台風でも沖縄。台風11号と共に、宮古島と沖縄本島を楽しむ9日間 11 - 台風なら博物館④ 沖縄県立博物館 常設展示室(三線、脱清人、人頭税と移民)(2022年8月31日/6日め)
2022年8月27日 人頭税石の隣りに立ちました。琉球王国時代に、過酷な税を課された人々の苦しみは、この石に託して語り伝えられてきたそうです。(沖縄県宮古島市)
8月31日(水)
沖縄県立博物館・常設展示室で、
以下のカテゴリーの展示を見学しています。
1.海で結ばれた人々/シマの自然とくらし
2.貝塚のムラから琉球王国へ(自然史部門)
3.王国の繁栄(考古部門)
4.薩摩の琉球支配と王国(美術工芸部門)
5.王国の滅亡
6.沖縄の近代(歴史部門)
7.戦後の沖縄(民族部門)
4.薩摩の琉球支配と王国(美術工芸部門)
前回の続きです。
ここからは、三線についての展示になります。
【三線】
琉球古典音楽や組踊の主要な楽器で、黒漆を塗った工芸品でもあります。棹(さお)の材料には琉球黒檀が使われています。その堅牢な棹材を直線や曲線に加工し、さらに、鳴り物としての良い音を求めて、胴内部にも複雑な細工を施す技術は、高度な手わざが求められます。
三線には、7種類の型があるそうです。一見、どれも同じように見えるのですが…、
横から見ると、型によって、棹の形状がそれぞれに異なっていることがわかります。
直富主の真壁型 附胴 胴銘「道乙酉 渡慶次作」
胴内に「道乙酉 渡慶次作」と墨で書かれています。道乙酉は1825年(道光5年)にあたります。棹と胴がそろって現存する三線としては、最も古いものです。徳之島の有力者である直富主が首里において籾30俵で求めたと伝えられ、代々子孫に受け継がれてきました。
三線の制作道具一式
4つの部材を組み合わせて三線胴の木枠を作り、上下にニシキヘビの皮を張って、「チーガ」と呼ばれる胴を製作します。ニシキヘビは沖縄に生息していないのですが、当初はタイから輸入していました。(現在は、ワシントン条約によって輸入できなくなったので、代わりにビルマニシキヘビをベトナムから輸入しているそうです。)
婚礼酒宴の図(19世紀)
婚礼を祝って、歌い踊りあかす人々を描いた絵です。
右側の女性2人が持つ楽器は、蛇皮柄で描かれています。
近世になると、琉球・薩摩間では、琉球からの貢納品を運ぶ薩摩の大和船が行き交いました。また、18世紀初頭の琉球では、中国船の高性能な技術を駆使したマーラン船を使った民間船も登場し、海上交通を発展させました。
5.王国の滅亡
中国・日本という両大国との良好な関係を保ちながら、王国を維持してきた琉球ですが、19世紀に入ると矛盾が深まります。農村の疲弊や首里王府の財政難などが原因で、王国の経営が行き詰まってきました。さらに、アジア進出を目指す欧米諸国の外圧が琉球に押し寄せ、王国は危機的な状況に陥ります。
黒船ペリーは、5度も沖縄に上陸したそうです。
6.沖縄の近代(歴史部門)
1879年、明治政府による琉球処分が行われました。王国は消滅し、近代国家の一部として沖縄県が誕生しました。しかし、土地整理による土地所有権の確立や国勢参加は大きく遅れ、資本主義の経済体制や教育制度も大正時代に入ってようやく整いました。一方、日本による太平洋戦争の進捗とともに、沖縄も戦争体制に組み込まれていきます。1945年、沖縄では住民を巻き込んだ日米両軍による地上戦が行われ、23万余りの尊い人命が失われました。焦土と化した沖縄では、多くの貴重な文化財も焼失し、破壊されました。
不思議な写真に目が留まりました。
脱清人です。
1896年(明治29年)、明治初期の琉球処分に反対して清国に亡命し、清国に「琉球救援」を要請した人々。脱清人(だっしんにん)とも言われます。その多くは、旧支配層を中心とした上級士族でした。
【脱清人の末路】
欧米列強や周辺国に蚕食され続けていた清朝は、日本との紛争や戦争に対応する余力はほとんどありませんでした。脱清人は、その後も20年近くにわたって活動したものの、日本は確実に沖縄県の支配強化を進めていき、その長い月日の間に、脱清人も多くの指導者が病死したり、没落したりして、その影響力を減じていきました。
1894年に発生した日清戦争で、清国の敗北し、台湾が日本に割譲されました。このことによって、清国には琉球を救援する力が無いどころか、台湾すら守れなかったことが、清国からの救援を一縷の望みとし続けていた脱清人らにも明白な現実として突きつけられました。
