MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。

超未熟児で生まれた後遺症で、全盲難聴(盲ろう)となったのんたん、双子の妹あみちゃんと共に楽しく生きる家族のお話です。
子どもたちは24歳になり、毎日元気に楽しく暮らしています。
卵巣ガンになって思ったことも、少しずつ書き始めました。
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ベトナム家族旅行:
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台風でも沖縄。台風11号と共に、宮古島と沖縄本島を楽しむ9日間 10 - 台風なら博物館③ 沖縄県立博物館 常設展示室(沖縄の鐘、江戸上りと貢納布制作風景)(2022年8月31日/6日め)

2022年8月31日 沖縄県立博物館の前にある、ローソン 那覇上之屋店で。沖縄では、コンビニでも沖縄ならではの品をたくさん販売していて、見ているだけでも楽しいです。^^(沖縄県那覇市)


お知らせ1:
前日の日記に、「浦添ようどれ」の写真を追加しました。
台風でも沖縄。台風11号と共に、宮古島と沖縄本島を楽しむ9日間 9 - 台風だから博物館② 沖縄県立博物館 常設展示室(アサギマダラと進貢船)(2022年8月31日/6日め) - MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。

お知らせ2:
9月13日11:25のフライトで、釧路に行きます。ブログは、少しお休みをいただきます。


8月31日(水)


沖縄県立博物館・美術館の、
常設展示室に来ています。
展示は、以下のカテゴリーに、
分かれていました。


 1.海で結ばれた人々/シマの自然とくらし
 2.貝塚のムラから琉球王国へ(自然史部門)
 3.王国の繁栄(考古部門)
 4.薩摩の琉球支配と王国(美術工芸部門)
 5.王国の滅亡
 6.沖縄の近代(歴史部門)
 7.戦後の沖縄(民族部門)


3.王国の繁栄(考古部門)


前日のつづきです。


たくさんの鐘が並んでいました。これほど多くの鐘が展示されている博物館は珍しいそうです。戦争で、あるべき場所を失ったが故なのでしょうか…。


なかでも、
「これだけは見逃すな」と言われているのが、
これです。


旧首里城正殿鐘。(1978年 国指定重要文化財)

鐘の表面の大部分が黒くなっているのは、沖縄戦で火を受けたためと言われています。弾が貫通した穴などもあり、戦災を受けた文化財であることも、この鐘の特徴です。この鐘自体が、沖縄の歴史を物語っているそうです。


【旧首里城正殿鐘(万国津梁の鐘)】
尚泰久王の命によって、1458年に造られました。「万国津梁(しんりょう)の鐘」として知られる鐘で、王国の中心である首里城の正殿前に掛けられていました。銘文には、「琉球と朝鮮・中国・日本が友好であること」や、「琉球王国が船を操ってたくさんの国々(万国)の架け橋(津梁)となり、交易で得た異国の珍しい産物が国中にあふれていたこと」が記されています。(1978年 国指定重要文化財)


琉球王国の交易を支えた進貢船です。「万国津梁」ということばは、琉球王国の海外交易に対する強い気概を示すものでした。船の上ではためいているのはムカデ旗です。嵐を起こす神様がムカデを嫌ったことから、嵐に遭わないことを願って取り付けられました。

鐘と進貢船について説明した動画です。1:30を過ぎたところで、この鐘の音を聞くことができます。

おきみゅー 博物館常設展学芸員解説動画【歴史_琉球王国時代】


展示されている鐘の中には、戦勝記念品として、米兵がアメリカに持ち帰ってしまい、最近になって返還されたものが含まれています。

そのひとつが、この釣鐘です。2021年11月より公開されています。

(琉球新報 2021年11月3日 より)
沖縄戦当時、沖縄から持ち出され、米フロリダ州で保管されていた釣り鐘が沖縄に戻ってきた。2日、県立博物館・美術館で関係者が集いセレモニーが開かれた。釣り鐘は常設展示室入り口で展示される。
釣り鐘は、沖縄戦で米第10陸軍司令官を一時務めたロイ・ガイガー中将の孫娘のメラニー・カーティスさんが所有していた。返還交渉に当たった琉米歴史研究会の喜舎場静夫理事長によると、カーティスさんは当初、返還に難色を示していたが、首里城火災による多くの文化財の焼失を知り、返還を申し出てくれたという。
セレモニーで、学芸員らが輸送用木箱を開封すると、青緑色の高さ約66センチ、口径約36センチ、重さ約40キロの鐘が姿を現した。


【沖縄の文化財返還活動】
NPO法人琉米歴史研究会は、琉球・沖縄関連の文化財の返還に取り組んでいます。これまでに、旧大安禅寺鐘(1988年)、旧永福寺鐘(1989年)、旧大聖禅寺鐘(1991年)、間切図6枚(2003年)の返還が実現され、そのほとんどが国や県の指定文化財となりました。2021年より沖縄県立博物館に収蔵している、釣鐘と世持神社の木像(大黒様)も、同研究会の尽力によって返還された文化財です。


