MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。

超未熟児で生まれた後遺症で、全盲難聴(盲ろう)となったのんたん、双子の妹あみちゃんと共に楽しく生きる家族のお話です。
子どもたちは24歳になり、毎日元気に楽しく暮らしています。
卵巣ガンになって思ったことも、少しずつ書き始めました。
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ベトナム家族旅行:
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台風でも沖縄。台風11号と共に、宮古島と沖縄本島を楽しむ9日間 30 - 旧海軍司令部壕⑥(下士官室、出撃の出口、炊事場、司令官室、信号室)(2022年9月2日/8日め)

2022年9月2日 旧海軍司令部壕・ビジターロビーに展示してあった写真です。沖縄戦では、暴風雨のような米軍の砲火が、夜空を照らしました。これがすべて銃弾であると、想像できますでしょうか。


【お知らせ】
(この日記は、前日に予約投稿しています。)
10月17日早朝より、次の旅に出ます。
行き先は、私たちが大好きな新潟。7月に続いて、今年2回目です。
今回は、ドラゴンドラに乗ります。一年のうちで今しか見られないという景色に、抱かれてきます。^^
ブログは、少しお休みをいただきます。


9月2日(金)


旧海軍司令部壕の中を歩いています。
これまでに、
 作戦室
 幕僚室
 司令官室
 暗号室
 医療室
 発電室
を見てきました。
これらは、壕の中でも、
主要機能を担ったエリアです。


次は、下士官兵が過ごした部分を
見学します。
それまでの坑道に比べると、
下士官兵エリアの坑道は、
ぐっと狭くなります。


兵士が作業に使ったツルハシが、展示してありました。

その先に、ふたつの下士官室が並んでいました。息をのむほどの粗末さです。

壁に窪みがあります。ここには当時、支柱がはめ込まれていました。

ふたつめの下士官室です。

下士官室復元図です。当時の壕内には、国頭方面から運ばれてきた琉球松が、支柱として多数使われていました。

玉砕の日も近い、昭和20年6月頃のようすです。この部屋では、立錐の余地もないほど多くの兵士が、立ったまま眠り、休息をとったと言われています。


立ったまま眠るなんて、
聞いたことがありません。
あまりにひどい処遇ですが、これも、
「欲しがりません。勝つまでは。」
ということだったのでしょうか…。


下士官兵のエリアを過ぎると、
いちばんはじめに通った太い坑道に出ます。
右に曲がると、出発地点に戻るのですが、
左に曲がると、
「出撃の出口」
と言われる場所があります。


出撃の出口の再現図です。兵士たちのほとんどは、武器らしい武器もなく、刀や槍を持つ兵士すらいました。彼らはこの出口から出撃していき、そして大半が、二度と帰ってきませんでした。

これが、現在の「出撃の出口」です。修復作業中のため、立ち入り禁止になっています。


気になったのは、
多くの見学者が訪れると思われるのに、
この「出撃の出口」が、
作業者の休憩所になっていたことです。


奥の二人(日本人)は、
タバコを吸ったら、すぐに出て行きました。
これはまあ、いいです。
しかし、手前の3人(たぶんアメリカ人)は、
そうではありませんでした。
女性ひとりと男性ふたりが、大声で、
おしゃべりに興じていました。
「チェジュ島に行ったら、
 もう、韓国人ばっかりで。あはは。」
などと、旅行の話に花を咲かせています。


夫はすぐに立ち去ってしまいましたが、
私は、そこを離れることができず、
周囲の写真を撮りながら、
しばらく、そのまま残っていました。
20分くらいたったと思いますが、
それでも、彼らのおしゃべりが
終わることはありませんでした。


率直に、腹が立ちました。
(アメリカ人だったからではありません。😅)
大勢の方々が亡くなったこの壕で、
坑内に響き渡るような大声で、
延々と談笑し続ける無神経さに、
腹が立ったのです。
そのうえここは、「出撃の出口」でした…。


やりきれない思いを抱えたまま、その場を去りました。出発地点に向かって、歩きます。

ここで左に曲がると炊事場になりますが、この坑道の中は、現在は公開されていません。

さらに進むと、右側に司令官室があります。こちらは、ふたつめの出入り口です。

司令官室の前室です。ここに、下士官兵が控えていたのでしょうか。

その先に、司令官室があります。

再び、元の坑道を進みます。

最後の部屋は、信号室です。

大きな琉球松が、支柱としてはめこまれていました。

これで、公開されている、すべての部屋を見学しました。

坑道をまっすぐ進むと、出口になります。当時はこちらが、正規の入口だったようです。


…ここで見学は終わり、のはずだったのですが、
私は、この出口から外に出ませんでした。
先に行ってしまった夫から離れて、
自分ひとりだけで、
最初に降りた長い階段を上がりました。


階段を上がりきって左に行くと、受付に戻ります。


受付の前で、少しまよったのですが、
やはり思いきって、
職員の方に言ってしまいました。
「『出撃の出口』で、3人の外国人が、
長時間、大声で談笑していたのですが。」
と…。


職員の方は、
「彼らは、修復の作業をしているのですが、
 休憩していたのだと思います。」
と言いながらも、
「すみませんでした。」
と付け加えました。


 いえ、謝ってもらわなくてもいいのです。
 けれどここで、
 何千人もの方が、亡くなったのです。
 その同じ場所で、大声で談笑し続ければ、
 残念な思いをする人もいると思います。
 彼らが日本人ではなくても、
 少なくとも、ここで起こったことに、
 思いを馳せていただきたいのです。


…と、本当は言いたかったけれど、
それはうまく言葉になりませんでした。
でも、私が言いたかったことを、
きっと、わかっていただけたと思います。
そして彼らに、
私の思いを伝えてくださっているように、
と願っています…。


出口の前で咲き乱れていた、ブーゲンビリア。


(つづく)

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