骨折でも信州。8回めの須坂へ 20 - 田中本家博物館⑩ 湯殿、秋の庭、帳場、いろりの間(2024年10月17日/2日め)
2024年10月17日 チャリティ展示されていた、光琳水 吸物椀 高洲堂製(長野県須坂市・田中本家博物館)
【お知らせ】
少しおでかけします。
11月15日より、ブログをお休みいたします。
10月17日(水)- 2日め
田中本家博物館に来ています。
田中本家では、敷地を囲むように、たくさんの土蔵が並んでいます。その一部(土蔵5棟)を改装して博物館を作ったため、展示館は、東西方向に細長い造りになっています。
展示館の出口には、ヘブンリーブルの棚があります。10月でしたが、まだわずかに咲き残っていました。後ろに見えているのは、樹齢200年を越える枝垂桜。
今年は暑かったせいか、花の数が例年よりも少なかったそうです。
さらに直進すると、大王松の向こうに、湯殿が見えてきます。
【湯殿】
明治時代に造られました。田中家の迎賓館であった、離れ・「清琴閣」のすぐ隣りにあり、「清琴閣」に泊まったお客様専用の湯殿でした。この湯殿を、かつて、川合玉堂、寺崎廣業、木村武山、尾崎行雄、福島将軍など、多くの著名人が利用しました。
着替えの間は、床の間と飾り障子窓が付いた、シャレた造りになっています。
そして、着替えの間と湯殿の電灯には、美しい手作りの笠が付いています。これは、明治37年頃に取り付けられたものです。
湯殿は、檜造です。風呂は沸かすのではなく、浴槽内の湯が冷めないように、炭火を利用した造りになっていました。中央にある木の枠には清水が入り、湯加減の調節のために使用していました。また、珍しい模様のついた窓ガラスは、製法がわからないため、今では作ることができないそうです。
廊下部分の屋根の木組みも見どころで、茶室のようなオシャレな造りになっています。
着替えの間です。コンパクトながら、書院造りになっていて、床の間も付書院もあります。このままお布団を敷いて寝られそうです。脱衣所なんですけどね。😄
1904年(明治37年)に取り付けられた照明。
そして、檜造の湯殿です。窓ガラスには複雑な模様があしらわれています。製法がわからないため、今では、このガラスを作ることができないそうです。
湯殿については、以前の日記でも書いてあります。
コロナでも雛旅。古(いにしえ)の雛を訪ねる、4泊5日の長野・岐阜・愛知 19 - 田中本家博物館 清琴閣と湯殿(2021年3月27日/2日め)
そして、ご当主に案内していただきながら
見学順路を歩き、秋の庭へ。
この順路の途中で見学したものについては、以前の日記に書きましたので、割愛します。
コロナでも雛旅。古(いにしえ)の雛を訪ねる、4泊5日の長野・岐阜・愛知 20 - 田中本家博物館 水車土蔵(2021年3月27日/2日め)
コロナでも雛旅。古(いにしえ)の雛を訪ねる、4泊5日の長野・岐阜・愛知 21 - 田中本家博物館 秋の庭と夏の庭(2021年3月27日/2日め)
秋の庭です。
秋の庭は、1780年代(天明年間)に京より庭師を招いて作庭された、池泉廻遊式庭園です。
中央に見えるのは、天然の一枚岩。表面に美しい模様があります。
この岩をお屋敷まで運んだケヤキのソリは、現在も土蔵に展示してあります。
この庭を見渡せるように建っている、主屋。この内側で、「江戸時代料理 再現食事会」が行われました。この主屋は、田中本家 第11代当主・田中太郎氏の住まいでした。
現在、この庭の樹木への水やり担当は、田中本家 第12代当主・田中宏和氏なのだそうです。私たちを案内してくださった、ご本人です。😄
秋の庭で、多動夫はいつものように、こんな写真を撮っておりました。
見学順路の最後は、敷地中央のエリアです。ここは、明治時代の母家でした。
【明治時代の母家】
1870年(明治3年)に須坂騒動(農民一揆)が起きました。2000人の暴徒により、市内120か所が被害にあいましたが、その際、田中家も、江戸時代の母家と土蔵の一部を焼失しました。
現在の建物は、須坂騒動の後に、母家として建てられたものです。田中家の6代~11代当主の住まいで、1階は居住空間、2階はお座敷でした。
現在、1階は博物館の事務所になっており、2階座敷は、特別なイベントに使われています。6月中旬から7月上旬には、樹齢230年の沙羅双樹の花(姫夏椿)を愛でる「喫茶室」をオープンしています。
