MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。

超未熟児で生まれた後遺症で、全盲難聴(盲ろう)となったのんたん、双子の妹あみちゃんと共に楽しく生きる家族のお話です。
子どもたちは24歳になり、毎日元気に楽しく暮らしています。
卵巣ガンになって思ったことも、少しずつ書き始めました。
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台風でも沖縄。台風11号と共に、宮古島と沖縄本島を楽しむ9日間 26 - 旧海軍司令部壕②(沖縄戦写真展と義烈空挺隊)(2022年9月2日/8日め)

2022年9月2日 旧海軍司令部壕に展示してあった、豊見城城の写真です。旧海軍司令部壕の東に位置する豊見城城は、1400年頃に、のちの南山王となる汪応祖が築いた城です。終戦直後には城壁の一部が残っていましたが、戦後、米軍の採石場となり、その原型を失いました。その後、豊見城城址公園を整備する際に破却されました。(沖縄県豊見城市)


9月2日(金)


思いがけず、
旧海軍司令部壕に来てしまいました。


【旧海軍司令部壕】
沖縄戦において、大日本帝国海軍の司令部として使用された防空壕です。当時は軍事上の最高機密機関でした。沖縄県豊見城市と那覇市の市境に位置しています。
沖縄戦は、太平洋戦争中に日本で唯一行われた地上戦でした。この壕内では、約4000名の兵士が戦い、傷つき、そして最期を遂げました。戦後はしばらく放置されていましたが、数回に渡る遺骨収集の後、1970年(昭和45年)に、旧海軍司令部壕としてその一部が一般に公開され、周辺は県によって海軍壕公園として整備されました。

現在は、司令官室を中⼼に 300mが復元されています。内部には、司令官室、医療室、下仕官室、作戦室などが当時のままに残されており、戦争の恐ろしさを知り、平和の尊さを認識する場所となっています。また、併設されているビジターセンター(資料館)では、壕内で発見された遺品や戦争時の関連資料を展示しています。


タクシーが到着したのは、
旧海軍司令部壕の駐車場でした。
ここは展望台になっており、
周囲の街を360度見渡すことができます。


司令部壕がこの場所に建設されたのは、
やはりこの眺望ゆえでした。
近くにある、
小禄飛行場(今の那覇空港)を守ることが、
この司令部壕の役割でした。
「戦闘時に、肉眼でも敵か味方かを
 判断しやすかった」
ということで、
この見晴らしがいい場所が選ばれたのです。
建設にあたっては、約3000人の将兵が
手掘りの掘削作業に従事したとされています。


海軍慰霊之塔で手を合わせ、
展望台の周囲をぐるりと歩いてから、
ビジターセンターに入りました。


ビジターセンターです。(画像をお借りしました)


正面の入口を入ったところは、
旧海軍司令部壕の2階にあたります。
ここは資料館になっていて、一面に、
沖縄戦の資料や写真が展示されていました。


たくさんの写真が並んでいました。有名な、「白旗の少女」もありました。っていうか、この写真以外のは、見たことがありません…。


ここでは、そのごく一部だけになりますが、
資料館とロビーに展示されていた写真を
掲載したいと思います。


沖縄に上陸。用心深く周囲のようすをうかがうアメリカ兵たち。(1945年4月 読谷)

左:亀甲墓の前で、米兵にねらい打ちにされてしまった日本兵。(1945年5月)
右:多くの住民が死に追いやられました。(1945年4月)

洞窟に火炎放射を浴びせる米兵。逃げ出してくる日本兵をねらって、もう一人がライフル銃をかまえています。

義烈空挺隊の97式重爆撃機一機が、読谷飛行場での胴体着陸に成功しました。その隊員たちが破壊した米軍機の残骸です。(1945年5月)


