コロナでもマシュキニ。増毛から留萌へ、ニシンの千石場所を歩く 20 - 旧花田家番屋⑤(はなれと便所)(2022年6月19日/3日め)
(2022/08/15 16:00記)
2022年6月19日 旧花田家番屋。この美しい姿を残してくれた小平町に、感謝です。(北海道留萌郡小平町)
6月19日(日)
旧花田家番屋で、
網元の居宅エリアを見学しています。
次は、エリアの一番奥にある、
「はなれ」を歩きます。
「はなれ」は、来客用の座敷でした。
建物全体にわたって、
襖の高さが現在のものよりやや低いのに対し、
はなれの天井だけは高くなっています。
書院造で、床の間と違い棚があり、
廊下側には付書院まで作られています。
網元の居宅エリアは、中庭を囲むように、コの字型になっています。「奥の流し(台所)」の隣りにある最後のスポットには、ふた間の「はなれ」がありました。
ふた間つづきのはなれです。欄間の美しいこと。^^
欄間を、カメが泳いでいます。
ふたつのはなれのうち、奥にある方の部屋です。この部屋には入ることができないので、隣室から写真を撮りました。この部屋に飾られている掛け軸「海鶴蟠桃(ばんとう)図」は、日本画家久保田金僊(きんせん)の作です。床の間の左に、付書院が設えてあります。この付書院を廊下側から見ると…、
こうなっていました。笑 小人が付書院を支えています。なんともかわいらしい。^^
もうひとつのはなれは、現在は展示室になっています。
この展示室のガラスケースの中に、前回ご紹介した、金唐革紙が展示されていました。
たくさんの三平皿もありました。料亭で使われたものから明治の鰊場のものまで、様々だそうです。
【三平皿】
昭和の頃の家庭には、普通に置いてあった小皿です。北海道では、このお皿に三平汁やクジラ汁などをよそって食べたそうです。汁を食べると言うよりは、「具を食べる」感じなので、お皿自体の深さはそれ程ありません。北海道では三平皿ですが、本州では膾皿(なますざら)と呼ばれているそうです。
最近は、三平皿のない家庭も多いと思います。
が、我が家にはたくさんあります。
買ったものは、ひとつもありませんが。笑
断捨離で処分する方が多いんでしょうか。
S園のバザーの食器コーナーに行くと、
不用品として寄付された三平皿が
たくさんあります。
そして購入する人もいないのか、
たいてい、大量に売れ残っています。😄
我が家の近所には、
こういう食器を玄関先に並べ、
「ご自由にお持ちください。」
と書いた紙を添えるお宅も、
時々見かけます。
そんな「売れ残り」や「処分品」を、
タダであれこれといただいてきたのですが、
そのたびに、夫には嫌な顔をされました。😅
「そんなの、持って帰ってどうするの?
どうせ使わないでしょ。」
と。
が、子どもたちが小さいころ、
この小ぶりの器は、離乳食を入れたり、
子ども用の食器にしたりと、
とても重宝しました。
子どもたちが成長してからも、
三平皿は、毎日、食卓に並びました。
全盲の長男と食事の練習をするときは、
おかずを一品ごとに分けて器に入れ、
長男が手探りでわかりやすいように、と
工夫していました。そのため、
小さい器がたくさん必要だったのです。
食事のたびに、テーブルには、
三平皿のような、小ぶりの器に入れたおかずを
たくさん並べました。
そして、食べる前に、器のひとつひとつを、
長男といっしょに触りました。
「これはポテトサラダ。」
「これはおひたし。」
「からあげだよ。」
などと話しながら、
今日のおかずはなにか。
それぞれは、どこに置いてあるか。
を伝えたわけです。
こうすることで、長男が料理の場所を把握し、
自分ひとりでも食べられるように、
という練習でした。
家の中の食事が、そのまま、訓練だった頃。
たくさんの三平皿が必要だったので、
あちこちから不用品をいただいてきた、
というわけです。
(ちょっともらいすぎたかもしれませんが。^^)
花田家番屋で、展示されている三平皿の、
そのレトロな絵柄を見て、
長男といっしょに毎日練習した日々を、
なつかしく思い出しました。^^
現在の長男は、
大きなプレートにまとめて盛ったおかずでも、
難なく食べてくれます。
ひとりでできることも多くなり、私も、
以前に比べると、ずいぶんラクになりました。^^
長男がS園に行ったので、出番は少なくなりましたが、我が家の三平皿は今でも健在です。
