台風でも沖縄。台風11号と共に、宮古島と沖縄本島を楽しむ9日間 9 - 台風なら博物館② 沖縄県立博物館 常設展示室(アサギマダラと進貢船)(2022年8月31日/6日め)
2022年8月31日 1697年に鋳造された、旧円覚寺楼鐘です。重さ1.9トンで、現存する、沖縄最大の鐘です。(沖縄県那覇市 沖縄県立博物館)
8月31日(水)
特別展の見学を終え、
次は、1階の常設展示室に行きました。
展示「室」というと小規模のイメージがありますが、実際はとても広いです。
展示室の中心部は、7つのエリアに分かれています。「時間のない人は、これだけは見ましょう。」ということのようです。
そして各エリアの外側には小部屋があり、そのエリア(カテゴリー)に関するさらに詳しい展示があります。もっと知りたいと思ったエリアだけを選んで、時間をかけて詳細に見学することができるような構成になっています。
…とはいえ、
私たちの場合は、どのエリアも全部、
くまなく見学してしまうんですけどね。😅
中心部の7つのエリアは、
以下のカテゴリーで分かれていました。
1.海で結ばれた人々/シマの自然とくらし
2.貝塚のムラから琉球王国へ(自然史部門)
3.王国の繁栄(考古部門)
4.薩摩の琉球支配と王国(美術工芸部門)
5.王国の滅亡
6.沖縄の近代(歴史部門)
7.戦後の沖縄(民族部門)
それでは、順番に見ていきたいと思います。^^
1.海で結ばれた人々/シマの自然とくらし
*ここには、1万8千年前の日本人のルーツと目される「港川人」の展示があるはずなのですが、このときは特別展に移動していたようです。なので、一部、特別展の写真を掲載します。
右端が、「港川人」の頭蓋骨を複顔したものだそうです。
*奥の小部屋には、沖縄の動植物に関する膨大な展示がありましたが、ご紹介しきれないので、ぜひ、現地でご覧ください。^^
リアルに再現されている、海浜植物。真ん中に、アダンの実がありますね。^^
こんなふうに、照らし合わせながら見ることができます。
島が生んだ飛べない鳥、ヤンバルクイナ。
オリイオオコウモリ。琉球列島に広く分布するクビワオオコウモリの一亜種です。
アマミノクロウサギ。
アサギマダラ。香港・台湾から朝鮮半島や日本にかけて分布しています。
【旅するアサギマダラ】
沖縄では、夏に姿を消したアサギマダラが、秋に姿を見せるときにはぼろぼろになっているそうです。このことから、沖縄の長嶺邦雄さんが、「遠くへ移動しているのではないか」と推測しました。そこで、1980年代から、全国規模で「アサギマダラ標識再捕獲調査」を行った結果、春には台湾などから琉球列島を経由して本州へと北上し、秋には同じルートで島伝いに南下していることが明らかになりました。全国に散らばるボランティアの個人的な調査結果が、ネットワークで結びつけられ、大規模な移動生態の解明につながった、すばらしい事例です。
これは、福島県裏磐梯で見つけたアサギマダラです。このあとボロボロになりながら、沖縄まで飛ぶんですね…。^^(2020年8月13日 福島県耶麻郡北塩原村)
アサギマダラを見つけたのは、家族でトレッキングをしているときでした。長男は夫の肩に手をおいて、元気に登りました。愛おしい、夏の思い出です。^^
全盲難聴・のんたんの夏休み 9 - グランデコでトレッキング(2020年8月13日/6日め) - MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。
2.貝塚のムラから琉球王国へ(自然史部門)
グスク時代になり、それぞれの地域に有力者が登場するようになると、防御などを目的とした、さまざまなグスクがつくられていきます。また、有力者たちは中国への朝貢を通して文化の移入や交易に努め、富が築かれていきました。各地の勢力は、やがて北山、中山、南山の3つに収斂し、激しい抗争を繰り広げます。これらの3つの勢力は、15世紀はじめまでに尚巴志によって統一され、琉球王国が築かれました。ここからおよそ500年の長きにわたり、首里を拠点とする王国の歴史が始まります。
発掘された陶器が並んでいるエリアです。(画像をお借りしました)
浦添ようどれ1号石厨子。厨子の中に、英祖王の遺骨を洗骨して入れました。
【浦添ようどれ】
浦添ようどれは、英祖王統や尚寧王一族などの墓で、浦添城跡の北側に造られています。「ようどれ」は、「夕凪」がなまった言葉で、墓や極楽を意味すると言われています。墓室内には、洗骨した遺骨を入れる厨子があり、人骨とそれを包んでいた織物が見つかっています。
美しいレリーフが、くっきりと残っています。
3.王国の繁栄(考古部門)
琉球王国の時代に、中国との冊封・朝貢貿易を確立し、中国・日本・東南アジアをつなぐ中継貿易を行いました。東アジアの大海原の架け橋として船を操り、国際色豊かな産物が国中にあふれる様子が、旧首里城正殿鐘の銘文に謳われています。東アジア有数の貿易国家として繁栄したことにより、琉球王国では、より強固な国家体制が築かれました。
15~16世紀の海上交易図です。那覇は、中国・日本・東南アジアをつなぐ交易の拠点となって栄えました。
進貢船です。(縮尺10分の1で復元)
【進貢船】
中国皇帝への使者や貢ぎ物を載せた船のことです。およそ2年に一度の頻度で、那覇の港と中国・泉州や福建との間を行き来しました。大きさは一般に、長さ30m、幅8m、帆柱の高さ30mくらいだったようです。
左:船尾 右:船首
【進貢と進貢貿易】
進貢とは、中国皇帝に臣下として入朝し、貢納品を納めることです。琉球から中国に運んだ貢納品には、琉球特産の馬・硫黄のほかに、日本や東南アジアの品も含まれました。それに対して、皇帝からは何倍もの恩賜の品をもらうことができました。その貢納品を皇帝へ届ける役目を担ったのが、進貢使です。一度の進貢で、約200人の進貢使が進貢船に乗り、東シナ海を越えて福建に入港しました。そこから北京までは陸路で、往復6000キロに及ぶ旅でした。
(つづく)