沖縄に返還された文化財の一覧です。

旧円覚寺楼鐘です。円覚寺は、尚真王が1942年から数年をかけて建立した、王家の菩提寺です。1496年に鋳造され、その後、1697年に再鋳造されました。それが現在の本鐘であり、現存する沖縄最大の鐘です。重さは1.9トンです。


夫に言われて、鐘の横に立ちました…。
写真を撮るときに、夫は私に、よく、
「ここに立って」と言います。
それは別に、ラブラブだからではなくて、😂
「MIYOが横に立つと、
 撮りたいものの大きさがよくわかるから。」
なのです。
MIYO家ではこれを、
「人間モノサシ」と呼んでいます。😅


さて、国が栄えていた琉球時代には、
美しい美術工芸も発展しました。


伊平屋の阿母加那志(あもがなし)の正装
阿母加那志は、尚円王の姉の名で、特別な神職についていました。花矢鶏の刺繍が施された紅の緞子(どんす)、金簪、勾玉は、尚円王から贈られたものでした。資料を基に、その姿を再現しました。

木綿白地流水蛇籠に桜葵菖蒲小鳥模様衣装(19世紀)
流水に菖蒲、燕、小鳥のデザインは、王家や士族の紅型によく見られる題材です。振りのある長袖(ながすでぃ)は、元服前の童子衣装で、この作品も芸能に関わる楽童子のものと伝わっています。


4.薩摩の琉球支配と王国(美術工芸部門)


島津軍の琉球侵攻後、琉球の尚寧王は、島津家久(薩摩藩初代藩主)にともなわれて江戸へ連行されます。1610年(慶長15年)に薩摩を発った一行は、大坂まで海路で移動し、陸路の東海道を使って8月には徳川家康の隠居地・駿府(静岡県静岡市)に到着しました。独立国である琉球に対して、徳川幕府は服属儀礼として使節を派遣することを求めました。この使節派遣を「江戸上り」といいます。
「異国風」の装いで行進しながら路次楽(るじがく:野外での琉球音楽)を演奏した琉球使節はいく先々で歓迎され、道中の村々の郷土芸能にも影響を及ぼしました。また、こうした文化交流によって、琉球には和歌や茶道といった日本文化がもたらされ、琉球独自の大衆文化を形成する一助となりました。


琉球使節の行程図
江戸上りは1634年(寛永11年)から始まったとされ、1850年(嘉永3年)まで、江戸時代を通じて合計18回実施されました。琉球使節団は200名規模で構成され、片道約2000km、往復およそ1年がかりの旅です。

琉球王国時代の役人の正装です(18世紀~19世紀)。帯を前で結び、筒袖の袖口が大きく開いているのが特徴です。生地は、芭蕉布というものが使われました。

頭に被っているものは、帕(はちまち)と言います。色は、紫、黄、青、緑、黒の6色で、身分によって被る色を変えることが、1524年に尚真王によって定められました。階級によって、冠の生地や模様も異なりました。このはちまちは、士族・百姓に問わず与えられました。


【貢納布】
貢納布とは、税として納めた上布のことです。琉球王国時代、近世の宮古・八重山などの離島では、貢納布が租税の基本となっており、その負担は、織物を行う女性たちに重くのしかかっていました。八重山には、蔵元絵師の描いた「八重山蔵元絵師画稿」という絵が残されており、当時の農民たちの働く様子を知ることができます。


「八重山蔵元絵師画稿」に基づいて再現された、貢納布制作風景のジオラマです。布ができあがるまでの手順を見ることができます。これがおもしろくて、つい見入ってしまいましまいました。^^

上布の原材料は苧麻(ちょま)という植物です。その茎から白い繊維が採れます。それを細く裂き、縒りながら繋いで長い一本の糸にしていきます。この作業を八重山では「ブーウミ」と言います。

苧績み(ブーウミ/糸づくり)作業です。繊維を細く裂き、一本の糸にしてゆきます。

経糸は、ピナシ(八重山)・カシギ(宮古)と呼ばれる用具(写真左)で必要分の長さと本数を整えます。その後、八重山の植物で藍、赤茶、黄色、紅色の絣模様に染色します。

織始めの検査を受け、合格したら、地機(ジーハタ)と呼ばれる織機で布を織ります。模様の難しいものを織る場合は、機織りの場所として、蔵元内の一角が当てられたようです。

織り終えるとまた検査です。御用布座で模様・長さ・幅が検査されます。

合格となったら、洗濯です。

布晒しが終わり、最後の検査が1月の初めから2月10日まで行われます。4月には、御用布櫃に納め、春立船で王府へ納めに行きました。


租税が布で取り立てられたことにより、
人々は布を作ることに追われました。
そのため、当時の沖縄では、
せっかく海に囲まれていたのに、
必要最低限の漁しか行わなかったそうです。


(つづく)

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