MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。

超未熟児で生まれた後遺症で、全盲難聴(盲ろう)となったのんたん、双子の妹あみちゃんと共に楽しく生きる家族のお話です。
子どもたちは24歳になり、毎日元気に楽しく暮らしています。
卵巣ガンになって思ったことも、少しずつ書き始めました。
ベトナム日記は、
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ベトナム家族旅行:
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小学生だったころの子どもたちの育児日記は、こちらです。
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台風でも沖縄。台風11号と共に、宮古島と沖縄本島を楽しむ9日間 27 - 旧海軍司令部壕③(ビジターロビー展示室)(2022年9月2日/8日め)

2022年9月2日 旧海軍司令部壕で。地下の司令部壕まで、105段の階段が続きます。(沖縄県豊見城市)


9月2日(金)


ビジターセンター2階の資料館を見学後、
階段を降りて、1階に行きました。
ここに受付があり、参観料を支払います。


ひとり600円を、ペイペイで支払いました。

ふたり分1200円を一括で支払わず、
600円ずつ、2回に分けて支払いました。
一ヶ月に30回以上、ペイペイで支払うと、
翌月のポイント付与率が2倍になるからです。
通常0.5%が1%に、ですね。^^
小さなことですが、
少しでもポイントが増えれば、
地味にうれしいので、毎月こんなふうに、
小刻みにペイペイで支払ってます。^^


9月のポイント付与率も1%だったので、
600円の決済だと6円分が付与されます。
ところが、支払いの詳細をチェックすると、
なにかヘンです。


6ポイント(6円分)付与されるところが、
120ポイントになっています。
これは多すぎます。


なぜ? なぜ?
と思って、壕内の見学そっちのけで、
調べてみました。爆
すると…。


こんなのがあったのです。8月と9月に豊見城市でペイペイ支払いをすると、20%戻ってくるキャンペーンだそうです。


これはすごい。
20%ですよ。笑
参観料1200円を支払って、
240円も戻ってきたんです。🤣🤣


上の画像は、このブログを書くにあたって、
サイトからコピーしてきたのですが、
そこでまたすごいことがわかりました。
9月末までのキャンペーンだったのですが、
予想を上回る利用があり、予算を使い切ったため、
9月9日で終了したそうです。


私たちが利用したのは、9月2日。
なにも知らないで豊見城市に来て、
終了直前のキャンペーンの恩恵に
あずかってしまいました~。


以前、ヒヤシンスさんから、
「MIYOさんたちには旅運がある。」
という名言をいただいたのですが、
このときもそうだったのかもしれません。
旅運。
この言葉、気に入っています。^^
ヒヤシンスさんの造語でしょうか。
いい言葉ですねえ。笑


この「20%戻ってくる」というお知らせを、
MIYOがうっとりして眺めているあいだも、
夫はさっさと先に行ってしまい、
自分だけ、見学を始めていました。
(支払いは、MIYOにさせるんですけどね。😔)


ビジターセンター1階の受付を過ぎると、
ビジターロビー展示室があります。
こちらに展示されているのは、主として、
司令部壕に関するものです。
壕から発掘されたさまざまな遺品や、
家族へ宛てた手紙、写真やパネルなど、
旧日本海軍や沖縄戦についての
さまざまな資料を展示しています。


まず目をひくのは、司令官だった大田實少将の写真と少将旗です。1945年(昭和20年)6月、終末の時を迎えた沖縄海軍部隊の司令官・太田實少将は、沖縄戦の実態を詳しく伝える電文を本土へ送ったあと、ここ豊見城村の海軍司令部壕で自決しました。

自決する直前に、彼が本土へ送った電文です。以下にタイプアウトします。(展示に際し、原文を現代文に直してありました。)


