骨折でも信州。8回めの須坂へ 3 - 山村集落「青鬼」③ 青鬼堰と棚田(2024年10月16日/1日め)
2024年10月16日 山村集落「青鬼」で。(長野県北安曇郡白馬村)
10月16日(水)- 1日め
長野県の山村集落「青鬼(あおに)」
に来ています。
「お善鬼の館」を見学したあと、古い農機具「ガッタリ」や現在も使用されている納屋を見ながら、緩やかな斜面を上がりました。
現在地はここ。
大きな家屋が2軒、並んでいます。
2軒の間を流れているのは、「青鬼下堰」。
【青鬼堰】
幕末から明治期に岩盤をくりぬいて開掘された、全長約3キロの農業用水路です。主要部分は、江戸時代末期、万延・文久年間に、4年の歳月をかけて造られました。堰は現在も使用されており、祖先の偉業を現在に伝える貴重な存在です。約290mにわたり急な岩盤をノミで削って水路を開削した箇所があるほか、一部は粘土で堰の底を突き固められています。集落の東側の水田を潤し、青鬼神社の一段上を迂回するように流れ、集落の外れで沢に落とされています。
青鬼堰はふたつあり、始めに作られたのが青鬼上堰です。青鬼下堰は、青鬼上堰が完成した後、間もなく設けられたものと考えられています。青鬼上堰と平行して設けられており、東側農地の下半分の水田に給水しています。規模は、青鬼上堰の水路幅が約50cm~100cmであるのに対し、青鬼下堰の幅は約30cm~50cm。小規模ではあるものの、一部、急な岩盤をくり抜いて造られた場所もあり、青鬼上堰とともに貴重な存在となっています。
家屋のすぐ隣りを流れている、青鬼下堰。
集落内の家を、一軒ずつ眺めながら歩きました。
これは土蔵です。
【土蔵】
土蔵は、多くの場合、火災を考慮して主屋から少し離れた場所に建てられています。こうした配置も青鬼集落の特色と言われています。
土蔵の屋根は、板葺(現在は鉄板葺)の置屋根形式で、外回りに柱を立て、貫を5段ほど入れてあります。秋になると、そこに藁を架けて雪囲いを造ります。これは、晩秋から冬季に見られる特徴的な景観となっています。
この4か月前に訪れた「牛方宿」でも、土蔵の周囲に外枠が造られていました。あれは「雪囲い」をするためだったのか、と、今頃になって初めて気がつきました。
このときの日記です。
新緑の長野へ。塩の道から群馬の秘湯へと歩いた4日間 9 - 牛方宿④ かんじき、唐箕、そして土蔵へ。(2024年6月12日/1日め)
青鬼集落から牛方宿までは、わずか10キロ。土蔵の造りが似ているのもうなずけます。
青鬼集落の農地と山々。集落には、穏やかな景色が広がっています。緩やかな斜面を、棚田がある方向に向かって歩いてみました。
やがて、柵をめぐらしたエリアにでくわしました。
これは、イノシシなどの動物よけです。
道路上
の柵は手で開けることができるので、
人間は、柵の向こう側に行くことができます。
しかし、道路以外にめぐらされた柵には
電流が流れているので、
動物は、ここから先には
入れないようになっていました。
柵を抜けて、反対側にエリアに入ったところです。
さらに歩きながら後ろをってみると、穏やかな風景が視界いっぱいに広がっていました。
棚田に向かって、さらに歩きます。
道は緩やかな上り坂になっています。その道に沿って、左側には、澄んだ水が流れていました。これが、江戸時代から続く「青鬼堰」です。(ここは青鬼上堰)
棚田への引水として開掘された青鬼堰は、
ここで田に水を与えたあと、
下流で、人々の生活用水となりました。
坂道を上がるにつれ、棚田が顔を見せはじめます。
青鬼堰のおかげで、長い年月、豊かな実りに恵まれて来た棚田です。
目の前に広がる、棚田。今は刈り取りを終え、土のみとなっています。
そして、棚田の向こうに見える、伝統的家屋群。
集落はひっそりとしていて、
村の人々を、誰ひとり、
見かけることはありませんでした。
村には一軒のお店すらなく、
ただ、穏やかな時間が流れていました。
まるで別世界にいるような気がしながら、
夫とふたり、のんびりと、
緩やかな坂道を歩き続けました。
いまここ。😄
(つづく)