MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。

超未熟児で生まれた後遺症で、全盲難聴(盲ろう)となったのんたん、双子の妹あみちゃんと共に楽しく生きる家族のお話です。
子どもたちは24歳になり、毎日元気に楽しく暮らしています。
卵巣ガンになって思ったことも、少しずつ書き始めました。
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ベトナム家族旅行:
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コロナでもウポポイ3。札幌2週間ホテル暮らし 37 - 北海道開拓の村⑨(旧大石三省堂支店、旧太田装蹄所、旧藤原車橇製作所)(2021年11月6日/4日め)

2021年11月6日 北海道開拓の村・旧田村家北誠館蚕種製造所で。(北海道札幌市)


中断していた、「北海道開拓の村」日記を再開いたします。
「市街地エリア」で、ひとつひとつの店舗や作業場を訪ねています。
今回は、お菓子屋さん、蹄鉄屋さん、ソリ屋さんです。


11月6日(土)


市街地エリアでは、通りに沿って、
いくつもの店舗や家屋が建ち並んでいます。
その通りの右側をまっすぐに進みながら、
順番に、建物をご紹介しています。
ここで気になるのが、通りの左側です。


通りの左側にも、このとおり、たくさんの建物が並んでいます。


すごいでしょう?笑
市街地エリアでは、ほんとうに、
ひとつの町ができあがっているのです。


こういう建物を見ていると、
つい、入ってみたくなるのですが、
はじめに、多動夫には、
「見学するのは通りの右側だけ。
 絶対に、左側には入らないこと。」
と、固く言い聞かせてありました。


もうね。
これだけたくさんの建物が並ぶ中、
右に左に、ジグザグに歩いた日には、
どこまで見学したのか、
わけがわからなくなりますよ、絶対。笑


なので、まずは、通りの右側に並ぶ建物を、
順に見て歩こうという段取りです。
もちろんそのあとは、
左側に並ぶ家々を見学する予定です。
…なのですが、
見学スポットが多すぎるんですよね…。😅
はたして、
今日一日で全部見ることができるのか、
だんだん微妙になってきました。


とりあえず、次の店舗を見学します。


旧大石三省堂支店です。


【旧大石三省堂支店】
菓子職人の家に生まれた大石泰三が、札幌で菓子製造の技術を習得したあと、1925年(大正14年)に、帯広町の繁華街電信通りにこの店舗を求め、菓子の製造販売を始めました。この店は、親子二代にわたり、昭和30年まで続きました。店舗兼住宅の母屋とそれに併設する工場とを再現しています。


中に入ると、ガラスケースやガラス瓶に入れられて、たくさんのお菓子が並んでいました。見ているだけでうれしくなります。^^

ブリキのお菓子入れですよ。^^

私が小さい頃は、結婚式の引出物に、こういうお菓子が必ず入っていました。

そしてこれはタイヤキですね。^^

家の中を歩いてみます。

いちばん奥は、菓子を作る工場になっています。

お菓子を作る木型です。

焼き型もたくさんありました。^^


市街地に並ぶ家屋は、一軒一軒、
生業(なりわい)ごとの特色があって、
どこに入っても、とても楽しく見学できました。^^
次は、旧太田装蹄所です。


旧太田装蹄所


【旧太田装蹄所】
1924年(大正13年)から1945年(昭和20年)まで、札幌市街の江別方面に通じる幹線道路(今の国道12号)沿いで営業していた装蹄所を再現しました。蹄鉄屋の名で親しまれていた装蹄所は、馬が物資運搬や農耕の主役であった時代にはどこの町や村にもみられ、馬蹄の保護には欠かせない職種でした。


入口を入るとすぐに、仕事場があります。(画像をお借りしました)

仕事場の奥に、家族の住まいがありました。

旧藤原車橇(しゃそり)製作所です。

屋根の上に、車橇と車輪を飾ってあります。これが看板代わり。^^


【旧藤原車橇(しゃそり)製作所】
兵庫県出身の宮大工・藤原信吉が、車橇(そり)製造のために作った工場兼住宅です。信吉は、1898年(明治31年)、深川に入植し、1903年(明治36年)には雨竜郡妹背牛町で車橇製造を開業しています。以後、3代にわたり営業を続けました。この建物は、開業以来使われてきた車橇製作所を再現したものです。作業場と住宅から成り、木造切妻平入りの構造です。


この作業場では、1903年(明治36年)から1963年(昭和38年)まで、車橇が製作されました。写真は、馬橇の柴巻作業を行っているところです。

金輪馬車の車輪の組み立て作業を行っています。

釜に蒸籠を載せてあります。これは、柴木をふかす道具でした。

柴巻馬橇の台木の鼻曲げ作業を行っています。

鍛冶場が設けられたのは、開業から5年後。1908年(明治41年)のことでした。


【北海道の車橇】
明治のはじめ、本州から入植した人たちが北海道で生活を始める前に、ロシアで、寒冷地での生活を調査したそうです。その際、馬車や雪上ソリを使っているのを見たことから、広大で雪の多い北海道での交通・輸送に適しているだろうと考えました。そして、ロシアから馬車とそりを持ち帰り、日本で作ってみたのですが、木を曲げる作業がうまくいかなかったそうです。そこで、ロシアから職人を呼び、作り方を学びます。こうして、北海道のソリは、ロシアのソリをもとに改良を加え、北海道にあったものへと変化していきました。


別棟もある、広い製作所でした。当時の北海道では、ソリがなくてはならないものであり、とても繁盛していたことがうかがえました。

次は、通りの右側でいちばん最後にある、旧本庄鉄工場に行きます。


(つづく)

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