【大田司令官の電文】
 次の電文を海軍次官にお知らせくださるよう取り計らってください。
 沖縄県民の実情に関しては、県知事より報告されるべきですが、県にはすでに通信する力はなく、32軍(沖縄守備隊)司令部もまた通信する力がないと認められますので、私は県知事に頼まれたわけではありませんが、現状をそのまま見過ごすことができないので、代わって緊急にお知らせいたします。 
 沖縄に敵の攻撃が始まって以来、陸海軍とも防衛のための戦闘に専念し、県民に関してはほとんどかえりみる余裕もありませんでした。しかし、私の知っている範囲では、県民は青年も壮年も全部を防衛のためにかりだされ、残った老人、子供、女性のみが、相次ぐ砲爆撃で家や財産を焼かれ、わずかに体一つで軍の作戦の支障にならない場所の小さな防空壕に非難したり、砲爆撃の下でさまよい、雨風にさらされる貧しい生活に甘んじてきました。
 しかも、若い女性は進んで軍に身をささげ、看護婦、炊事婦はもとより、砲弾運びや切込み隊への参加を申し出るものさえもいます。敵がやってくれば、老人子供は殺され、女性は後方に運び去られて暴行されてしまうからと、親子が生き別れになるのを覚悟で、娘を軍に預ける親もいます。 
 看護婦にいたっては、軍の移動に際し、衛生兵がすでに出発してしまい、身寄りのない重傷者を助けて、共にさまよい歩いています。このような行動は、一時の感情にかられてのこととは思えません。さらに、軍において、作戦の大きな変更があって、遠く離れた住民地区を指定されたとき、輸送力のない物は、夜中に自給自足で雨の中を黙々と移動しています。
 これらをまとめると、陸海軍が沖縄にやってきて以来、県民は最初から最後まで勤労奉仕や物資の節約をしいられ、ご奉公するのだという一念を胸に抱きながら、遂に報われることもなく、この戦闘の最後を迎えてしまいました。 
 沖縄の実情は言葉で形容のしようもありません。一本の木、一本の草さえすべてが焼けてしまい、食べ物も6月一杯を支えるだけということです。
沖縄県民はこのように戦いました。 
県民に対して、後世、特別のご配慮をしてくださいますように。


太田司令官の少将旗は、沖縄戦終結後、この壕内で発見されましたが、米海兵隊少佐が本国に持ち帰っていました。2012年の海軍慰霊祭で、67年ぶりに、ご遺族のもとに返還されたものを展示してあります。


【沖縄県における被害の全容】
沖縄戦における軍人の戦死者数はほぼ正確ですが、沖縄県民の犠牲者数は現在も不明で、推定されるのみです。約15万人前後と推測されていますが、これは日米両軍の正規軍人の二倍以上にのぼり、戦前の県人口約60万人の1/4にあたります。
犠牲になったのは人命だけではありません。地上の文化財の9割以上が失われ、戸籍や地籍簿も消滅したため、戦後の混乱が長く続きました。なによりも、地獄の戦場で傷ついた沖縄県民の心の傷跡は、いつまでも消えることがありません。


旧日本海軍関係の遺留品です。左から、炊事用品、手榴弾、薬品瓶。(これらは、県内遺骨収集ボランティアの国吉勇氏より寄贈されました。)

左上:東風平村富盛の石彫大獅子を弾除けにして、八重瀬岳の日本軍陣地を攻撃する米軍兵士。
右上:南部戦線へ向かう米戦車隊。右手奥の丘は、壊滅した海軍司令部壕です。
下:沖縄随一を誇った小禄飛行場格納庫と、その前を進撃する米海兵隊。

小禄飛行場を占領して、南下する米軍侵攻部隊。

1945年6月、喜屋武半島での最後の戦いが終わりました。そして、島の南端の洞窟から、約8万人の避難民がはいだしてきました。ほとんどが傷ついた老人、子供、女性たちでした。

左:日本軍将兵の収容所。二重の有刺鉄線に囲まれています。
右:収容所へ向かう、日本兵捕虜。

左:石川の仮収容所で衣服を乾かす住民たち。
右:全財産を持ち、米軍に指定された地域へと移動する住民たち。


ここにご紹介しているのは、
ごく一部です。
機会がありましたら、ぜひ、
この司令部壕での展示を見ていただきたいな、
と願うばかりです。


ビジターロビー展示室の隣りにある階段を降りると、小さなホールがあります。

ここでは、花や千羽鶴と共に、掘削作業で使用したツルハシの見本が置いてありました。約3000人の兵士が、このツルハシを使って、司令部壕を造りました。

その右手に、司令部壕の入り口がありました。たくさんの千羽鶴が手向けられています。

旧海軍司令部壕は、地下約20mのところにあります。ここから、105段の階段を降りて行きます。


次回は、地下にある、
旧海軍司令部壕の中を歩きます。


(つづく)

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