MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。

超未熟児で生まれた後遺症で、全盲難聴(盲ろう)となったのんたん、双子の妹あみちゃんと共に楽しく生きる家族のお話です。
子どもたちは24歳になり、毎日元気に楽しく暮らしています。
卵巣ガンになって思ったことも、少しずつ書き始めました。
ベトナム日記は、
http://limings.muragon.com/tag/?q=2019%E5%B9%B49%E6%9C%88-10%E6%9C%88%E3%80%80%E3%83%99%E3%83%88%E3%83%8A%E3%83%A0&p=4 
をご覧ください。
ベトナム家族旅行:
https://limings.muragon.com/tag/?q=2017%E5%B9%B412%E6%9C%88%E3%80%80%E3%83%99%E3%83%88%E3%83%8A%E3%83%A0
小学生だったころの子どもたちの育児日記は、こちらです。
http://limings.sweet.coocan.jp/

コロナでも足利。織姫神社と足利学校を訪ねて 1 - 足利学校(入徳門と学校門)(2021年4月30日)

2021年4月30日 足利学校・入徳門で。(栃木県足利市)


4月30日


茨城県の藩校・弘道館を訪ねて、
その一週間後には、
足利学校に行ってました。😅
もう、藩校三連発ですね。爆
まとめると、こうなります。


会津藩校・日新館(4月10日 福島県会津若松市)
広大な敷地に、日本最古のプールといわれる水練場や天文台までをも備えた、全国有数の藩校。
水戸藩校・弘道館(4月23日 茨城県水戸市)
日本最大規模の総合大学とも言える学校。

足利藩校・足利学校(4月30日 栃木県足利市)
日本最古の学校。室町時代から戦国時代にかけては、関東における事実上の最高学府。


4月23日に弘道館に行ったあと、
「そのうち、足利学校にも…」
とは思っていたのですが、
急遽、一週間後に行ってしまったのは、
またまた、フウさんのブログを
拝見したからでした。


4月25日のブログで、足利学校と織姫神社を紹介しておられます。


足利学校の近くに、織姫神社というのがあり、
鳥居が七色なんですって。
なんか、かわいらしいんですよ…。^^
これを見たら、もう、
すごーく行きたくなってしまったんです。笑


フウさんのブログをきっかけにおでかけするのは、
埼玉・聖天宮に続いて、2回めです。


聖天宮の日記です。


もうね、私たちって、
フウさんのおっかけというか、
ストーカーみたいですね…。😅
フウさん、スミマセン。


…ということで、なんだか、
「織姫神社のついでに足利学校」
みたいになってしまいましたが、笑
栃木県足利市にある、
足利学校に行ってきました。


駐車場に車を停めて、足利学校に向かって歩きます。なにか見えていますね。

え…。まさかの、茅葺き屋根ですか?

瓦葺きじゃないんですね。なんか味があって、ワクワクしてきました。^^ ちなみに、この歩道橋もすてきです。

学校の敷地に沿って歩きました。武家屋敷なんだか、豪農のお邸なんだか、よくわからない雰囲気です。

こんなふうに、街中にすっかり溶け込んでいます。

近くで見ると、こんな感じです。

その住宅街にも、古そうな建物がいくつも残っています。これは、蔵だったのでしょうか。

ようやく、入り口に着きました。


【足利学校】
日本最古の学校
として知られ、大正10年に国の史跡に指定されています。
足利学校の創建については諸説ありますが、その歴史が明らかになるのは、室町時代からで、1439年(永享11年)、関東管領・上杉憲実(うえすぎのりざね)が、学校を再興してからです。
応仁の乱以後、引き続く戦乱の中でも、足利学校は続き、学徒3000と言われるほどに隆盛します。1549年(天文18年)には、フランシスコ・ザビエルにより「日本国中最も大にして、最も有名な坂東の大学」と世界に紹介されました。が、江戸時代の末期には「坂東の大学」の役割を終えました。一時は藩校にもなったのですが、1872年(明治5年)に、その幕をおろしました。
廃校後、孔子廟などわずかな建物を残すのみとなった時代もありましたが、有志による保存運動が展開され、1990年(平成2年)に方丈や庭園が復元されました。
足利学校の精神は、郷土のシンボル、心のよりどころとして、足利市民の中に連綿として生き続けています。現在は、生涯学習の拠点とされ、教育委員会によって管理されています。


入徳門です。


【入徳門(にゅうとくもん)】
足利学校に入る最初の門です。1668年(寛文8年)、徳川幕府第4代将軍家綱の時に創建されましたが、1831年(天保2年)の火災により焼失しました。1840年(天保11年)頃に修築し、その後明治の中頃に裏門を移転修築したと伝えられています。


扁額「入徳」は、紀伊徳川家第11代藩主大納言徳川斎順(とくがわなりゆき:1801~1846)の書です。

門を入ったところで、入場料を支払い、入学証をいただきます。笑

足利学校の入学証です。学校の畳の上に置いて撮りました。

孔子立像です。このあたりに、ボランティアガイドさんのデスクが設置されています。


ボランティアデスクには、
数人のガイドさんが待機されていて、
「ガイドはいかがですか? 無料ですよ。」
と、声をかけていただきました。
最近、あちこちの観光スポットで、
ボランティアガイドさんを
見かけるようになりました。
みなさん、無料で、
懸命にガイドしてくださいます。
頭がさがります。


せっかくなので、お願いし、
ここからは、
ガイドさんと3人で歩きました。


ボランティアガイドさんといっしょに。ありがとうございました。(この写真を撮るときだけ、マスクをはずしていただきました。)

次の門が見えてきました。美しい行灯がならんでいます。

学校門です。1668年(寛文8年)に創建され、現在、足利学校の象徴的な門となっています。

扁額「學校」の文字は、明の書家 蒋 竜渓(しょうりゅうけい)が来日した時の書を、当時の江戸国史館助教授の狛高庸(こまたかやす)が縮模したものです。

さらに歩き続け、孔子廟の門である、杏壇門に着きました。


ここまでだけでも、なんだかずいぶん
歩いてきたような気がするのですが…。


足利学校の全体図から見ると、まだほんのコレだけでしかありません。


学校だけあって、
日新館、弘道館と、広大でしたが、
足利学校も、広いです。😂😂
今回もまた、さんざん歩きそうですね…。
ほんと、思いますよ。
多動夫との旅は、体力勝負だな、って。😭😭


(つづく)

×

非ログインユーザーとして返信する