コロナでもウポポイ3。札幌2週間ホテル暮らし 103 - よいち水産博物館②(ニシン漁の歴史)/ ANAファーストクラスのカレー(2021年11月13日/11日め)
(2023/03/31 16:00記)
2021年11月13日 よいち水産博物館で。ニシンについての展示を見ました。ニシンはイワシに似ていますが、イワシより平たい魚です。春に産卵のために沿岸に来るので、「春告魚」とも呼ばれます。漢字の「鰊」のつくり「柬」は「若い」という意味。小魚を指すことから、ニシンにこの字が当てられました。また、「鯡」とも書きます。つくりの「非」は否定を表し、「まだ成魚になりきっていない魚」という意味を表しています。「鰊」と「鯡」はどちらも「ニシン」と読みますが、どちらが先にできたかは不明です。が、室町時代の『節用集』には、両方の字が記載されています。(北海道余市郡余市町)
11月13日(土)
よいち水産博物館に来ています。
【よいち水産博物館】
ニシン漁で栄えた余市町の歴史資料を中心に展示しています。また、考古資料を中心とした展示の「歴史民俗資料館」を併設しています。館内で特に注目したいのは、ニシンに関する膨大な資料群です。これらのニシン史資料は、北海道開道100年を記念して町中心部に開設したよいち水産博物館に集積されたもので、枠船、網、タモ類、網元家財具のほか、文献写真資料も豊富です。
ニシン漁の積丹場所は、表積丹(小樽市、余市町)と裏積丹(岩内町、泊村、神恵内村)に分かれますが、表積丹の中心地が余市でした。シリパ岬の海岸には、今日も多くの番屋、建網投錨地原標などの現地遺産が残っています。近くには重要文化財の旧下ヨイチ運上家、旧余市福原漁場もあり、3か所をまとめて見学することも可能です。
アイヌの人々に関する展示が終わり、
次はいよいよ、
ニシン漁に関する展示エリアに入りました。
網やタモがたくさんあります。移設されてきたであろう街灯も、いい味を出しています。^^
網元の大皿。番屋に置かれていたと思われます。
余市酒造会社による、清酒「十一州」の陶製樽(昭和20年代)。
ゴマフアザラシの皮で作られた、手さげかばん(時期不明)。
余市町議会の議場にかけられていた柱時計(大正~昭和時代)。セイコーのものです。この時代の展示を見ていると、時計はほぼすべてがセイコー(精工舎)製です。うれしくなってつい撮ってしまいましたが、この頃が会社の全盛期だったのかも。😅
まずは、北前船の展示から見ていきます。
今も残る、たくさんの絵馬。かつて、北前船の船主たちが、航海の安全を願って奉納したものです。いかに多くの船が余市に寄港していたかがうかがえます。
加州(石川県南部・加賀国の別称)・橋立浦の大家喜栄丸兵助が、1863年(文久3年)に奉納した絵馬がありました。
加賀橋立は、初めて北前船のことを教えてくれた地でした。
コロナでも金沢。3人で歩いた、3泊4日のおトク旅 17 - 加賀橋立 北前船主集落(2020年7月26 日/3日め) - MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。
これは、若州(若狭国)・小浜の木綿屋重治郎が、1855年(安政2年)に奉納した、長福丸の絵馬。
船箪笥。船の中で貴重品を保管するために使用しました。船が沈没しても水に浮き、中に水が入らないように作られていました。
上:ストローハット(明治時代)、ミノゲボッチ(大正時代)
下:てっかえし(手袋)、あくどあて、つまご、ふかぐつ、ネルの長靴(いずれも明治時代)
ミノゲボッチというのが、異彩を放っています。
帽子に人間の毛髪が付けられているようです。
ネットで調べてみたのですが、
これはなんなのか、よくわかりませんでした。
そこで、ふと、思いつきました。
「これはもしかしたら、
『身の毛帽子』という意味ではないのか?」
と…。
つまりコレですね…。😅(画像をお借りしました)
オシャレ用のウィッグですが、
抗がん剤治療で頭髪がなくなったときに、
かぶることもあります。
帽子で押さえるので、ずれにくいんですよ。
そういえばMIYOも、
治療中にこんなのを買っていたような…。😅
「ミノゲボッチ」の頃には、
抗がん剤はなかったはずですが、
なににつかったんでしょうね…。
結局、よくわからないままでした。😓
【追記】
その後、夫がさらに調べたところ、
これは「蓑帽子」というものであることがわかりました。
ミノボッチとも呼ばれる風雪をしのぐための被りもので、
毛髪と思われたものは棕櫚(シュロ)でした。
東北、北陸地方で雨や雪を防ぐために使用されていたそうです。
