MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。

超未熟児で生まれた後遺症で、全盲難聴(盲ろう)となったのんたん、双子の妹あみちゃんと共に楽しく生きる家族のお話です。
子どもたちは24歳になり、毎日元気に楽しく暮らしています。
卵巣ガンになって思ったことも、少しずつ書き始めました。
ベトナム日記は、
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ベトナム家族旅行:
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小学生だったころの子どもたちの育児日記は、こちらです。
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コロナでもウポポイ2。札幌を拠点に3人で歩いた、3泊4日の北海道 15 - 博物館網走監獄⑦(舎房及び中央見張所②)(2021年6月27日/3日め)

2021年6月26日 「ファーム富田」で、ラベンダーの入浴剤を買いました。(北海道空知郡中富良野町)


6月27日


「博物館網走監獄」で、
もっとも有名なスポットである、
「舎房及び中央見張所」
に来ています。


中央見張所を中心に、
放射状に伸びる五つの舎房を、
順に歩きました。


第一舎です。ここは雑居房です。

雑居房舎です。通路の両側には、木製の壁があるように見えるのですが…、

少し立ち位置を変えると、この通り。木を微妙にずらして取り付けてあるため、房の中が丸見えになります。独特の、菱形斜め格子の構造です。


【菱形斜め格子構造】
暖房、換気、通気、監視を兼ねた独特の構造です。収容者同士は向かい合う部屋の内部を覗くことができないのですが、廊下に立つ看守からは両方の部屋の監視ができるように工夫されています。


中をのぞくと、右奥にトイレがありました。つい先ほど訪れた「旧網走刑務所 二見ヶ岡刑務支所」では、部屋の隅にトイレ用の木箱が置いてあるだけでした。が、少し時代が後になり、ここでは、トイレは一応個室になっています。でも、ガラス越しに中が見えますね。😅

舎房の扉です。網走刑務所の建物には、簡単に脱獄できないように、様々な工夫がなされています。舎房扉の視察孔にはめられた鉄格子もそのひとつで、破壊ができないように、二重ボルトで締められています。しかし、長い歴史の中で、ただひとり、この鉄格子を破壊して脱獄した人物がいました。昭和の脱獄魔・白鳥由栄(しらとりよしえ)です。


【昭和の脱獄魔・白鳥由栄】
青森県出身。網走を含む4つの刑務所で脱獄を繰り返したことから、「脱獄魔」と呼ばれました。昭和18年4月、網走刑務所に移された白鳥は、手錠を3度破壊しました。網走刑務所は、特別製の手錠・足錠を使用します。さすがにこの後は次第におとなしくなったので、4か月後、足錠が外されました。しかしそれは、監視の目を欺くための策略でした。彼は、扉にはめられた視察孔の鉄格子を根気よく揺すり続け、ねじを緩めていたのです。
昭和19年8月、灯火管制による暗がりを利用し、白鳥は、鉄格子を鉄の枠ごと外し、狭い視察孔からくぐり抜けて、舎房を脱出しました。廊下に出てからは、さらに、天窓のガラスを頭突きで破って逃走しています。
その後、第24房は、他の部屋と異なり、床が強化され、二重張りになっています。使用された板は、硬材質のヤチダモ材で、容易に切断できないようになっています。これは、白鳥を脱獄させないために施された改造でした。
彼の脱獄事件は有名で、昭和58年に、吉村昭氏が事件を題材にして書いた「破獄」は、ベストセラーになりました。


第一舎のつきあたりまで歩いてから、中央見張り所まで引き返しました。このような形態を、五翼放射状平屋舎房というそうです。


【五翼放射状平屋舎房】
明治政府は近代的獄舎の建設を進め、イギリスを中心に定着していた放射状型獄舎を導入宇しました。網走刑務所は、ベルギーのルーヴァン監獄を模倣して建築しています。
五棟が放射状に建てられ、中央見張り所で連結しているため、226室の舎房を効率よく管理できました。また、天井に埋め込まれた採光窓ガラスから光が差し込み、衛生面など、随所に利点がありました。この舎房は、1912年(明治45年)から72年にわたって使用され、195年(昭和60年)に、博物館網走監獄にに移築復元されました。2005年(平成17年)、重要文化財に指定されました。


次は、第一舎のとなりの第二舎を歩きます。ここも雑居房です。天井の明かりとりから光が差し込み、通路を照らしていました。

雑居房です。造りは、第一舎とほぼ同じです。が、少しあとの時代で再現されているようです。トイレのガラスは、すべてすりガラスになり、中が見えにくくなっています。

ここも、つきあたりまで歩きました。重厚な雰囲気でありながら、繊細さも感じられる、美しい設計です。

第三舎です。やはりここも雑居房です。

さらにあとの時代を再現しているようです。ここでは、雑居房の扉に、このようなプレートが付けられていました。これは、給食を配食する際に使われました。1970年(昭和45年)に舎房給食となり、「2等食」「3等食」「4等食」「混炊(白米と麦の粥)」が個別に決められて房に配食されるようになりました。そのため、各房ごとに、配食数を記入していたようです。

第四舎です。ここには、80の独居房があります。


【独居房】
規則違反をした者や他の受刑者と一緒に生活できない受刑者を、独居房に入れました。他者との接触を断つのが目的なので、格子は矢筈格子になっており、部屋の中から廊下が見えないようになっています。が、わずかの隙間からは暖房の温もりが伝わるようになっていました。また、雑居房の扉は木製でしたが、独居房の扉には鉄製になっています。


第四舎には、こんなふうに、独居房が並んでいます。房室の廊下壁には、格子を「く」の字に曲げた独特の細工が施されています。収容者に部屋の中から廊下を見せないようにし、かつ、廊下からも部屋を見せないようにしながら、廊下の暖気を部屋の中に入れることができるようになっていました。

独居房の広さは約3畳です。奥にトイレがあり、板で囲われています。

鉄製の扉です。扉の上の明かりとりにも、鉄格子がはまっています。

独居房の内部に人形が置かれていました。表情がリアルです。

封筒貼りの作業をしていました。


「そこに立って。」
と夫が言いました。
いつものように、
私の写真を撮ろうとしたのです。
でも、
「ここでは撮られたくない。」
と、拒否しました。
「じゃあ、オレの写真を撮って。」
と…。


一応、撮りましたが…。


いや、違う。
ここは、こんな写真を撮るとこじゃない。
ピースなんかするなよ。😔😔
…と、複雑な気持ちでした。
(だったら撮るな、
 と言われそうですが…😅)


(つづく)

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