MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。

超未熟児で生まれた後遺症で、全盲難聴(盲ろう)となったのんたん、双子の妹あみちゃんと共に楽しく生きる家族のお話です。
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台風でも沖縄。台風11号と共に、宮古島と沖縄本島を楽しむ9日間 20 - 台風なら浦添城④ 浦添ようどれを歩く(2022年9月1日/7日め)

2022年9月1日 浦添ようどれで。前庭と暗しん御門です。(沖縄県浦添市)


9月1日(木)


浦添城のハイライト、
浦添ようどれに到着しました。
ここには、琉球国中山王一族の墓があります。


【ようどれ】
ようどれは琉球語で、「夕方の波風が静まる時」「夕凪」と言う意味です。夕凪の、「無風で波の静かなる状態」が死後に続くことを願い、この墓の名前になったのではないかと言われています。また「ようどれ」とは、「極楽」のオモロ名(琉球時代の古語)ではないかとも言われています。


【浦添ようどれ】
浦添ようどれ(国指定史跡)は、浦添城跡の北側岩壁の中腹にある、英祖(えいそ)王(在位1260-1299)と尚寧(しょうねい)王(在位1589-1620)の陵墓です。向かって右側が英祖王の墓、左側が尚寧王の墓だと伝えられています。両陵とも、正面は石組みで漆喰が塗り固められています。自然洞窟を堀削して造営しており、沖縄の墓造りの原型になったと考えられています。墓の中の石厨子は県指定文化財です。仏像、鶴、亀などの見事な彫刻が施されており、仏教文化の影響を色濃く残しています。


【戦争を経て】
この一帯は、沖縄戦での激戦地で、ようどれも大きな被害をこうむりました。墓域を囲んだ石垣も、美しいアーチ型の門も、墓室をおおっていた石組みも破壊され、その復元が大きな課題となっていました。

1989年(平成元年)、浦添ようどれを含む浦添城跡一帯が国史跡に指定されました。それを機に、尚家第22代当主・尚裕氏が、3629㎡の陵墓を浦添市民に無償譲渡しました。この英断を受けて浦添市は、1997年(平成9年)から、文化庁の補助を受けて復元事業に着手。8年の歳月をかけて、浦添王陵をよみがえらせました。これにより、墓室の石組みと「ようどれの碑文」も復元されました。
2005年4月には、修復・復元工事が完了し、浦添グスク・ようどれ館も誕生しました。館内では、英祖王の墓の内部が実物大に再現され、3つの石棺や出土した遺物などが展示されています。


この浦添ようどれには、
名前がついている場所が7つあります。
 前庭、暗しん御門、二番庭、中御門、
 一番庭、西室、東室

それを順に見て行きます。


1.前庭


浦添ようどれに着いてすぐの所にあります。
小さなスペースで、庭と言うよりも、
階段の踊り場のような感じです。


MIYOの後ろにある小さなスペースが「前庭」です。そして前庭の後ろにあるのが、暗しん御門です。


2.暗しん御門(くらしんうじょう)


前庭の奥に続く細い道の部分です。
もとは、崖の下を通る、
トンネルのような通路でした。
が、沖縄戦の砲撃で破壊され、
天井部分がなくなってしまいました。


現在の暗しん御門です。

かつての暗しん御門(昭和9年頃)。加工した岩盤と石積みでできた、トンネル状の通路でした。薄暗くひんやりとしているため、「地下通路を通ってあの世に行く」ような雰囲気を醸し出していました。が、この天井の岩盤は、沖縄戦で破壊されてしまいました。

この暗しん御門を通り抜けたところが、二番庭になります。


3.二番庭


二番庭は広いスペースになっています。
ここで従者が待機していたのでしょうか。


暗しん御門を抜けて二番庭に入るところです。


4.中御門(なかうじょう)


二番庭の奥には、石積みでできた門があります。
これが中御門です。


この門を入ると、一番庭になります。

門の向こうに、一番庭が見えます。

石造りの門はアーチ型で、かなり厚みがあります。あとで知ったのですが、アーチがあるのは、「ここから先は『聖域』ですよ」という印なのだそうです。なので、中に入る前には帽子を脱ぎ、おじぎをしなければならなかったようです。夫、帽子をかぶっています。(スミマセン…)


5.一番庭


浦添ようどれのいちばん奥の部分で、
ここに王陵が築かれています。


一番庭です。夫、奥へ奥へと歩いています。笑

一番庭のつきあたり。

ここで振り返ると、中御門がこんなふうに見えます。^^


次は、一番庭にある、王陵を見てみます。
ふたつの王陵(西室と東室)が、
並んで造られています。


浦添ようどれは、英祖王の墓として、
13世紀に造られたもので、
1620年に、尚寧王によって改修されました。


沖縄戦や戦後の採石で、
浦添ようどれは徹底的に破壊されましたが、
1996年から実施した発掘調査の成果に基づき、
2005年に、戦前の姿を復元しました。


西室と東室です。


6.西室


英祖王(在位1260-1299)の陵墓です。



7.東室


尚寧王(在位1589-1620)の陵墓です。
東室には、尚寧王と彼の一族が葬られています。


ここまで、こんなふうに歩きました。


これで、浦添ようどれの見学を終えました。
台風のせいなのかコロナのせいなのか
よくわかりませんが、
この日に訪れる人はほとんどなく、
今回も、いつものように、
「浦添ようどれ貸切状態」でした。😅😅


二番庭からながめた。浦添の街です。

さて、帰ります。

来た道を引き返しながら帰るのかと思ったら、どうやら違う道を行くようです。坂道をどんどん降りていく夫。ここも、きれいな石畳が続いていました。

下まで降りてから振り返ると、浦添ようどれの全景が見えました。

よくぞここまで復元してくれた…という気持ちでした。


(つづく)

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