MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。

超未熟児で生まれた後遺症で、全盲難聴(盲ろう)となったのんたん、双子の妹あみちゃんと共に楽しく生きる家族のお話です。
子どもたちは24歳になり、毎日元気に楽しく暮らしています。
卵巣ガンになって思ったことも、少しずつ書き始めました。
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骨折でも信州2。小諸から千曲へ 10 - 北国街道 小諸宿④ 大和屋紙店、ギャラリー「紙蔵歩」、英語塾、旧つたや旅館、結城屋、天機山傳通院光岳寺(2024年11月14日/1日め)

2024年11月14日 小諸城址・三の門で。(長野県小諸市)


11月14日(木)- 1日め


北国街道 小諸宿の町並みが今も残る、
本町エリアを歩いています。
前回に引き続き、
歴史ある建物を見ていきます。


大和屋紙店(江戸後期)


【大和屋紙店】
正面が改装されていますが、内部の座敷、庭、蔵などは、豪壮な江戸の商家の風格を伝えています。創業160年。
安政年間から続く老舗で、さまざまな紙を扱っています。明治時代に小諸で暮らした島崎藤村は、信州の内山で作られた障子紙を切った紙をこの店で求め、原稿用紙として使っていました。その同じ紙が、現在も店内で販売されています。


木の蔵ギャラリー「紙蔵歩」。もとは、上記の大和屋紙店の布団蔵でした。現在は、ライブハウスとしても使われているようです。

もうひとつのギャラリー「紙蔵歩」。旧大和屋呉服店の蔵でした。


【大和屋呉服店】
かつて小諸の豪商の代表と言われ、県外にも名の知られた呉服問屋でした。明治時代には、多くの丁稚(見習い店員)をかかえており、「小諸の大和屋で丁稚を仕上げてきた」というのが県下の商人のステイタスになったと言います。大和屋では、多い時には50人もの使用人が、共に暮らしていたそうです。
店の奥には、商品や食べ物、道具をしまっておく蔵が18棟もありました。作曲家・中山晋平(1887-1952)も、ここで一時丁稚をしていました。また、島崎藤村の随筆「千曲川のスケッチ」には、大和屋の別荘に招かれた話が書かれています。
大和屋は、昭和63年頃に店を閉じ、主屋も壊されました。現在は数棟の蔵が残るのみで、その1棟が「ギャラリー紙蔵歩」となり、奥にある蔵は英語塾として活用されています。


在りし日の大和屋呉服店です。

「ギャラリー紙蔵歩」として利用されている大きな蔵の、左側にある駐車場を奥へと進むと…、

もう一つの蔵があります。ここは現在、英語塾になっています。😮

ギャラリーつたや/旧つたや旅館(大正期)


【旧つたや旅館】
つたやが旅籠を始めたのは、江戸時代はじめの1657年で、屋号は「ツタヤ七左衛門」といいました。この建物は、大正時代に建てられたもので、大正の雰囲気を伝えるモダンなデザインです。
「つたや旅館」は、江戸時代から昭和のはじめまで、商人宿としてにぎわった宿屋でした。俳人の高浜虚子が滞在したこともあり、各部屋には、小説家や書家が残した書などが飾られています。昭和33年の道路拡幅工事により、表の庇が着られ、現在のデザインになりました。


道路拡幅前のつたや旅館。


そしていよいよ、
旧北国街道の最後の家まで来ました。


結城屋 (江戸後期)
昭和の道路拡幅の際に曳家をしたため、江戸時代の軒がそのまま残っている建物です。金庫・馬具・たばこ・荒物・下駄を中心に広く商いをしていました。


【結城屋】
結城屋は、第二次世界大戦前には、金庫、馬具、たばこ、荒物、履物など、戦後には下駄・草履を中心に、広い商いをしていました。
この建物は、本町の中でも江戸時代の町屋の形をよく残しており、他の古い店よりも一階の庇が前に出ています。かつては、他の店にも深い庇があったのですが、昭和33年に、道幅を広げるために庇を切ってしまいました。昔の本町の町並みでは、このような深い庇がずっとつながっていました。庇は雨宿りや日よけになるため、商店にとっては大切なデザインでした。

この家は曳家をしたため、庇が切られることなく、昔のまませり出しています。店の奥の中庭、明かりとりの天窓、箱階段などが今も残っており、狭い敷地を上手に使う知恵を随所に見ることができます。


ずっと、通りを直進してきましたが、
とうとう、通りのつきあたりに来ました。
そこには、お寺の山門がありました。


天機山傳通院光岳寺です。堂々とした高麗門。


【光岳寺】
宗旨宗派は、浄土宗。本尊は、阿弥陀三尊。徳川家康の母「於大(おだい)の方」(傳通院)を弔うため、江戸時代の初期(1624年)に、小諸城主松平憲良(のりなが)が開いた寺です。


光岳寺まで来たところで、
旧北国街道・本町エリアの町並みが終わります。
こんなにもたくさんの建物が残っているとは
予想していませんでした。


事業の変遷や道路拡幅工事など、
時代の波に翻弄されながらも、現在は、
行政や地元の方々の懸命な努力によって、
この町並みが残されていることを、
一軒、一軒を見ながら、実感しました。


とりわけ、「北国街道小諸宿の、伝統ある本陣代を残したい」との思いで、建物を借り受け、自力で「そば七」を作ってしまった方のお話には感動しました。このできごとが、「本町エリアの町並みを残そう」という、地元の方々の機運へとつながり、現在の小諸宿本町の姿になりました。


文化財と言うものは、
「必ず残す」
という、地元の方々の強い意思がないと、
次代につなぐことはできないのだと、
いつも思います。


あまり時間がなかったので、
急ぎ足での町歩きになりましたが、
とても充実した90分でした。^^


本町エリアで見かけたマンション。縦に細長くて、まるで火の見櫓みたいだな…と思いました。手前には、マンションらしからぬ庇も造られています。地元の方々が、景観に配慮しながらも現在を生き抜こうとしておられる、その心意気を感じました。

川越の「時の鐘」を思い出しました。
このときの日記です。
コロナでも埼玉。春を愛でながら、彩の国を歩く 11 - 小江戸川越・時の鐘で食べあるき(2021年3月19日)

再び、穏やかな佇まいの町を歩きながら、帰路につきました。

帰り際、北国街道から垣間見た、ほんまち町屋館のみはらし庭。夕陽に染まった雲の下に、オレンジ色の山並みが続いていました。

さらに歩いて、小諸城址の駐車場まで戻りました。

午後5時。小諸市を出発。夕暮れの中、千曲市へと車を走らせました。


(つづく)

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