MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。

超未熟児で生まれた後遺症で、全盲難聴(盲ろう)となったのんたん、双子の妹あみちゃんと共に楽しく生きる家族のお話です。
子どもたちは24歳になり、毎日元気に楽しく暮らしています。
卵巣ガンになって思ったことも、少しずつ書き始めました。
ベトナム日記は、
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をご覧ください。
ベトナム家族旅行:
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小学生だったころの子どもたちの育児日記は、こちらです。
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定年でもベトナム。ハノイで始める、お仕事日記 164 - ホアロー収容所(2019年10月21日/51日め)

2019年10月21日 文廟の一つ目の門、「文廟門」です。


10月21日


文廟のあとは、本当なら、
タンロン城に行くはずなのですが、
あいにく、タンロン城は休館日です。
代わりに、夫の希望で、
ホアロー収容所に行くことにしました。


ホアロー収容所は、
1896年に開設された、監獄です。
当時のベトナムを統治していた、
フランスによって造られました。
最も多い時で、
2000人もの人を収容していたといいます。


以前、MIYOはひとりでここを訪れていて、
その際に詳しくご説明しているので、
ここでは、夫が撮った写真だけを、
さらっとご紹介します。


当時のホアロー収容所の全景。現在は、左上の部分がわずかに残されているのみです。現在、右半分には、「ハノイ・タワー」という高層ビルが建てられています。

フランスが造ったせいか、なんとなくおしゃれな、ビストロ風の入り口。

当時の写真。ベトナムの人々は、こんなふうにつながれていました。

実際の様子が、人形で再現されています。

下水溝。この水路を通って、多数のベトナム人が脱走し、レジスタンスに戻って行ったそうです。

フランス人が大好きな(?)、ギロチンも使われました。

さらし首にされたベトナムの人々。

抵抗運動に参加した多くの女性も、収容されました。

ベトナム戦争時の資料も展示されています。

ベトナム兵を殺し、笑顔を見せる米兵。胸がつぶれそうになる写真です。ホアロー収容所と共に、この国で起こったこととして、忘れてはならないことだと思います。

ここで亡くなった方々のための慰霊碑です。

以前、ホアロー収容所に行ったときの日記はこちらです。



午前中だけで、
ずいぶんいろいろと見てしまいました。
次はお昼ごはんなのですが、
その前に、車で、
夕食を予約してあるお店に寄ります。


私たちは、旅行の荷物を車に積んだままで、
市内を移動していました。
が、車による移動は、午前中だけです。
午後からは、車を使わない観光になり、
ドライバーさんと車は、
会社に帰ってしまいます。


なので、車の中で預かってもらっている荷物を、
引き取らなくてはいけません。
とはいえ、それを持ち歩いて市内を観光するのも
たいへんです。
なので、午後は、夕食をいただく予定のレストランで、
荷物を預かってもらう、というわけです。


夕食用にレストランを予約し、
日中、店内で荷物を預かってもらう、というのは、
JVTA社がよくやっていることなのですが、
これ、なかなかいいアイデアですよね。^^


途中で、タンロン城に寄りました。休館日でしたが、入り口の一部には入れます。なので、夫と長女のために、ローさんがわざわざ立ち寄ってくれました。


そして、夕食を予約してあるレストランに
荷物を預け、
おまちかねの、昼食です。



Pho 10 というお店です。
「行列ができるフォーの店」として、
ハノイでは有名な食堂です。


朝からずっといっしょだったドライバーさんと、
お店の前でお別れしました。
いよいよ、お昼ごはんです。


(つづく)

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