MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。

超未熟児で生まれた後遺症で、全盲難聴(盲ろう)となったのんたん、双子の妹あみちゃんと共に楽しく生きる家族のお話です。
子どもたちは24歳になり、毎日元気に楽しく暮らしています。
卵巣ガンになって思ったことも、少しずつ書き始めました。
ベトナム日記は、
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をご覧ください。
ベトナム家族旅行:
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小学生だったころの子どもたちの育児日記は、こちらです。
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コロナでもマシュキニ。増毛から留萌へ、ニシンの千石場所を歩く 19 - 旧花田家番屋④(帳場、金庫の間、仏間、奥の流し)(2022年6月19日/3日め)

2022年6月19日 旧花田家番屋。網元一家のために使われていた食器です。(北海道留萌郡小平町)


6月19日(日)


旧花田家番屋に来ています。
右側の漁夫だまりエリアと台所を見終わり、
次は、左側にある、
網元の居宅エリアを見学します。
このエリアは、中庭を中心に、
コの字型になっています。
親方と家族の居住空間なので、
どの部屋も畳敷きであったのは
もちろんのこと、
柱などには、紫檀や黒檀などの
高価な材が使われました。


これまでは、漁夫だまりを中心とした
広いエリアを歩きましたが、
ここから部屋割りが細かくなるので、
文章だけではわかりにくくなります。
ということで、例によって、
平面図を利用しながらご説明いたします。


食器類をしまっていた棚部屋の向こうに、畳が敷かれた部屋が3つあり、茶の間、中の間(親方の間)、帳場と続いています。

この3部屋は、「にわ」と平行して並んでいます。

3つの部屋の真ん中にあるのが、「親方の部屋」でした。(奥に見えているのは茶の間です。)


3番めの部屋は出入り口の隣りにあります。
ここは帳場でした。


窓の外には、海が広がっています。番屋自体が、海に向かって建てられており、「玄関を出たらすぐにニシン漁」といった立地でした。

壁のアイテムをひとつひとつ見ていくのも楽しいです。^^

丸二の屋号が入った、花田家の半纏です。花田家番屋で、1913~1914年ごろに使用されたものだそうです。

この時計は、精工舎(現在のセイコー)が、大正15年~昭和12年ごろにかけて製造販売したものでした。価格は22円50銭くらいであると推定されています。大正15年の大卒公務員の月給が75円とされているので、一般庶民にはなかなか手の届かないものだったようです。


あはは。うちの会社のだ…。
(もう退職しましたが。笑)


電話機です。ダイヤルもプッシュボタンもありませんね。^^


【花田家番屋の私設電話】
電話が日本に入ってきた明治時代は、現在のような電話局はありませんでした。しかし、各地の金持ちは、自宅と営業所間に、こぞって私設電話を敷設しました。
花田家の古文書には、私設電話の工事着工を逓信省に報告した書類が残っています。それによると、私設電話の設置許可は1902年(明治35年)におりています。そのため、この番屋が建てられたのは1902年ごろではないか、という説もあります。
現在では、「花田家番屋は1905年ごろの建築」とされていますが、資料の整理が進めば、それよりも前の建築であることが判明するかもしれません。


次は、帳場の隣りにある、奥の間(金庫の間)に行きました。

「金庫の間」という名の通り、12畳の部屋の中には、金庫が置かれていました。親方の寝室としても使われており、それによって金庫の見張りも兼ねていたそうです。この部屋には、花田傳作・節子夫妻の肖像画のほか、具調度品、食器などが当時のままに残されています。

金庫の間の欄間です。


【旧花田家番屋の耐火金庫】
旧花田家番屋が解体修理を終えたあとの1976年(昭和51年)に、花田家の当主花田作蔵氏から寄贈されたものです。この金庫の製作時期は1905年(明治38年)ごろと推定されています。


床の間の反対側の襖には、派手な模様が施されていますが、これは金唐革紙(きんからかわし)です。日本郵船旧小樽支店(明治39年竣工)や旧岩崎邸(明治29年竣工)などでも使用されている、たいへん高価な紙でした。現在は、黒っぽい部分の色が抜けているのですが、もとは、金で草花が描かれた豪華絢爛な襖でした。この金唐革紙は、「金庫の間」だけでなく、隣りの「仏間」や2階の「商談の間」の襖にも使われています。
*2階には、前浜の漁場の様子が見渡せる司令塔『見張り台』や商談の間などがあるのですが、現在見学できるのは1階部分のみです。

金唐革紙の一部が、今もきれいなままに保管されていました。青い地色に、金色の草花がびっしりと描かれています。この紙が襖全体に貼られていたら、さぞかし豪華だったことでしょう。(丸い容器に入っているのは金粉で、金唐革紙の補修に使われたようです。)

金庫の間の隣りには、仏間があります。

仏間です。中央に大きな神棚が置かれています。この神棚の対面にある押入れの襖紙も、金唐皮紙でした。この部屋にも、りっぱな調度品が残っています。

今度は、エリアの反対側に行ってみます。仏間→金庫の間→帳場→親方の部屋→茶の間…と引き返して廊下を歩いた先に女中部屋があり、その奥に、「奥の流し」があります。ここは、親方と家族のための台所でした。

女中部屋です。親方家族の身の回りの世話をした女中の部屋でした。親方家族のための部屋はすべて畳敷きですが、この部屋だけは、板の間に筵(むしろ)敷きになっています。(画像をお借りしました)

「奥の流し」です。女中部屋の奥にある、親方家族のための台所です。

親方と家族のために使用した食器が置いてありました。漆器は、輪島塗など北陸を代表する工芸品が使われていたそうです。

当然のことではありますが、ヤン衆たちのものとはまるで違います。


次回は、「はなれ」をご紹介します。


(つづく)

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