母家の一階部分です。ここは玄関で、その先には、奥へと続く廊下がありました。明治から昭和まで、お客様をお迎えする部屋でしたが、帳簿の整理もしていたので、「帳場」と呼ばれていました。
【明治の母家の玄関と帳場】
炬燵の囲炉裏がある部屋で、玄関および帳場として使われていました。窓が設けられており、ガラス越しに、来客のようすもわかるようになっています。帳場内には、昔の電話機、小机、定規、そろばん、金庫、巻き尺などが見えます。奥の階段箪笥を上がると、2階は畳敷きの部屋になっていて、寝泊まりできるようになっていました。
帳場について、以前掲載したときの日記です。
コロナでも雛旅。古(いにしえ)の雛を訪ねる、4泊5日の長野・岐阜・愛知 21 - 田中本家博物館 秋の庭と夏の庭(2021年3月27日/2日め)
帳場を抜けると、
ミュージアムショップの先に、
「いろりの間」があります。
このときは、いろりの間で、輪島塗チャリティー販売が行われていました。
ずいぶん売れてしまったようで、残り少なくなっていましたが…。😅
最後は、お休み処「龍潜」でアイスコーヒーを。ドリンクチケットは、お食事会の最後にプレゼントしていただきました。窓の外に見えているのが、夏の庭です。
庭の向こうに見えているのは、母家の2階部分。通常は非公開なのですが…、
この4か月前に、「2階部分で水無月ランチをいただく」という企画がありました。そのときに、2階部分から夏の庭を見下ろすことができました。
このときの日記です。
新緑の長野へ。塩の道から群馬の秘湯へと歩いた4日間 17 - 田中本家博物館① ヘブンリーブルーと夏つばき(2024年6月14日/3日め)
新緑の長野へ。塩の道から群馬の秘湯へと歩いた4日間 18 - 田中本家博物館② 水無月ランチ(2024年6月14日/3日め)
最後に、田中本家博物館について、
概要を書いておきます。
【田中本家博物館】
長野県須坂市にある、江戸時代の豪商の館を利用した私設博物館です。江戸時代中期からの田中家の所蔵品・資料を公開しており、敷地面積は約3000坪。
田中家の始まりは、初代当主新八(1699年仁礼村生まれ)で、須坂で奉公人から身を起こし、1733年(享保18年)、現在の地で穀物、菜種油、煙草、綿、酒造業などの商売を創業しました。後を継いだ2代当主新十郎信房の時代に、田中家の基盤が確立します。酒造業や金融業まで手広く商い、巨財を成し、1745年(延享2年)には、須坂藩の御用商人となります。以後、代々須坂藩の御用達を務め、名字帯刀を許される大地主へと成長。3代信厚と5代信秀は、士分として藩の財政に関わる重責も果たし、その財力は、須坂藩をも上回る北信濃屈指の豪商となりました。1933年、第11代当主 田中太郎が、須坂市長を退任後、自邸の土蔵に家財や陶磁器など代々の蒐集品を集めて、博物館を開館。第12代当主・田中宏和氏によって、その規模はさらに充実しました。(現在の当主は、第13代 田中和仁氏。)
現在の屋敷構えは、かつての面影を今に伝えるもので、約100m四方を20の土蔵が取り囲む豪壮なものです。この土蔵には、江戸中期から昭和までの田中家代々の生活に使用された品々(衣裳、漆器、陶磁器、玩具、文書など)が、大変よい状態で残されており、その質と量の豊富さから、近世の正倉院とも言われています。土蔵5棟を改装した展示館では、常設展のほか、年5回の企画展も行っています。敷地内には、池泉廻遊式庭園のほか、客殿や主屋などの建物が軒を連ねており、四季折々の散策が楽しめます。
敷地内の、旧主屋をはじめ、おかる二階、客殿、湯殿、中二階、表門、門土蔵、西之蔵、隅土蔵、文庫蔵、味噌蔵、新土蔵、水車蔵、籾土蔵、釜場蔵、酒蔵、蓮池蔵、東土蔵、内塀及び門、東及び北土塀が、2003年に国の登録有形文化財に登録されました。
行政からの補助を受けることなく、
博物館存続のための努力を続けておられる
みなさまに、頭がさがります。
コロナ禍の入館者激減という
つらい時期もありましたが、
クラウドファンディングなどを通じて、
次代へつなごうとされているごようすに、
胸を打たれます。
今回も、展示品はどれも見ごたえがあり、
充実した、楽しい一日になりました。
また次に訪れる日を楽しみにしています。
ありがとうございました。
(つづく)