MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。

超未熟児で生まれた後遺症で、全盲難聴(盲ろう)となったのんたん、双子の妹あみちゃんと共に楽しく生きる家族のお話です。
子どもたちは24歳になり、毎日元気に楽しく暮らしています。
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コロナでもマシュキニ。増毛から留萌へ、ニシンの千石場所を歩く 2 - 秋田藩増毛元陣屋跡②(2022年6月19日/3日め)

(2022/07/28 17:50記)

2022年6月19日 総合交流促進施設「元陣屋」で。1703年から開かれた増毛は、波が平穏で、豊富な水産資源に恵まれていました。(北海道増毛郡増毛町)


6月19日(日)


秋田藩増毛元陣屋跡に来ています。


1856年(安政3年)、秋田藩は増毛へ藩士を派兵するとともに、元陣屋の構築を開始しました。兵舎、武芸所、食糧庫、火薬庫、診療所などからなる、大規模なものでした。

この玄関から、中に入ることができます。

玄関を入ってすぐのところには、武具が展示してあります。そして、右側に座敷があります。

3人の秋田藩士が、故郷の家族から届いた手紙について話していました。

この人だけは、のっぺらぼうの顔面に顔が投影されて、セリフと共に表情が動くようになっていました。でもなんかお面みたいで、ちょっと違和感がありました。

表情が動かなくていいから、こんな人形の方がより自然だと思うのですが…。😅

1856年(安政3年)~1859年(安政6年)、秋田藩は、樺太全島守備の命を受け、宗谷出張陣屋を中継地として、3か所に出張陣屋を設置しました。3月~8月まで兵を派遣し、冬季は増毛元陣屋に引き揚げました。その後、北蝦夷地の守備は、秋田、仙台、庄内、会津の4藩となりました。1862年(文久2年)に会津藩が警備を免ぜられた後は、3藩の受け持ちとなります。秋田藩の北蝦夷地警備は、1866年(慶応2年)まで続けられました。

安政3年に増毛元陣屋で使用されていたものと同じ型の火縄銃(複製)です。(秋田県湯沢市指定有形文化財)

増毛元陣屋では、外敵に備えるために、台場を築き、ホオイッスル砲の他3基を設置しました。経済的に苦しかった秋田藩としては精一杯の努力でしたが、実際はかなり貧弱なもので、実戦には役にたたないものだったようです。しかし、増毛陣屋の最大の目的は、警衛というよりもむしろ「北方部隊の越年」でした。この地を守った藩士たちにとって、最大の敵は寒さとそれによる病であり、命を賭けての越冬生活でした。


【困難を極めた北蝦夷地警備】
苦労したのは秋田藩だけではなく、1807年には津軽藩が越年警備を行った記録があります。が、栄養失調のために半数(70余名)が死亡するという悲惨な事態となり、翌年には会津藩に交替したそうです。それでも、1809年からは、再び津軽藩が北蝦夷地の警備を行うことになりました。


増毛に設置された、津軽藩勤番越冬陣屋です。(1807年)

秋田藩増毛元陣屋です。建屋が多く、かなり大規模であったことがわかります。(1856年)


秋田藩の度重なる願い出を受け、
1867年(慶応3年)、幕府は、
秋田藩の蝦夷地警備を解きました。
これにより、12年続いた、
秋田藩の蝦夷地警衛が終わります。
そして同年10月、
徳川慶喜は大政奉還を行い、
ここに武士政治は終わりを告げました。


秋田県横手市のぼんでんが飾られていました。神祭用具の一つで、長い棒や竹の先に幣束を何本か取り付けたものです。年の初めに、「五穀豊穣・商売繁盛・町内安全」などを祈願し、奉納した大型の御幣の名残りと言われています。

続いて、増毛場所のジオラマが展示されていました。


【増毛場所】
増毛に場所が開かれたのは1703年頃で、当時は、ハママス、ポロトマリ、ベッカリ、ハシベツを総称して「マシケ場所」と呼ばれました。中でも、ポロトマリ(現在の増毛)は、港口が北向きのため、春から秋にかけては波も平穏な良港で、豊富な水産資源にも恵まれていました。
安政5年ごろから、福山、江差地方ではニシンが獲れなくなっていたことから、その地方の漁民は、近エゾ地や奥エゾ地まで追いニシン漁に出るようになりました。さらに、本州での肥料の価格が上がったため、増毛地方のニシン漁は大いに発展しました。


最盛期のニシン漁の様子を再現してあるそうです。

奥にある、一番大きい家が番屋ですね。よく見ると、右端に赤い鳥居の神社があります。手前には、ニシン漁の舟が並ぶ海岸と、後ろにはニシンの干場で働く人々が見えます。そして、海岸に並ぶ、とんがり帽子の小屋は、クチャのようです。

拡大してみると、3本の棒を基本に作ってありました。まちがいありません。


【クチャ】
アイヌ建築の特徴である「ケトゥンニ(三脚)」を基本構造とした小屋です。主として、狩小屋に使用されました。特別な材料を必要とせず、3本の棒を紐で結ぶだけで小屋の基本ができてしまうという、アイヌ独特の工夫でした。


クチャについて書いた、過去の日記です。
コロナでもウポポイ3。札幌2週間ホテル暮らし 63 - ウポポイ⑩(伝統的コタンとクチャ)/ Visaのタッチ決済(スマホ)がオトクです。(2021年11月7日/5日め) - MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。

コロナでもポロト湖。星野リゾート 界 ポロト スイートを無料で楽しむ 7 - とんがり湯小屋「△湯(さんかくのゆ)」(2022年6月20日/4日め) - MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。


かつてこの増毛の浜で、
アイヌの人々も働いていたのだなあ、
と思いました。
資料館の中のどこにも、
そんなことは書いていなかったけれど…。


次は、階段をあがって、
資料館の2階に行ってみました。


(つづく)

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