手術を始めることになっていた。これでは間に合わない。電話番号を問い合わせたり住所を調べたり、あらゆる手立てをつかってその施療院へ直接行ってみようと思い立ったが、調べても調べてもわからなかった。私は、市川市の地図を見ながらため息をついた。
  わかっていたのは、申し込みの手紙の送り先として、記事に記載されていた小金井市の住所だけだ。記事には電話番号すらなかったので、連絡の手だては手紙しかなかった。私は、あせる気持ちを懸命に文字に変え、再度、速達で送った。
「先生におすがりするしかないのです。何卒、何卒、よろしくお願い申し上げます。」と結んだその手紙は、多少、オーバー気味な内容になってしまったが、そのときの私は必死だった。当時の私たちにとって、行政などなんの助けにもならないとすでにわかっていたので、たしかに、もう私が頼れる先はここしかなかったのだろう。
  不思議なことに、二通目の手紙を出したことで、私はなんだか気がすんでしまい、その施療院のことも、なんとなく忘れていた。もう、自分ができることはすべてやったのだ、という気持ちがあったのかもしれない。
  電話が鳴ったのはそれから一週間後だった。受話器をとるなり、電話の主はこう言った。
「あ、田中ですけど。」
「は?」
「田中ですよ。お手紙くださったでしょ?」
  私は、驚きのあまり、声もでなかった。それは、記事で紹介されていた施療者、田中喜美子先生ご自身だったのだ。会ったこともないというのに、まるでお隣りに住んでいるおばさんのように、彼女はきさくだった。
「網膜剥離はやったことがないので、治せるかどうかわからないけど、どうしてもと希望するならやります。私の自宅へ来てください。」
  手術を控えていて、施療院のオープンの日まで待てないと手紙で懇願した私に、彼女は、特別に対応してくれたのだった。こうして、のぞみが退院してまもない12月中旬、のぞみへの施療が実現することとなった。


(つづく)