MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。

超未熟児で生まれた後遺症で、全盲難聴(盲ろう)となったのんたん、双子の妹あみちゃんと共に楽しく生きる家族のお話です。
子どもたちは24歳になり、毎日元気に楽しく暮らしています。
卵巣ガンになって思ったことも、少しずつ書き始めました。
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コロナでも足利。織姫神社と足利学校を訪ねて 8 - 鑁阿寺(御霊屋から北門へ)(2021年4月30日)

2021年4月30日 鑁阿寺・北門。(栃木県足利市)


4月30日


足利学校のすぐ隣りにある、鑁阿寺。
なにも知らずに来てしまったのですが、
見どころが多いお寺でした。


左は不動堂、右が経堂。後ろに見えているのが大イチョウです。


ここから、さらに奥へと歩きます。
最期に訪れたのは、
北門に寄り添うように並ぶ、
お堂のエリアです。


このエリアを、左端から右方向へ、一気に歩きました。


まずは、このエリアの左端にある、御霊屋(おたまや)。非公開なので、中に入ることはできません。


【御霊屋(おたまや)】
足利氏歴代将軍を祀っています。丹塗りの塀に囲まれた赤い御堂で、赤御堂とも呼ばれています。創建は鎌倉時代と推定されています。現在の建物は、徳川幕府11代将軍家斉の寄進により再建されたものです。
本殿には、源氏の祖を祀り、拝殿には足利15代将軍像を祀っています。裏手には、鑁阿寺開基・足利義兼の父と祖父の墓があるそうです。


塀の内側には、朱塗りのお堂が並んでいました。

さらに歩きます。御霊屋の右隣りにある、大酉堂(おおとりどう)です。


【大酉堂】
室町時代に建てられたもので、元々は、足利尊氏の御霊屋でした。明治時代に入ると、尊氏に対して、「天皇政治を打破し武家政権を樹立した逆賊」との見方が強まりました。そのため、この御霊屋で祀っていた木像尊氏像を本坊に移し、このお堂の本尊を大酉大権現と改め、名を「大酉堂」としました。(これとは逆に、建武の新政に尽力した楠正成や新田義貞などは、神として祀られました。)

現在の大酉堂は、1917年(大正6年)に大改修したもので、入母屋、瓦葺き、桁行2間、正面に向拝が付いています。


中に御霊を祀っただけなのに、
そのことが、時代と共に、
都合が悪くなるとは…。
なにも、そんなに右往左往しなくても、
尊氏さんの木像くらい、
静かに飾っておいてあげなさいよ…
と思ってしまいました。😅😅


さらにその隣りにある、大黒堂(校倉)。


【大黒堂】
1432年(永享4年)に公文所奉行が再建したと伝えられていますが、棟札には、1752年(宝暦2年)に満慶上人が建てたとあります。本尊の大黒天は、「足利七福神」の1柱に選定されています。外壁が朱色に塗られ、建築は寄棟の校倉造です。そのため、「校倉」とも呼ばれています。校倉造とは、角材を水平に積重ねて壁面を造り、角で角材を交差させる工法です。大黒堂では、三角形の角材を重ねている為、断面が鋸状に見えます。
大黒堂は、江戸時代中期に建てられた数少ない校倉造建築の遺構として貴重なことから、足利市指定有形文化財に指定されています。


大黒堂の隣りに立つ、分福観音。その手前には、観音様を守るかのように、庚申と刻まれた石がたくさん並んでいました。

エリアの右端にある、蛭子堂(ひるこどう)です。ようやく最後のスポットに来ました。😂😂

蛭子堂(ひるこどう)。扉にかけられているのは、赤ちゃんのよだれかけです。


【蛭子堂(ひるこどう)】
創建年は不詳で、元は薬師堂だったと伝えられています。足利義兼の正妻北条時子(北条時政の娘)を祀っており、法名から智願寺殿とも呼ばれています。
義兼が鎌倉出府の際に、北条時子が花見に出かけ、生水を飲んだところ、次第に腹が大きくなり妊婦のような姿になったそうです。鎌倉から帰った義兼がその姿を見て、「時子が不義密通した」と勘違いしました。時子は、「死後わが身体をあらためよ」と言って自害してしまったのですが、死体を改めると、時子の腹からは無数の蛭が出てきたそうです。この伝承から、安産の神として信仰され、多くの妊婦が参拝に訪れています。

蛭子堂は、江戸時代中期に建てられた御堂建築の遺構として貴重な事から、足利市指定有形文化財に指定されています。


この言い伝えを読み、
つい反応してしまった、私たち。


み「生水を飲んでお腹が膨れて、
  腹を裂いたら無数の蛭が出た…
  って、多分コレ、
  ヒルじゃなくて寄生虫だよね?
夫「んだんだ。😄😄」


この言い伝えから、どうして、
「安産の神」となってしまうのか…?
よくわかりません…。😅😅


寄生虫が大好きな夫が見つけて来た「目黒寄生虫館」のお話はこちらです。


さて、北門まで来ました。


【北門】
1845年(弘化2年)に再建されたもので、当初は塔中十二坊の筆頭千手院の山門でした。薬医門としては比較的規模が大きく、江戸時代後期の典型的な形式を継承する建物です。1987年に、足利市指定有形文化財となりました。


お堀には、カモが泳いでいました。寺の周囲に堀をめぐらせているのは、足利氏のお館だったころの名残りです。


これで、鑁阿寺の見学が終わりました。
次はいよいよ、
楽しみにしていた織姫神社へ向かいます。


(つづく)


(おまけ)


足利学校の入徳門をくぐると、
次の学校門まで、
通路の両側に行灯が並んでいました。
「これはなんだろう?」と思っていましたが、
最近になって、その行灯に
灯がともっている写真を見つけました。


通路の両側に並ぶ行灯。

コロナでも足利。織姫神社と足利学校を訪ねて 1 - 足利学校(入徳門と学校門)(2021年4月30日) - MIYO'S WEBSITE-全盲難聴のんたんの育児記録と卵巣ガンで思ったこと


こんなふうになるんだそうです。足利銘仙柄の行灯が、幻想的ですね…。^^(画像をお借りしました)

同じとき、方丈の前には、たくさんの和傘が並びました。(画像をお借りしました)


これは、数年前に開催された、
イベントの写真で、このときは、
夜間に入場することができたそうです。


美しいイルミネーションは、
日本が平和だったころの風景でした。
コロナ禍の今、日本は平和ではないと、
しみじみ思います。


現在のワクチンは、重症化を防ぎますが、
感染防止効果はないのだそうです。
ワクチンを打っても打たなくても、
コロナには感染するし、
感染させるということのようです。


3回接種が進んだイスラエルでは、
またも感染爆発が起こりました。
4回目を準備しているそうです。
いったい何回やるのでしょうか。
いまだに、コロナの終わりが
見えてきませんね…。


今はたいへんな状況ですが、何年か後には、おそらくなんらかの形で、「ウィズ・コロナ」が定着していることでしょう。その頃には、再び、この光景が見られることを願っています。(画像をお借りしました)


誰もがのんきに旅ができたのは、
平和であればこそ、でしたね。
今の私たちは、
どうにか旅は続けているけれど、
心中では常に、
「うつさない、うつらない」を
心にとめています。
緊張感を持ちながらも、
できる範囲で楽しむ…。
そんな、私たちなりの旅を続けながら、
一年あまりが過ぎてしまいました。

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