コロナでもウポポイ3。札幌2週間ホテル暮らし 60 - ウポポイ⑧(国立アイヌ民族博物館 - やはり知っておきたいこと)(2021年11月7日/5日め)
(2022/06/04 16:00記)
2021年11月7日 アイヌの首飾り。美しい球は、和人との交易によってもたらされた、江戸とんぼ玉でした。(北海道白老郡)
【お知らせ】
6月5日から、ブログは少しお休みをいただきます。
11月7日(日)
ウポポイのお話のつづきです。
前回は、アイヌ民族博物館1階の
基本展示室で、
「衣服と生活・儀礼の品々」について、
見学しました。
衣服の写真が多すぎて、
前回の日記で掲載しきれなかったのですが、
ウィルタや二ヴフの衣服も展示してありました。
ウィルタや二ヴフは、樺太の中北部から対岸のアムール川の中下流地域にかけて居住する人々です。なんとなくかわいらしいですね。^^
雰囲気が、ゴールデンカムイのアシリパちゃんに似てる感じがします。まあ、アシリパちゃんは、お母さんが北海道アイヌで、お父さんがポーランド人と樺太アイヌのハーフであるという設定なので、衣服に樺太のテイストがあっても、不思議ではありません。^^
この基本展示室では、
「ことば」「世界」「くらし」
「歴史」「しごと」「交流」
の6つの大テーマに関することを、
アイヌ民族の視点から紹介しています。
その中から、
特に私の印象に残ったものを選んで、
ブログに掲載していきたいと思います。
私的には、いちばん心に残ったテーマは、
「交易」「交流」「歴史」でした。
「交易」について、展示室では、
「アイヌ民族が大陸や和人と交易した品」
という切り口でまとめ、紹介されていました。
左:サンタンオブ/ヨマ(大陸から入手した槍先)
右:イクパスイ(儀礼具)
【17世紀~19世紀の和人との交易品】
サケ、コンブ、ナマコ、アワビなどは、和人が経営するようになった漁場でとられました。それらは、松前、箱館(函館)と大坂(大阪)を結んだ北前船で、和人社会へ、そして長崎からさらに中国へと運ばれました。対して、アイヌ社会には、漆器、鉄器、ガラス玉、米、酒、木綿などの製品がもたらされました。
和人との交易によって
アイヌの人々が得たものの中で、
代表的なものは、イクパスイです。
カムイに祈りを捧げるために使いました。
イクパスイ。漆器は、和人との交易などで苦労して入手したもので、カムイとの儀礼でも大事に扱われました。
さらに興味深かったのは、
「和人社会からきた衣服」が、
アイヌの伝統に深く入り込んでいたことです。
【和人社会からきた衣服】
儀礼のとき、男性は、和人社会から入手した小袖や陣羽織を上着に重ねました。小袖は、和服の原型になった衣服で、陣羽織は、鎧の上に着た衣服です。
頭には、儀礼用冠(サパンぺ)をかぶり、耳飾りをつけ、右肩からさげた刀掛帯(エムシアッ)、」儀礼刀(エムシ)を佩(は)いて正装としました。
陣羽織です。かつては武士が戦の時に来ていたものですが、交易によってアイヌ社会にもたらされ、正装となりました。
陣羽織を着て正装した男性です。(20世紀前半)
タクネブイコロ(短い宝刀)とタンネブイコロ(長い宝刀)
刀の装飾や耳飾り、首飾りといった金属製品は、日本や中国、ロシアなどとの交易によって入手しました。
アイヌ文化の装いを代表するタマサイ(首飾り)は、12~13世紀頃に誕生しました。和人社会から手に入れた、太刀の金具(足金物、七ツ金)や和鏡を鍔形(つばがた)に加工した金属板などが、ペンダントトップ(シトキ)に使われました。
また、「交流」という視点では、松浦武四郎は、欠かせない人物です。
【松浦武四郎】
三重県出身。16歳から日本の各地を巡り、名所史跡を記録しました。1845年~1858年、北海道や樺太を、最初は私人、4回目以降は幕命で、計6回調査しました。その成果は、「蝦夷日誌」などにまとめられています。
1869年(明治2年)に、開拓使の役人として、「北海道」のもとになる名称を提案しました。