「ゴールデンカムイ」でも登場していました。^^
(子供の頃の谷垣ニシパがかぶっています。笑)
次は、ニシン漁の歴史に関する展示です。
余市において、和人によるニシン漁は、
江戸時代に始まりました。
最初は、和人との交易品として、
アイヌが漁を行っていました。
が、やがて、和人が蝦夷地にやってきて、
漁をするようになりました。
当時の余市は、
表積丹におけるニシン漁の中心地
で、「ヨイチ場所」と呼ばれました。
当時のヨイチ場所です。真ん中にある、「運上家」をご覧ください。玄関がふたつあります。
現在の旧下ヨイチ運上家です。絵の運上家と、外観が同じですね。^^
コロナでもウポポイ3。札幌2週間ホテル暮らし 99 - 「たけや」のお昼ごはんと、旧下ヨイチ運上家①(土間、下台所、上台所)/ 槫板葺石置屋根(2021年11月13日/11日め) - MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。
この運上家を作ったのは、商人・竹屋林長左衛門でした。
【運上家】
江戸時代、アイヌとの交易や和人による漁業の権利は、松前藩(後には幕府)から許可を得た藩士のものでした。その権利は、「場所」ごとに分け与えられていました。その権利を請け負った商人が拠点とした建物が、運上家でした。
その後、明治時代になり、
運上家と「場所」の仕組みはなくなりました。
が、ニシン漁は、明治になってさらに盛んになり、
明治20年代ごろから、
多数のニシン番屋が建ち並ぶようになりました。
最も必要とされたのは、
ニシンから作る肥料(ニシン粕)でした。
もともと本州では、
イワシを原料にした肥料が使われていましたが、
しだいに手に入りづらくなっていました。
そこで、蝦夷地のニシンが注目されました。
ニシンは、食用としてだけでなく、
主に魚肥として重宝され、
北前船によって西日本一帯へと運ばれました。
ニシン粕の製造はますます盛んになり、
定置網の改良などもあって、
北海道全体の漁獲量は、
明治30年代にピークを迎えます。
東北や道南地方から多くの漁夫がやってきて、
そのまま定住する人も増えました。
ニシンの群来は、北海道の日本海側にやってきました。沿岸地帯は、ニシン景気でわきました。が、その後、乱獲により、ニシン漁は衰退していきました。
それでは、展示を見て行きます。フロア全体に、ニシン漁全盛期のころのアイテムが、整然と並んでいました。
次回は、ニシン漁関連の展示をご紹介します。
(つづく)
(おまけのお話)
2023年2月16日
ANAが新しく解説した通販サイト、
ANA Mall のお話です。
ANA Mall紹介|ANA Mall|マイルが貯まる・使えるショッピングモール
オープニングキャンペーンということで、
会員登録して3000円以上購入すると、
400マイルがもらえるそうです。
(このキャンペーンは終了しました。)
全部で508マイルが付与されるそうなので、
マイルにつられて買ってみました。(アホ)
コレです。ファーストクラスで提供されている、阿波尾鶏とマッシュルームのカレー6個セット(5400円)。
「ANAファーストクラスでご提供している、こだわりのカレーです。徳島県産ブランド鶏『阿波尾鶏』を使用し、ANAファーストクラスシェフのオリジナルレシピでご用意しました。」…だそうです。
ファーストクラスなんて一生乗れないと思うので、
せめてカレーくらいは食べてみよう、
と思って注文しました。爆
で、届いたのがコレです。レトルトカレー6個がセットになっています。バーコードにも飛行機が描かれてますよ。^^
早速試食。我が家では、ごはんに大麦と雑穀を入れています。スープはウィンナーといんげんのコンソメ。
その後、スーパーで「ポークビンダルー」を発見。珍しいので、これも食べてみました。
左がポークビンダルーで、右がANAのカレーです。それぞれ、ひとり分を夫と半分こしました。スープは、前日のスンドゥブの残りです。笑
ポークビンダルーはまあまあでしたが、
ANAのカレーは、ほんとにおいしかったです。
夫、「また食べたい。いつ食べる?」と、
しきりに言ってます。🤣
残りは3箱。
1個900円のカレーは、気軽に食べられなくて、
大事にとってあります。
でも、MIYOが居ないときに、
夫が勝手に食べてしまいそうなので、
とりあえず、わからないところに隠しました。
(ケチくさいことしないで、また買え。
…と言われそうですが。😅😅)
900円のレトルトカレー。
安くはありませんが、おいしかったし、
少しだけファーストクラス気分になれたので、
まあ、よしとします。笑