MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。

超未熟児で生まれた後遺症で、全盲難聴(盲ろう)となったのんたん、双子の妹あみちゃんと共に楽しく生きる家族のお話です。
子どもたちは24歳になり、毎日元気に楽しく暮らしています。
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台風でも沖縄。台風11号と共に、宮古島と沖縄本島を楽しむ9日間 28 - 旧海軍司令部壕④(作戦室と幕僚室)(2022年9月2日/8日め)

2022年9月2日 旧海軍司令部壕で。105段の階段(昇降廊)を降りた先には、司令部が広がっていました。ここにかつて、4000人の兵士がいました。(沖縄県豊見城市)


9月2日(金)


旧海軍司令部壕に来ています。
壕は地下に広がっており、
ほぼ当時の姿のままに残されています。
沖縄南部に残る壕の大半は、
自然の壕を利用して作られていますが、
この海軍壕は、すべて人の手で掘られた、
人工壕です。


現在は、全長450mのうち、約300m
見学する事ができます。
ツルハシで掘った跡、自決した手榴弾の弾痕、
そして、大田司令長官が壁に書き残した文字など、
当時の様子が生々しく伝わってきます。


旧海軍司令部壕の入口です。両側には、たくさんの千羽鶴が手向けられていました。

地底までは約20m。105段の階段(昇降廊)を降りて行きました。

通路のようなものが見えてきました。あともう少しです。

到着。

ここで振り返って、階段を見上げた写真です。長すぎて、一部しか写りません。

階段を降りきったところには、左右に長い通路が延びていました。こんなふうに、壕内には無数の坑道が広がっています。カマボコ型に掘られた壕内は、コンクリートと杭木で固められました。堅牢に作られており、米軍の艦砲射撃にも耐えることができました。

壕掘作業のようすです。現在のような掘削機械設備も無く、約450mもあるこの壕は、すべて、3000人もの兵士たちの「つるはし」や「くわ」等によって掘られました。

掘り出された壕内の土は、モッコなどによって、次々と外に運び出されました。

壕内の見取図です。広大な司令部機能が、この地底で展開されていました。この壕内には、4000名の兵士がいたそうです。


現在地から、坑道は3方向に延びていて、
どっちへ行こうかと、少し迷いました。
でも順路のパネルが出ていたので、
それに従って歩くことにしました。


まずは、作戦室に向かいます。

細い通路を少し進むと、作戦室の入り口が見えました。両側に残る、ツルハシの跡をご覧ください。この壕を掘り続けた兵士たちの様子が、脳裏に浮かびました。

作戦室です。作戦を練るための、重要な部屋でした。壁は、コンクリートと漆喰で固めてあり、当時のままの姿を残してあります。

夫に、「ここに立って」と言われました。記念写真ではありません。人をいっしょに撮ると、部屋の広さ(狭さ)がわかりやすいからです。それはわかるのですが、ここでいったいどんな顔をして立てばいいのか。

続いて、作戦室から幕僚室までは、細い通路でつながっています。

この通路に入ります。

通路を歩くと、天井のツルハシの跡や、当時の配電用碍子(がいし・電線とその支持物とのあいだを絶縁するために用いる器具)が間近に見えるので、言いようのない思いにかられます。

幕僚室が見えてきました。

作戦室や幕僚室は、通路よりもさらに深い位置に造られているので、階段を降りて入室するようになっています。

幕僚室です。当時のままの部屋です。奥の壁の黒い点をご覧ください。

この部屋には、幕僚が手榴弾で自決した時の破片の跡がくっきりと残っています。

ことばになりません。手を合わせ、幕僚室の奥にある、もうひとつの出入り口から出ました。再び、広い通路に戻ると、目の前は司令官室でした。大田司令官が自決した部屋です。

ここまで、見学の順路に従って、こんなふうに歩いてきました。


次回は、司令官室を見学します。


(つづく)

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