【義烈空挺隊】
義烈空挺隊とは、敵飛行場に輸送機で強行着陸して、敵航空機と飛行場施設を破壊することを目的とした特殊部隊でした。旧日本陸軍の空挺部隊で編成されました。義烈空挺隊は、1945年5月24日、連合軍に占領されていた嘉手納飛行場と読谷飛行場で攻撃を行いました。まさしく、特攻作戦と同じように、生きては帰れない作戦でした。
5月24日、熊本の飛行場から飛びたった12機(168名)が沖縄を目指します。途中4機が機材不調で引き返しましたが、8機が沖縄上空まで到達しました。そのうち5機が北飛行場(読谷飛行場)まで接近。しかしアメリカ軍の対空砲火で4機が撃墜され、1機だけが、読谷飛行場に胴体着陸しました。アメリカ軍の中に、たった1機で。
着陸と同時に、完全武装の空挺隊員(8名)が機から飛び出すと、八方に突っ走り、滑走路沿いに並んでいるアメリカ軍機に手榴弾を投げつけ、破壊工作を開始しました。このときに、コルセア2機、C-54型輸送機4機、プライベティアー1機を撃破。その他、リベレーター爆撃機1機、ヘルキャット3機、コルセア22機、合計26機が撃破されました。燃料集積所も破壊され、ドラム缶600本(70000ガロン)のガソリンが焼き払われ、米兵2名が戦死し18名が負傷しました。また、対空砲火で被弾した重爆撃機のうちの1機は、高射砲に体当たりして、高射砲を操作していた海兵隊員8名が戦死しています。
この作戦で確認された義烈空挺隊員(8機)の死者は69名でした。その遺体は、アメリカ海軍設営隊が埋葬しています。義烈空挺隊が出撃した健軍の地は、現在、陸上自衛隊健軍駐屯地となっています。毎年5月24日には、義烈空挺隊の慰霊祭を開催しているそうです。

戦時中(1945年6月9日)の「日本ニュース」に、義烈空挺部隊が出撃する時の映像が残っています。「子どものようなほがらかさで、全隊員が搭乗機へ向かった。」というナレーションに、暗澹たる思いがします
奥山大尉の、「全員、喜び勇んで行きます。」という言葉に、胸がつまりました。

「日本ニュース」は、太平洋戦争を間近に控えた1940年(昭和15年)から終戦をはさみ、1951年(昭和26年)まで製作されたニュース映画で、戦時中は、日本軍や内務省の検閲を受けた後、毎週映画館で封切られ、国民の戦意高揚に用いられました。「日本ニュース」は、戦争完遂を目的にした国策映画でしたが、太平洋戦争中の映像記録として大変貴重なものです。


左上:占領された読谷飛行場に強行着陸した義烈空挺隊員。米軍に大きな被害を与えて戦死しました。
左下:急造の爆雷を背負って戦車に迫り、射殺された少年兵。人間爆雷によって、一日6台の重戦車が破壊されたと言われています。
右:コンクリートブロックの重石を腰にしばりつけた特攻機のパイロット。

首都・那覇は、一面瓦礫の街となりました。

米軍に救けだされる人々。10mの竪穴の下に1000mの横穴が続く、巨大な壕の中には、500人もの住民が避難していました。(1945年6月)

洞窟から救けだされる母子。子どもの泣き声で、米兵に発見されました。(1945年4月)

収容所に向かう沖縄住民。(1945年6月)

左:子どもを抱っこする米兵。
右:米軍が用意した病院で、ウジのわいた足の傷の手当てを待つ少女。

収容所の住民たち。

米兵と沖縄の人々。

子どもの手を見る米兵。

にわかづくりの捕虜収容所に集められた、日本軍の捕虜。(1945年6月 小禄)


全てが、この地で起こったことでした…。


沖縄は、日本で唯一の、地上戦が行われた場所。
私が知っていたのは、それくらいでした。
全住民の4人に1人が亡くなったとは…。
途方もない数です。
沖縄戦のことも、義烈空挺隊のことも、
ほとんど知らないままに、
ここまで生きてきました。
そのことを、ただただ、申し訳なく思いました。


(つづく)

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