最後まで活動を続けていた人々も、最終的には、日本に屈服するか、「日本の支配」を逃れるための脱清をするかの選択を迫られました。かくして、亡命した脱清人らは、中国大陸における歴史の大きなうねりの中で、次第に忘れ去られていきました。
上の写真では、
脱清人のほとんどが辮髪となっています。
清での長い滞在の結果なのでしょう。
脱清人が始まったのは1874年頃で、
1896年頃まで続いています。
気になるのは、清国で、20年もの長期間、
彼らの活動を支えた財源はなんだったのか、
ということです。
そこで思い出したのが、「人頭税」です。
琉球王国時代、「人頭税」というものがあり、
15歳から50歳までの民は、
生きているだけで課税されていました。
宮古島では、住宅街の中に、今も人頭税石が残されています。(2022年8月27日 沖縄県宮古島市)
【人頭税石】
人頭税の対象は15歳から50歳までとされていました。が、宮古島では戸籍が整っていなかったため、年齢ではなく身長が基準となりました。宮古島では、人頭税石というものが設置され、「石と同じ背の高さになると適齢に達したとみなされて課税された」と伝えられています。
人頭税石の隣りに立ってみました。これによると、MIYOも徴税対象になったようです。😅
年齢(15歳から50歳)ではなく、
身長で徴税を決めるというのは、
ひとたび石よりも背が高くなったら、
生きている限り徴税するということです。
恐ろしいですね…。
驚くことに、琉球王国から明治政府に支配が変わってからも、
この人頭税は続けられました。
男は粟、女は布を納めることとされ、
その過酷な税制と税の取り立てのために、
島の人々の衣食住は、
本州の乞食と変わらなかったそうです。
脱清人が活動していたのは1874年から1896年。
そして人頭税は、
明治政府(1868年)以後も続けられ、
1893年から廃止運動が起こり、
1903年に、ようやく廃止されました。
脱清人が清で活動した時代と、
人頭税が存続し続けた時代が、
ほぼ、重なります。
このことから、清国内での脱清人の活動を
20年以上も支え続けた莫大な資金の財源は、
士族階級が人々から過酷に取り立て続けた
人頭税であったのだろうと、
私は推測しています。
琉球王国の士族階級が、
自分たちの特権を守り続けるために、
明治政府になってからも、
30年以上もの間、人々を苦しめ続けたわけです。
ひどい話です。
7.戦後の沖縄(民族部門)
沖縄から海外への移民は、
1899年(明治32年)のハワイ移民(27名)から、
本格的にスタートしました。
過酷な税制が敷かれる中、
当時の沖縄が非常に貧しかったことが
主な理由のようです。さらに、
・土地を自由に売却できるようになったこと
・移民会社・移民指導者の存在
・徴兵忌避
などの、当時の社会を取り巻く環境が、
海外への移住を後押ししたようです。
明治32年から昭和13年の移住者数は72134名で、
昭和15年当時の沖縄県の人口で割ってみると、
実に沖縄県民の約12%が移住した計算になります。
そして第二次世界大戦が終わると、
・先に移住していた家族等からの呼び寄せ
・琉球政府による移住政策の推進
により、戦後移民の歴史がスタートしていきます。
海外における沖縄県系人の人口分布図です。米国と南米に特に多いことがわかります。
沖縄県人会は、現在も、世界各地で活動しているそうです。
「世界のウチナーンチュ大会」もあるそうです。これは、沖縄にルーツをもつ海外の沖縄県系人を招待して開催されるイベントです。1990年に第1回が開催され、その後、ほぼ5年ごとに、沖縄県の主導のもと、継続して開催されています。目的は、沖縄にゆかりのある人々を結びつけた国際交流ネットワークを作り上げることだそうです。
【戦後の移民】
戦後、初めて移民が送られたのは、昭和23年のアルゼンチンへの33名及びペルーへの1名でした。以後、戦後の移民は増加していきます。移住先での暮らしは、とても過酷なものだったといいます。が、そのような状況の中においても、多くの人が、稼いだお金を沖縄の家族へ送金し、その家計を支えました。また、戦後焼け野原となった沖縄に、いち早く救援物資を送ったのも、彼らだったのです。
常設展示室の中の7つのカテゴリーを、
(これでもかなり割愛しながら、😅)
ざっくりとご紹介しました。
次回からは、「沖縄の伝統とくらし」について、
もう少しお話したいと思います。
(つづく)