骨折でも信州2。小諸から千曲へ 8 - 北国街道 小諸宿② ほんまち 町屋館 / 味噌・醤油醸造元 清水屋(トロッコレール、味噌蔵、中仕切り門、みはらし庭)(2024年11月14日/1日め)
2024年11月14日 小諸城址・三の門で。(長野県小諸市)
11月14日(木)- 1日め
北国街道 小諸宿の街並みが今も残る、
本町エリアに来ました。
味噌・醤油醸造元だった、清水屋の主屋です。前回の日記では、この主屋の1階と2階部分を歩きました。
玄関を入ると、目の前に延びる、トロッコ線路。店の前に届けられた荷を、奥まで運ぶためのものでした。
床にトロッコのレールが敷かれている家…。
以前にも見たことがあります。
たしかあれは、「北海道開拓の村」でした。
過去のブログを調べてみたら、ありました。
「旧渡辺商店」です。^^ 床をご覧ください。壁の扉からレールが延びているのがわかりますでしょうか。たくさんの商品に埋もれ、2本のうちの1本しか写っていませんが、このレールを使って、トロッコで倉庫の商品を店舗に運んでいました。
このときの日記です。
コロナでもウポポイ3。札幌2週間ホテル暮らし 38 - 北海道開拓の村⑩(旧本庄鉄工場、旧浦河公会会堂、旧渡辺商店)(2021年11月6日/4日め)
こちらは清水屋です。トロッコ線路に沿って奥へと進むと、主屋の外に設けられた中庭に出ます。2001年(平成13年)に掘りだされた大竃(かまど)がありました。大きいので古井戸かと見間違えましたが、竃でした。
清水屋では、この大竃に大釜を据え付け、
米を蒸して味噌麹を作っていました。
また、大豆を煮るのにも使っていたようです。
1919年(大正8年)当時には、
「味噌を十万貫製造していた。」
という記録があるので、
この釜はフル稼働していたと思われます。
「昔の味噌蔵」と書かれた小さな蔵と巨大な桶が並んでいました。
味噌蔵の中には、かつて味噌づくりに使われていた道具が展示されています。
奥に見えている棺桶のようなものは、槽(ふね)。熟成した諸味(もろみ)を搾るための圧縮装置でした。手前には、粉味噌の木箱があります。粉味噌とは、第二次世界大戦中、軍に納品されていた「インスタント味噌」でした。この木箱ひとつに600人分の粉味噌が収納されていました。
醤油醸造に使った6尺(182㎝)の醤油桶。2001年(平成13年)、清水屋の敷地内にあった醤油蔵を取り壊した時に、11本の醤油桶(大正3年に製造されたもの)が見つかりました。その中の1本を展示しています。大正8年当時、清水屋には、91本の6尺桶が並んでいたそうです。
唐箕(とうみ)が置いてありました。最近は、古民家に行くとかなりの確率で唐箕が展示してありますが、ここの唐箕は、ゴミ箱と間違えた人がいるようです。「ゴミを入れないでください。」と書いてありました。😔
これまでに見た唐箕をまとめた日記です。ベトナムや中国の唐箕もあります。
新緑の長野へ。塩の道から群馬の秘湯へと歩いた4日間 9 - 牛方宿④ かんじき、唐箕、そして土蔵へ。(2024年6月12日/1日め)
玄関に敷かれていたトロッコレールは、この蔵まで続いていました。
蔵の1階です。板の間になっており、ギャラリーなどとして使えるように改装されています。
2階では、中仕切り門(小諸城で、北の丸と黒門の間に設けられていた門)に関する展示を見ることができます。
ここに展示されている柱は、かつて、
小諸城の中仕切門にあったものです。
が、中仕切り門は明治初期に、
清水屋に払い下げられ、
清水屋の中の建物の骨組みに使われました。
つまりこの柱たちは、
小諸城の一部だったわけです。
しかし痛みが激しく、
また、かなり改造されていたため、
「中仕切り門としての再現は不可能」
と判断されました。
そのため、貴重な資料として、
清水屋の蔵の中で展示されることになりました。
1階部分から見上げた2階部分。かつての中仕切り門(に使われていた木材)は、今はこんな形で保存されています。
蔵を出て、さらに進むと…、
広場がありました。「町屋館みはらし庭」です。右端に見えているのが、浅間山だそうです。
山々に囲まれた小諸市は、穏やかで美しい街でした。
清水屋の2階から見た景色です。
さて。
2回にわたって、
清水屋の内部を掲載してきましたが、
ここ本町エリアには、古い民家が、
まだまだたくさんあります。^^
そこで、この本町エリアの長~い通りを、
端から端まで歩いてみました。🤣
こんな家々がずうううううっと続くんですよ。そりゃもう、途中でやめられませんよね。笑
次回は、そんな本町エリアの家々の佇まいを、
ご紹介したいと思います。
(つづく)