1877年以降、アイヌ民族は、様々な博覧会に出場した記録が残っています。
明治記念拓殖博覧会に出場した、アイヌの人々。(1913年)
博覧会に出場したことが、
アイヌの人々の意志だったのかというと、
そうではなかったようです。
それは、写真と共に書かれていた
以下の説明文からもうかがえます。
【博覧会とのかかわり】
博覧会は、18世紀のヨーロッパにおいて、国家が産業や文化の発展を示す目的で始められました。日本では、1877年(明治10年)に、第1回内国勧業博覧会が開催され、それ以降、さまざまな博覧会が開かれてきました。その後、沖縄のほか、北海道、樺太、台湾の先住民族が、博覧会場で生活しながら自らの文化を紹介させられました。
違和感のある記述です。
やがて、見学を進める中で、
ひとことでは語れないような
残念な歴史があることが、
すこしずつわかってきました。
過去の痛ましい歴史を紹介する映像もありました。
1665年ごろ、和人とアイヌの交易レートは、「米30㎏(松前藩)=干鮭100本(アイヌ)」でした。
おおざっぱに言うと、
「干鮭100本=米一俵」という感じでした。
しかし、その米俵の大きさを
徐々に小さくするなどの不正が横行します。
最終的には、半分以下にまで、
一方的に不平等交換レートを設定し、
アイヌの人々を苦しめていきました。
また、
極端に安い賃金や劣悪な環境で
アイヌの人々を働かせるなど、
労働上の搾取や差別も行われました。
「同じ人間に対して
このようなことをしていいのか」
と、憤る松浦武四郎の記述が、
今も残っています。
このような状況の中で、
アイヌの蜂起が起こります。
蝦夷地時代、アイヌの反乱は数多く起こりました。
特にアイヌの人たちの怒りを買ったのは、
和人による不公平な交易でした。
1669年に起こった、シャクシャインの戦い。
指導者シャクシャインは、松前藩の和睦に応じ、松前藩陣営に出向いたのですが、和睦の酒宴で謀殺されました。
1789年には、さらに痛ましいことが起こりました。クナシリ・メナシの戦いです。
松前藩の指示で、長老が蜂起した若者たちを説得します。「投降すれば許す」ということばを信じて、アイヌ人37人が投降しました。が、彼らは、松前藩の鎮圧隊によって首をはねられました。この騒動によって、和人も71人が亡くなっているそうです。
この、能天気な旅行ブログで、
ここまで書いていいものか、迷いました。
けれど、いちばん残念だったのは、
このような歴史を、私自身が、
これまでなにひとつ知らなかった、
ということでした。
少なくとも私は、教わった記憶がありません。
同じ日本で起こったことなのに、
日本の教科書では、どうして、
このような事実を載せないのでしょうか。
そんなことを思い、このブログでは、
ほんのわずかな記述ですが、
このことをやはり書き残しておこうと、
そう思いました。
そして、こんな歴史を経た私たちは、
これからどうすればいいのか。
そんなことも考えました。
松前藩は、
ほんと、ひどいことをしてくれたなあ、
と思います。
ひとつひとつのできごとを知るにつけ、
心がちぎれそうになります。
でもこれは、松前藩だけの問題でもなく、
和人全体、ひいては、日本人の問題です。
その後の現在に至るまでの歴史も通じて、
日本人ひとりひとりが、
知っておかなければならないことではないか
と思いました。
帰り際に、博物館内で見た映画の最後で、
あるアイヌの方が、こう語っていました。
「過去には、残念な歴史もあった。
けれど私たちにはまだ、未来がある。
理解しあって、
共に未来を作っていきましょう。」
と。
その言葉に、救われるような思いでした。
「共に未来を。」
それが、このウポポイという場所が私たちに
いちばん伝えたかったことなのではないか。
そんな気がしています。
複雑な思いを抱えながら、
アイヌ民族博物館の展示室を後にしました。
(つづく)