網元のプライベートエリアを、中庭から見たところです。右半分は、帳場などの3つの和室が並んでいるところ(ビジネスエリア)で、左半分ははなれ(プライベートエリア)です。
最後のスポットになりました。「はなれ」の奥の、トイレです。男性用と女性用がありました。
個室がふたつ並んでいます。ドアには、色ガラスがはめ込まれていました。(右の写真は、画像をお借りしました)
左側は女性用です。有田焼の便器で、絵柄は白地に藍色の花模様です。
そして右側は男性用です。ふたつの便器は同じようなテイストの絵柄で作られています。お揃いだったんですね。^^
こちらは、長野・田中本家博物館に展示されていたトイレです。同じ有田焼で、大輪の牡丹をあしらった絵柄など、花田家のものととてもよく似ています。(2021年3月21日 長野県須坂市)
トイレまで見たくなかった、
と思われた方には、申し訳ないです。
これはMIYO家の趣味なので、😂
撮らないではいられないんですよ…。😂
(スミマセン…。😅)
気がつくと、閉館時間を過ぎています。
慌てて、出口へ向かいました。
受付に座っていたおじいさん。
少しだけ、イネムリしていましたよ…。😅
見学してるの、私たちだけでしたから、
たいくつだったのでしょう。^^
おじいさんにお礼を言って、外に出ました。
こんなりっぱな番屋を、よくぞここまで残してくれたと思います。
玄関上部の破風に取り付けられた鬼瓦です。もしかしたら、木製なのかもしれません。丸二の屋号が見えました。
軒上の尖った装飾(フィニアル)は、西洋建築でよくみられるものです。が、番屋建築では珍しいのではないかと思います。
和風建築ですが、外観にはなんとなく洋風のテイストがあります。ガラス張りの2階、3階部分も、美しいですね。2階には、前浜の漁場の様子が見渡せる「見張り台」がありました。司令塔や商談の間として機能していたようです。かつてはここから、ニシンが群来る(くきる)のを見たこともあったのでしょう。
【旧花田家番屋のその後】
一獲千金にわいた道内のニシン漁は、戦後間もなく途絶え、花田家も漁から手を引きました。番屋は老朽化しましたが、1971年(昭和46年)、国の重要文化財指定を機に、小平町が買収。約1億9千万円を投じ、3年をかけて解体・修復しました。小平町では、「ニシンを煮て圧搾した〆粕(しめかす)は、日本の近代産業を支える重要な役割を果たした」と位置付けています。
小平町における往時のニシン漁の様子は、小樽市総合博物館運河館に展示されている「鰊盛業屏風(にしんせいぎょうびょうぶ)」(六曲一双)で知ることができます。日本画家久保田金僊(きんせん)の作で、花田家4代目の伝七が自分の漁場を描かせたものでした。網入れや網起こし、出荷までの作業が描かれており、1904年の米国・セントルイス万博にも出品されました。
「鰊盛業屏風」です。(小樽市総合博物館運河館蔵)
小樽市総合博物館運河館に行ったときの日記です。
コロナでもウポポイ2。札幌を拠点に3人で歩いた、3泊4日の北海道 36 - 小樽市総合博物館運河館(ニシンが経済を回した)(2021年6月28日/4日め) - MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。
花田伝作(初代)も伝七(4代目)も、
漁期以外の時期は小樽で過ごしました。
伝七は小樽の自宅に、
この鰊盛業屏風を飾っていたそうです。
その後屏風は、
親族が小樽市に寄贈しました。
多くの観光客が訪れる
小樽市総合博物館運河館で、
この屏風は、ガラスケースに入れて
大切に展示されており、
小平町を含めた道内のニシン漁の活気を
今に伝えています。
旧花田家番屋。
すばらしいところでした。
ほんとうに、来てよかった。
この貴重な番屋を残し続けてくれている、
小平町に、感謝です。
(つづく)
(おまけのお話)
スミマセン…と言いながら、
トイレのお話がさらに続きます。😅
当時、お金持ちの家では、
便器を有田焼で作るのが、
ステイタスシンボルだったのでしょうか。
この頃の家屋を訪ねると、
美しい便器が置いてあることは、
そう珍しいことではありません。
にしん御殿 小樽貴賓館(旧青山別邸)のトイレです。ほおずきの絵柄です。青山別邸は、ニシン漁で財を成した青山家の別荘でした。
これも、旧花田家番屋の便器と似ています。
便器も100年たつと、美術工芸品ですね。^^
はじめの頃は、凝った絵柄に驚きましたが、
最近は、古い家屋を訪ねたときに、
便器を見るのが楽しみになってきました。😄